03.愚かな娘は、落とされる
アイラは痛いことが大嫌いだ。
空腹も、ネズミや虫と共に過ごすことも、暗闇や狭さ、寒さも、耐えがたい。
そもそも、基本的に我慢強い人種ではない。
(……だけど、あんな思いをするくらいなら、すべてを耐え抜いてみせる。それに、もしかしたら──)
今は三日と空けずに婚約者であるエリックが訪ねてくる。
(『お仕置部屋』に閉じ込められずに済むかもしれない)
そう考えるあたり、アイラは紛れもなくシーグマン伯爵の娘だった。
アイラが『あんな思い』をしたのは、今から三年前。
十六歳になったばかりの頃。父の言う『ままごと』に力を入れ始めた、その矢先のことだった。
その日、コナという名の一人の少女が亡くなった。
わずか七年の命は、熱と咳に蝕まれ、一晩で尽きた。
コナの命が救われなかった理由は、領に父と癒着する医者しかいなかったことにあった。
『コナを助けてください!』
必死に訴えるコナの両親に、医者は頷いたものの、それは法外な治療費を条件付きとする返事だった。
地面に頭を擦り付け、何度も懇願するコナの両親と、熱にうなされるコナの姿に、アイラはありったけの勇気を振り絞って父に懇願した。
だが、結果は散々だった。
父に『子が親に意見するな』と殴られ、仕置部屋と呼ばれる窓もない暗く狭い部屋に三日間閉じ込められただけ。
コナはその間に息を引き取った。
三日後、仕置部屋から出たアイラが見たのは、コナの両親が静かにアイラを睨む姿だった。
『恨みます』
震える声でそう言い残し、コナの亡骸を抱えたまま、彼らは静かに領を去った。
アイラにできたのは、その背中を見送ることだけだった。
コナの両親の怒りは至極真っ当なものだと思う。
アイラだって、コナの両親の立場だったら、きっと同じことを言うだろう。
だから、彼らに対して怒りはない。罰だって、与えようと思わない。
それでも、父と同じ血が流れていることを、これほどまでに苦痛に感じる日が来るとは思わなかった。
「──お父様、今、少しよろしいでしょうか」
「……ああ、どうした?」
苛立ちを押し殺すようなぎこちない返事をする父に、アイラは穏やかに微笑む。
(前回失敗したのは、タイミングが悪かったせい)
今回は少々知恵を絞った。
足りないと自覚する頭で絞った浅知恵だが、今のところ父の腕が振り上げられていない。……つまり、選択は間違っていなかったのだろう。
(この人は、私を人前では絶対に殴らない)
父の後ろで耳をそばだてているのは、金を洗ってくれる有難い絵描きたち。
彼らの口は、羽よりも軽い。
言葉の重さを知らず、風に舞う羽のように軽々と放つのだ。
◇◇◇
人前では決して殴らない。
それはつまり、人目のないところでは容赦なく手を上げるということだ。
(だけど、お仕置部屋は回避できたわ……)
昨日──叩かれた直後、父の側仕えが『明日、ビショップ卿が来訪されます』と告げたおかげで、張り手一回で済んだのは僥倖だった。
(……でも、いつまでもこの手は使えない)
今回だけ上手くいっても意味がないのだ。
たった一回分の診療と一人分の薬では足りない。
(『二人目のコナ』を出さないために、何をすればいいのか考えなくては)
……けれど、今のところ、何も思いつかなければ、父に意見するのもまだ怖いと感じてしまう状態。
それに、自分が頑張ったところで──
(──いいえ。一歩一歩、進んでいくしかないのよ、アイラ)
アイラは弱気な心を叱咤し、自分に『やるのよ』と言い聞かせ歩みを進める。
今日は晴れているが、風が強い。
アイラは真っ赤に腫れた頬を隠すベールをしっかりと押さえながら、慎重に足を進めていた。
──今回の少女は峠を越え、熱も下がった。今は両親の愛情をたっぷりと受けている。
アイラは、その見舞いの帰りだった。
少女はベール姿のアイラを訝しんだが、見舞い用にと貯蔵庫からこっそり持ち出したジャムと蜂蜜の瓶を渡せば、きゃあきゃあとはしゃいでその疑問を消した。
それから、アイラが『元気になってくれてありがとう』と礼を言うと、『どうしてお嬢様がお礼を言うの? 変なの』と言って少女はおかしそうにくすくすと笑った。
(ついつい長居をしてしまったわ)
少女の両親は、アイラのベールの理由に気づいたのか、終始頭を下げていた。アイラは彼らを宥めるのに手間取ってしまった。
本来ならば、今日の外出は許可されていないため、長居するつもりはなかった。
予定が大幅に狂い、焦り始める。
父は、自分が叩いたくせに『そんな顔で領を歩くな!』と言っているので、屋敷を空けているのが露見すると非常にまずい。
だが、早く歩こうとするとベールが捲れてしまうのでできないというジレンマ。
(どうか……)
アイラは祈るような気持ちで、足を速めた。
(どうか、誰にも会いませんように。特に、彼には──)
しかし、運命はアイラにいたずらを仕掛けた。
「アイラ嬢?」
シーグマン伯爵家に向かう途中のエリックに、アイラはいとも簡単に見つかってしまった。
馬車から降りたエリックは、いつもの爽やかな笑みを浮かべながら、「奇遇ですね、今からお宅に向かおうと思っていたんです」と言い、手を差し出してきた。
