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05.愚かな娘は、素敵な景色を見る

 エリックとオリヴィアの会話を偶然耳にしてしまった日から一〇日が過ぎた、その日の朝──アイラは黎明の空を眺めながら静かに心を決めた。


 その決意は、真っ赤に燃えるような朝焼けに励まされたからでも、心を動かされて背中を押されたからでもない。


 本当は、一〇日前にはすでに答えが出ていた。


 その決意をじっくりと咀嚼し、飲み込むまでに時間がかかっただけで、『しない』という選択肢など、初めから存在していない。




 ◇◇◇




 アイラは、一〇日ぶりにエリックと顔を合わせた。


(やっぱり、素敵な人)


 エリックに対して、怒りは湧いてこない。

 これから先も、彼に対してそのような感情が生じることはないだろう。それが、アイラの心に芽生えた確信だった。


「アイラ、久しぶりだね」


 エリックは、以前そうしたようにアイラの頬に指先を添えた。

 叩かれた形跡がないか、探しているのだろう。

 これが『心配している演技』だったとしても、嬉しいと思う。


「心配したよ。風邪と聞いたけど……大丈夫?」

「ええ、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません。熱が出るとなかなか下がらない体質でして」


 あの日、貯蔵室から逃げ出して以来、アイラは三度エリックの面会を断った。


 オリヴィア曰く、父の悪事の証拠を早く見つけなければエリックの立場が危ういらしいが、そこは許してもらおう。


(でも。……きっと、許してもらえるはずよ……だって──明日には、あなたを解放してあげられるのだもの)


 それに、嘘は一つも吐いていない。

 実際熱が出たので仮病ではないし、熱を出すと長引く体質というのも本当だ。


 アイラは、父を意図的に怒らせ、鞭に打たれることを選んだ。


 父は激怒し、躊躇する側仕えから鞭を奪い、自らアイラを打ち据えた。

 あのときの父は、我を忘れるほどの怒りに支配されていた。

 だが、ふと我に返ると、エリックの存在をやっと思い出したのだろう。

 青褪めた顔で娘を見下ろすその目には、過去に鞭に打たれたアイラが高熱で寝込んだことをも思い出した気配が見て取れた。


 結果、案の定アイラは熱を出して寝込むことになった。

 父はそれを『風邪』だとエリックに説明したようだが、アイラ自身は『熱が出た』とだけ言い直したので、アイラが嘘を吐いたわけではない。


 これまで散々嘘をついてきたし、これからもつく。

 それでも、エリックにだけは、できる限り嘘をつきたくなかった。


「エリック様。今日は領を見て回りたいのですが、お付き合いお願いできますか?」


 アイラの誘いに、エリックは「もちろん」と言ってから、「でも、病み上がりだよ? 歩き回らないほうがいいんじゃないか?」と言って難色を示した。


「また熱を出したら大変だ」

「……そう、ですね」


 もしかしたら、彼は忙しいのかもしれない。

 それか、アイラの御守(おも)りが嫌なのかもしれない。


 エリックとオリヴィアの会話を聞く前の自分であれば、『彼に心配されている私』という状態に浸っていただろう。

 しかし、現実を知り、幻想を捨て去った今、彼の言葉をそのまま受け入れることはない。


 もう、甘い夢を見ることはないのだ。


(でも……)


 最後に、彼と二人で歩きたかった。


(思い出がほしかった……)


 これからの行動が成功しても失敗しても、故郷を堂々と歩けるのは、今日が最後になる。


 だから。

 せっかくなら。

 最後だから。


 と、思ったのだが。

 残念ながら、願いは叶わないようだ。


 しかし、それも仕方のないことだな、と理解できる。

 悪事に加担しなかったとはいえ、アイラはシーグマン伯爵の一人娘なのだから。


 アイラは幼い頃から豊かな生活を送っていた。


 領内で飢えに苦しみ、亡くなる子供たちが相次いだ年、アイラは嫌いだからという理由だけで、食卓に並んだメイン料理の付け合わせの野菜を残した。

 親を失い、幼い弟妹を養うために自らを売らざるを得なかった少年がいたとき、アイラは象牙と黒檀の鍵盤に触れ、音色を奏でていた。

 年の瀬に皆が寒さを凌ぐために寄り添い合っていたそのとき、アイラは新しく贈られたドレスと靴を身に纏い、暖炉の前で温かい花茶を飲んでいた。


 アイラの世界と領民たちの現実の違いは、まるで別世界だった。


 あの頃の自分の無邪気さが、今は何よりも恥ずかしい。


 無邪気に笑い、何も疑わずに信じ込んでいたあの頃の自分が、今では別人のように思える。

 あの頃の自分を思い出すたびに、胸が締め付けられるような感覚が襲うのだ。


 父の悪事を知るまでは──それによって、アイラの父への態度が変わるまでは──父は、娘に最高級のものを与えてくれた。

 最高級の食事。快適な環境。一流の教育。最先端のドレスや靴やリボン。化粧品。

 アイラが「こんなものは、要りません。欲しくありません」と言うまで、父娘の関係はそう悪いものではなかった。


 理解しがたいが、それでも父は『今』も娘に何かしらの『情』を持っている。

 たとえそれが『愛』ではなかったとしても、何かしらの感情は残っている、はずだ。

 そうでなければ、エリックをアイラの婚約者には選ばない。

 もしも、一欠けらでも『情』というものがなかったら、屋敷にしょっちゅう顔を出し、「若ければ容姿なんて関係ない!」と豪語する豪商の男に売っぱらわれていたに違いない。事実、あの豪商はアイラに不愉快な視線を向けていたので、良い値が付いたことだろう。


