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04.愚かな娘は、夢から覚める

 エリックの仕事は驚くほど早かった。

 アイラの顔の腫れが引くまでの三日間で、必要な手配をすべて整えてしまったのだから、その迅速さと完璧な手際には、ただただ感嘆するばかり。

 さすがは、若くして次期国王に仕えることを許された人物。その仕事ぶりには、確かな信頼と揺るぎない技量が備わっている。


 最も難関だったはずの父への説得に、果たして五分もかかっただろうか?

 エリックから医者の重要性について説かれた途端、父は即座に態度を変え、診察料を無料に設定したうえ、年に二回の健康診断まで導入することを許可したのだから、笑ってしまう。


 エリックは、無料診療に人が殺到するのを見越し、優先度の高い順に番号を振る制度を設けた。そのおかげで、今のところ大きな不満は出ていない。

 加えて、彼が最初の診療に時間がかかるだろうからと王都から何人かの医者を呼んでくれたこともあって混雑や混乱も起きていない。


 アイラは、エリックに深く感謝した。

 だから、何度も感謝の言葉を言ってしまう。


 だが、エリックが『そんなに感謝しているなら、お父上の仕事について教えてくれないか?』とアイラに言ってくることはなかった。


 アイラは、正直、彼がその話を持ち出すと思っていた。

 何しろ、初めの頃は挨拶の二の句に、父の仕事について尋ねられることが多かったのだから。

 なのに今は、そういった質問はおろか、父の罪を探るような視線さえ向けられることがなくなっている。


 エリックの意図を測りかねたアイラは、「何かお礼をしたいです」と切り出し、様子を窺ってみた。


 ところが返ってきたのは「俺のことを、エリックと呼んでほしい」という、意外すぎる答えだけ。


 この時すでに、エリックはアイラを呼び捨てにしていた。

 敬語ではなく、くだけた口調に変わり、一人称も『私』ではなく『俺』になっていた。

 その理由を尋ねたとき、エリックは「アイラの前だと気が抜けてしまって」と照れた様子で返した。


 アイラはその言葉が、どうしようもなく嬉しかった。そして気づけば、否定できないほど彼を好きになっていた。


 王子が送り込んだスパイかもしれないのに。


 少し前まで『王子の番犬』と警戒していたのに、今では『かもしれない』と考えが揺らぎ始めている。


 エリックへの気持ちが深まるにつれ、かつての疑念がいつの間にかなくなっていたのだ。


 ──アイラが『世間知らずで苦労知らずの愚鈍なお嬢さん』と思われる所以は、きっとこういうところなのだろう。


 彼は本当にアイラのことを心配してくれているように見える。いつも、小さなことでも褒めてくれる。

 もしかしたら、自分との結婚の意志も本物なのではないか。

 そう考えた瞬間、アイラの中で何かが決壊し、気づけば最初の警戒心などとうに忘れ、エリックとの幸せな未来を夢見るようになっていた。


 いや、もうすっかり、それが真実だと信じていた。


 夢なら覚めないでほしいと願い、幸せの中にどっぷりと浸かっていた。



 だけど、夢はいつか必ず覚めるもの。



 そもそも、エリックがアイラを好きになるなど、初めからあり得ない。

 あれほど素敵な人が、自分のような人間を選ぶだなんて夢物語でしかない。


 分かっていたはずなのに。


 だからこそ警戒していたのに、ほんの少し優しくされたくらいで簡単に心が傾いてしまった。


 これでは父を笑えない。




 ◇◇◇




 アイラは地下にある貯蔵庫の扉の前で、石のように立ち尽くしていた。

 冷えた湿気が肌にまとわりつき、その冷たさがじわじわと体の芯まで染み込んでいくのを感じる。


「──シーグマンの娘に手こずってる感じ?」

「……そんなことはない。順調だ」


 その会話が耳に飛び込んできた瞬間、アイラは息を止めた。


 盗み聞きが良くないことは分かっている。

 だが、足がその場に縫い留められたかのように動かない。まるで凍りついたように、そこから離れられないのだ。


「順調~~? それにしては時間がかかりすぎてなぁい? ねえ、エリック。言っていたじゃないの、『純情なお嬢さんなんて、二週間もあれば余裕だ』って。もう二か月も経ってるよ?」


 その言葉に、アイラは目を見開く。

 呼吸を小さくしようとすればするほど、逆に自分の息遣いが耳の中で大きく響き、汗が首筋を伝い、冷えた空気がそれをさらに冷やしていく。


「そんなこと言った記憶はない」

「あたしには聞いた記憶があるもーん。ていうか、エリックったら、まるで物語の騎士様みたいにお嬢様に接してたね? あはっ、普段はあんなんじゃないのにさあ。あんな優しい声、久しぶりに聞いた気がする。あたし、笑っちゃいそうになっちゃった。確か、新人の頃の警邏で迷子の女の子にもあんな風に話しかけてたよねー? ……ね、本当に情が移ってたりするの?」