「……あ」
この手を取り馬車までエスコートされなさい、ということなのは百も承知だが、正門から帰宅は避けたい。
だからといって、草木が好き勝手に生えている鬱蒼とした裏門に通すわけにもいかない。
そもそも、父は今日の彼の訪問を断るつもりでいるのだ。
『どうすればいいの』という思いが頭を占め、アイラは一瞬の油断をしてしまった──彼の前でのそれは自殺行為に等しいというのに。
アイラの視界が一気に開ける。その瞬間、冷たいものが心に駆け抜けた。
「これは?」
これ、とは、父に打たれて腫れた頬のことだろう。
「あ、あの、これは──」
「お父上が?」
アイラの言葉を遮ったのは、怒気が宿る低い声。
「い、いいえ。そんな、まさか……父は私を溺愛しておりますもの。ご存じでしょう?」
声が震える。
「……本当に? ではこれは何?」
エリックの指が腫れた頬にそっと触れた瞬間、アイラの心臓が一瞬、凍りついた。それなのに、温かい手のひらがアイラの冷たい肌に触れ、安心感がじわりと広がる。
同時に自己嫌悪の波が押し寄せてきた。
「本当です」
即答しながら顔を背け、「これは、躓いて転んでしまっただけです」と続けるが、アイラ自身、苦しい言い訳だという思いがじわじわと浮かんできていた。
「……アイラ嬢」
エリックの声が耳元で囁かれると、アイラの心はさらに揺れ動いた。
彼の言葉に救われたいと思う一方で、自分の弱さを認めたくないという気持ちが交錯する。
再び、『どうしよう』が頭を占めるアイラの顔をゆっくり自分の方向に向き直らせるエリックの手付きは、やはり優しい──自分がとてつもなく繊細な何かになったかのような錯覚を抱くほどに。
「何か、困ったことはありませんか? 私にできることなら何でもします。あなたの憂いを晴らしたい」
それは、アイラを心から心配しているような、そんな声だった。
(『シーグマンの娘』である私は、誰かを頼ってはいけない)
そう思うのに、頼りたくて。寄りかかりたくて。その気持ちを止められない。
エリックの優しい声が、アイラの心に安寧をもたらす一方で、自己嫌悪の波が押し寄せる。
(どうして私はこんなにも弱いの? 頼りたくないのに……でも、頼ってしまいたい……もう……)
アイラは自分を責める気持ちを抑えきれず、エリックの優しさに甘えてしまう自分が許せなかった。
「言って、アイラ」
この言葉が、とどめとなった。
アイラの瞳に涙が滲み、視界がぼやけていく。
「……ビショップ卿の、お手を煩わせる、ことは……とても、恐縮なのですが……」
アイラの鼓動は激しく、言葉が途切れ途切れになってしまう。息が苦しい。
エリックはそんなアイラに優しく微笑みかけ、「気にしないで。言ってごらん?」と促す。
「お医者様、を派遣……していただくことは、可能でしょうか?」
「医者?」
「は、はい……その、我が領の、お医者様は、他領に比べ、少な、く……」
話しているうちに、アイラの目から涙がぼろぼろと溢れ出し、止まらなくなった。
自分でもなぜ泣いているのか分からず、混乱するばかり。
心の奥底から込み上げる感情が抑えきれず、涙が次々と頬を伝っていく。
何度も手で顔を拭うが、涙は止まらない。
なぜこんなにも涙が溢れてくるのか、その理由が分からず、ますます混乱する。
「う、あ、ごめんなさ、い……もうしわけあ、りま、せん……いま、とめますから……」
何とか涙を止めようと必死に目元を擦ったが、そのたびに腫れた頬がひりひりと痛む。
(止まらない……どうして、私、泣いたりなんか──)
頭の中で何度も『どうしよう』が反響し、心が押し潰されそうだった。
そのとき、不意に身体が傾いた感覚がして、涙がぴたりと止まった。
エリックがそっと抱き寄せ、優しく腕を回していたのだ。
「泣かないで、もう大丈夫だから」
その優しい声と温かさが、アイラの心にゆっくりと染み渡る。
何度も頭を巡っていた『どうしよう』という迷いが、エリックの温かい抱擁の中で、ふっと消え去り、心が静かに凪いでいく。
「医者は、私が手配しよう」
エリックの体温に触れながら、アイラは初めて自分がこんなにも安らぎを求めていたことに気付いた。
「大丈夫だよ」
アイラは目を閉じ、エリックの胸に顔を埋める。
彼の心臓の鼓動が耳元で感じられ、そのリズムがアイラの心をさらに落ち着かせた。
ずっとずっと、探し求めていた場所に、ようやくたどり着いたかのような感覚だった。
(ああ──)
アイラの頭の奥で、警鐘が鋭く鳴り響く──この男は危険だ。絶対に隙を見せるな。
(──分かってる、分かってるのに)
警戒心が心を締め付け、冷静さを保てと訴える。
それなのに、同時に湧き上がる矛盾した思いを抑えきれない。
アイラは、そっとエリックの背に手を回し、詰めていた息を静かに吐き出した。
(この人を好きになっては、だめ)
拒まなければならないと、理性では理解している。
(それなのに……)
エリックへの想いが静かに広がる。
それはどうしようもない絶望感とともに、心の奥底へと沈んでいった。