(これが罰なら、軽いくらいね)


 ふう、と静かに息を吐いたアイラは口を開き、深々と頭を下げた。


「分かりました。では、今日のところはこれで……」


 あたかも次回がありそうな自分の言い方が面白くて、ふっと笑いが漏れる。

 それからアイラは顔を上げ、はらりと落ちた前髪を指で避けエリックと目をしっかり合わせた。

 これが最後だと思えば、恥ずかしさよりも『見ておきたい』が勝つ。


(……不思議。今日の瞳は、とても甘そうに見えるわ)


 罪を探る目で見られないことだけで、もう十分(じゅうぶん)だ。


 そして、エリックに背を向け、一歩足を踏み出したとき──


「待って」


 ──いつかのように腕を掴まれた。


「アイラの調子が良いなら、領を見るのに付き合……いや、違うな。……アイラと領を一緒に回りたい。いい、かな?」

「……ええ。それは、もちろん、はい」


 アイラが頷くと、エリックは照れたように笑いながら、そっと手を差し出してきた。「行こうか」と、言う声は、いつもより少しだけぎこちない。


 アイラが迷いなくその手を取ると、エリックは一瞬「えっ」と驚いた。

 しかし、すぐに微笑み、二人は静かに歩き出した。



 ◇



 領を回り終えると、もう空はすっかり赤く染まっていた。


 夕暮れの冷たさが肌をかすめ、アイラの胸の奥をきゅっと締めつけるような感覚をもたらす。


 アイラは、この日の空をいつまでも心に留めておきたいと思った。


 それは、この瞬間をいつまでも心に留めておくことで、未来への希望や勇気を見出すことができると感じたからか。それとも、これが最後になるかもしれないという覚悟を胸に抱いているからか。


 どこかでまだ望みを持っている自分に気付くも、その望みが叶わないことは分かっている。


(これで終わりだとしても、私は……)


 アイラの胸に、諦めと決意が交錯する。


 自分自身が何を望んでいるのか、何を諦めようとしているのか、明確な答えは見つからない。

 それでも、立ち止まるわけにはいかない。


 あの夕焼けの向こうに希望があるとして、それをつかむ資格が自分にあるのだろうか?

 けれども、今はただ、この燃えるような空に、ほんの少しでも救われたい──それだけだ。

 アイラはそう思いながら、静かに空を見つめ続けた。


「綺麗だね。ここによく来るの?」


 エリックの言葉に、アイラはそっと微笑んだ。


「頻繁には来られないのですが、ここは私のお気に入りの場所です」


 アイラは、エリックに無理を言って頼み込み、日が沈む前に領全体を見渡すことができる高台にやってきた。


「そうか、そんな場所に連れてきてもらうなんて光栄だな。連れてきてくれてありがとう」

「……この景色を、エリック様と一緒に見たいなと思っていたのです」


 薄紗のような水色が空をそっと包み、紫が静かに交わりながら霞むように溶け合う。やがて茜色の朱が空を染め上げ、温かな色彩で世界を満たしていく。


(本当に、綺麗……)


 エリックの目にも、この夕焼けは美しく映っているに違いない。

 けれど、好きな人と一緒にこの景色を眺めているアイラから見る夕焼けのほうが、何倍も何十倍も美しいだろう。


 目に、心に、焼き付けるように美しいグラデーションを見つめていると、ふっと視界がふさがれ、唇に柔らかいものが触れた。


「え」


 と、声が出たのは、目の前にいるエリックと目が合ったときだった。


「ごめん」

「……」

「可愛くて、つい」

「……」

「怒ってる?」

「…………いえ」


 アイラは怒ってなどいなかった。

 むしろ、その逆だった。

 心の中で歓喜の声を上げていた。


 まさしく翼が生えたかのように体は軽やかで、今なら空を飛べるのではないかと思うほどの幸福感がアイラを包み、胸が高鳴り、全身に広がる温かさが、心を一層明るく照らす。実際、足元がふわふわとして、もしかしたら本当に浮いているのではないかと思うほどだった。もちろん、そんなことはあり得ないのだけれど、それほどまでにアイラは嬉しさに包まれていた。


 しかし、欲が出てしまうのは良くないと感じた。


「その……よく分からなかったので……も、もう一度、してくれませんか?」


 ほら、見たことか。

 アイラは最後だから、と欲を出し、その欲が口からも溢れ出た。

 後悔はした。

 けれど、それもすぐに霧散する。


(私も、図太くなったわね……)


「……アイラ? 泣いてるの?」


 涙を流すアイラにエリックが焦った様子がおかしくて思わず笑うと、彼は安堵の表情を浮かべ、ホッと息を漏らした。


 そして、もう一度。


 エリックは、先ほどよりも長く、そっとアイラの唇をふさいだ。




 夕焼けの美しさが、一日の最期の息吹のように、空をゆっくりと染め上げていく。

 それは、過ぎ去った時間の終焉とともに、新たな闇の幕開けを静かに告げていた。


 アイラにとって、その紅い空は終わりを象徴すると同時に、新たな旅路の序章でもある。

 何かが終わりを迎えることは、何かが始まる予兆だ。


 薄明の訪れが、新たな夜の幕開けを静かに告げる──今夜は、見事な満月が闇を照らすことだろう。

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