「……馬鹿馬鹿しい」

 エリックの声は、呆れたような、それでいて心底うんざりしたような響きを帯びていた。

「だよねえ! エリックはあんな大人しい子なんか好きじゃないもんねー?」

 あはは、と楽しそうな女性の笑い声が反響する。


 視界がぐらりと揺らぎ、アイラは咄嗟に壁に手をついた。冷たい石の感触が、かろうじてアイラを現実につなぎとめる。


 もし領の子供たちへ渡す為のジャムを取りに来なければ、この真実を知らずに済んだのに……。

 何も知らず、彼の言葉を信じ続け、幸せな夢に浸ったままでいられたのに……。


 けれど、もうその夢に戻ることはできない。


 アイラは冷え切った石壁に指を立て、微かに戦慄く唇を引き結び、苦い味が口の中に広がるまで強く唇を噛みしめる。


(いいえ、今気付けてよかったのよ……)

 心の奥底でそう自分に言い聞かせながら、じわりと広がる痛みに耐える。


 だが、耳は次の一言を逃さなかった。


「……はあ。なんでお前まで来たんだ、オリヴィア。医者のふりまでして……。暇なのか?」

「うわ、ひどっ! さすがのあたしでも傷つくぞー?」


 エリックが彼女を呼んだ名前──『オリヴィア』。

 それを聞いた途端、アイラの頭に彼女の顔が浮かんだ。

 王都からやって来た女医だ。

 ……いや、実際には医者ではなかったのだと今知ったが、アイラには最初からどこかぞんざいな態度を取っていた彼女の表情が脳裏に蘇る。


 二人の会話は続いていく。


「それで? なんで来た?」

「だーかーらー、二週間で戻る予定の同僚が、二か月も帰って来ないんだよ? 心配して会いに来たに決まってるじゃないの」

「そんな予定は元々ない」

「ね、本当に大丈夫なの?」

「……何が」

「シーグマンの悪事、別ルートで暴かれちゃったらエリックの立場がヤバいって聞いちゃったの。手柄取っとかないと、良くないってのも聞いたよ」


 彼女の発した言葉に、アイラの心臓が跳ね上がる。

 鼓動が耳の奥で鳴り響き、手足の先まで震えが広がっていく。


「はあ……誰に?」

「ん~と、え~と? んー、誰だっけ? 忘れちゃったー」

「呆れる」

「だってぇ」


 親しげな口調、甘えるような声──そして、それに応じるエリックの声があまりにも自然で、耳を塞ぎたくなった。

 エリックがこんなにも砕けた口調で話すのを聞いたのは、初めてだった。

 普段、自分に向けてくれる優しい言葉や、気遣いとはまるで違う。

 彼はこんなふうに、彼女と長い時間を共有してきたのだ。


 ふと、足音が近づく。


 エリックが扉の方に向かってくる気配を感じ、アイラは弾かれたように踵を返し、冷たい石の階段を駆け上がり始めた。

 振り返りもせず、息を殺して一段一段を確かめるように進む。螺旋階段の曲線が姿を隠してくれることを祈りながら、音を立てないように神経を尖らせる。


「えっ! あ、ねえ! ……ねえってば! 大丈夫かって聞いてるの! ……あたしにだけは、本音言ってよ! あたしたちの仲じゃない、遠慮しないで頼ってよ!」


 アイラの耳に届いたオリヴィアの叫び声が、地下に反響する。


「大丈夫だ──これで満足か?」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 置いていかないでよぉ」

「付いてくるな。一緒に行動するのはまずいんだ。何回言えば分かるんだ?」


 二人の軽口、気安いやり取り。アイラには決して見せない彼の表情が、今そこで繰り広げられているのだと思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。

 最初から入り込む余地などなかったのだと、現実がゆっくりと胸に突き刺さる。


「冷たぁい! ギルに言いつけてやるんだからねっ!」

「好きにしろ。医者もどきはさっさと王都に帰れ」

「何よ──」


 アイラはそっと地下から離れた。


 今にも泣き出しそうな胸の内を隠すように、必死に足を動かし、自室のドアを閉めて鍵をかけた途端、全身の力が抜け、ベッドに倒れ込む。心音は激しく、冷や汗が背中に張り付いている。


(やっぱり、いい夢を見られたことに、感謝するべきなのかもしれないわね……)


 彼に『恋人らしいこと』をしてもらえた、甘い夢。


 何も知らずにいたなら、その夢の中で、ずっと満たされていられたかもしれない。


 目を閉じたアイラは、最後に耳に届いた言葉を頭の中で反芻させる。


 そして、口に出してみる。


「『何よ──あんただって、シーグマンの娘の婚約者もどきのくせに。婚約なんてしてないくせに』」


 アイラが口にした言葉は、暗く陰気な雰囲気を帯びていて、明るく(はつ)(らつ)としたオリヴィアの言い方とはまるで似ても似つかないものだった。


 悲しくて堪らないのに、涙は一滴も出てこない。

 泣きたいという思いが胸を締め付けるのに、涙はまったく流れない。

 その感情の不一致が、心に深い深い悲しみを刻む。


「泣けたらよかったのに……」


 そうすれば、この気持ちに区切りがつけられたかもしれないのに……。


 けれど、どれだけ胸が締め付けられても、泣きたいと思っても、涙は決して流れてくれなかった。


 アイラは昔から悲しいときこそ泣けないのだ。



 その日、アイラはエリックの面会を断った。

 それは、アイラがエリックの婚約者()()()になってから初めてのことだった。

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