02.愚かな娘は、我が身が可愛い
エリックは、初対面の日を境に三日と空けずにアイラのもとを訪れるようになった。
『世間知らずで、苦労知らずの愚鈍なお嬢さん』──エリックのアイラへの評価は、まさにそんなところだろう。
だからこそ彼は、花束を手に、親しげに訪れる。
そして、その柔らかな笑顔で、誰もが見惚れるような甘い声で、ささやくように尋ねるのだ。
「最近シーグマン伯爵家を訪れる客人には、どんな方がいますか?」
「伯爵が目をかけている新人画家の名前は?」
そのたびに、アイラはエリックの評価通りの反応を返す。
「お父様は私にお仕事のお話をされませんので」
世間知らずで、苦労知らずの、何も知らない愚鈍なお嬢さんらしい振る舞いを、繰り返し演じ続けた。
うまく誤魔化せていた。
そのはずだった。
しかし、エリックの四回目の訪問となるこの日、ついにアイラの『ままごと』が彼に知られてしまった。
アイラは、父のように悪事を働いているわけではない。
だが、エリックに『世間知らずで苦労知らずの愚鈍なお嬢さん』と思われていたほうが、何かと都合が良かった。
何より、『ままごと』が単なる気まぐれではなく、罪滅ぼしだと知られれば非常にまずいことになる。
「アイラ嬢……?」
エリックの困惑した声が耳に入った。
いつも彼に会うときは最低限の身なりを整えていたアイラだったが、今日は生成りのワンピースに髪をひとつに束ねただけの質素な姿。家庭教師のほうがよほど令嬢らしく見えたことだろう。それほどに今日のアイラには『令嬢らしさ』がない。
さらに、領民の子供たちと追いかけっこをしていたため、顔に土までついている始末。
「……ち、違います」
アイラは露骨に動揺し、頬が赤く染まった。
震える手を隠すように両手を握りしめ、何を言えばいいのか分からず視線を彷徨わせる。
「アイラ嬢ですよね? 先ほど子供たちにそう呼ばれていましたし」
「……」
言い逃れできない状況に心臓が激しく脈打つ。
エリックの視線に晒され、胸がどうしようもない焦りに締め付けられる。
隙をつき、彼の横を通り抜けようとしたが……腕を掴まれてしまう──失敗だ。
「待って」
軽く掴まれただけなのに、その手はびくともせず、アイラは立ち止まるしかなかった。
そして、じっくりと、いっそ不躾ともいえるほど観察され、「やっぱりアイラ嬢ですね」と初めて見る表情のエリックに言われてしまった。
「アイラ嬢はどうしてここにいらっしゃるのですか? いつもこうして子供たちと遊んでいるのですか?」
矢継ぎ早に質問を繰り出すエリックに、アイラは早々に観念した。
……この番犬は本当に鼻が利く。
「……その、いつも遊んでいるわけではないのですが、今日は家の手伝いの休憩時間が被る子供たちが多い日で……息抜きは大事だと思って……申し訳、ありません」
怒っている父にはまず謝る。それがアイラの処世術だ。
だから、目の前のエリックに対しても同じように深々と頭を下げた。
謝って、反省した様子を見せれば、父は怒鳴ったり叩いたりしない。エリックも、きっと同じだろう。
しかし、アイラの謝罪にエリックは「え?」と小さく驚き、次いで「頭を上げてください」と慌てたように言うではないか。
おそるおそる顔を上げると、そこには先ほどまでの鋭さを消し、穏やかな表情に戻ったエリックが立っていた。
彼は安堵の息を吐き、戸惑うアイラに優しく問いかけた。
「あなたのことを教えてくれませんか?」
その声は、思わず縋りついてしまいたくなるほど優しく、アイラの心をそっと包み込むようだった。
◇
「──キャラメル、ですか?」
「はい。……あの、もし、甘いものがお嫌いでなかったら……」
「いただきます」
薄紙に包まれた直径二センチほどの小さな四角形をエリックの手のひらに載せると、彼は迷うことなく包みを剥き、茶色いそれを口に運んだ。
(不用心な人)
毒の可能性を考えないなんて……。
(それとも、これは私を信じているという演技? それとも余裕の表れ?)
エリックは、眉をひそめるアイラを気にも留めず、平然とキャラメルの感想を述べる。
「美味しいですね。これは、砕いたナッツ? が入っていますか?」
「……ナッツではなく、領で採れるプリュムという名の実です」
「プリュム?」
エリックが小さく首を傾げると、アイラはポケットからプリュムの実を取り出し、そっと差し出した。
「へえ、これが」
エリックがつぶやきながら、プリュムの実を興味深げに手の中で転がす。
「八時間ほど煮て固皮と渋皮を剥き、乾燥させたプリュムは、ナッツに似た味わいと風味になるのです」
アイラがプリュムの実について説明すると、エリックは熱心に耳を傾け、数度頷いた。
「なるほど。普通の木の実より皮が固いから加工に時間がかかるんですね」
「ええ。ですが、煮る前の実は少量ですが毒があり、動物たちはこれを一切口にしません。なので、非常に状態の良いものが大量に採れます。しかも、収穫時期は冬を除くすべての季節で、低い木になっているため、子供のお小遣い稼ぎにうってつけなのです」
「それはいい。アイラ嬢が思い付いたのですか?」
こんなふうに自分の話に真摯に向き合ってくれる大人の男性は、なかなかいない。
皆が忙しさの中で心に余裕がないことは理解していた。
それでも、こうして丁寧に向き合われると、やはり嬉しさが込み上げてくる。
「まさか。私はそういったことを思いつくほどの才は持っていません。プリュムについては一月前に亡くなった領民に教えてもらったのです。彼女の故郷ではプリュムの実は高級品だったと聞き、我が領の特産にどうか、と考えました」
三年前、移民の女性からプリュムの詳細を聞くまでは、それを毒の実として認識していた。事実として、幼い子が口にすると命にかかわる実だった。
しかし、その女性から教えられた情報が、アイラの認識を一変させた。
「それに、廃棄の多い牛乳の活用にもなります──……す、すみません。話しすぎました」
つい得意げに話しすぎたことに気づいたアイラは、羞恥に頬を染め、視線を落とす。傷つかないように心の準備をしながら。
アイラがこの話を父に持ちかけた際、父は即座に顔をしかめ、『そんなままごと、大した利益にはならん!』と、怒声を浴びせた。
「アイラ嬢」
「は、はい。本当に、申し訳──」
「聞かせてください。『廃棄の多い牛乳の消費と併せれば』、どうなるんですか?」
「……え?」
「私は、謝罪よりも話の続きが聞きたい」
エリックの優しい声に、アイラは顔を上げる。
「教えてくれますか?」
彼の顔は、声同様に優しいものだった。
「……廃棄の多い牛乳の消費と併せれば、良い商売になると思ったのです。砂糖の仕入れに少々手間はかかりますが、キャラメルは女性と子供でも簡単に作ることができます。それに、長期保存が可能なので携帯食にもぴったりです。製造過程も比較的簡単で、特別な道具や設備を必要としません」
「キャラメルは嗜好品としても人気が高い。ちょっとした贈り物やお土産にも最適ですしね」
同意の言葉が返ってきた瞬間、アイラの胸には喜びがじんわりと広がっていった。
自分の話に真剣に耳を傾け、理解してくれる人がいる──そのことが、どれほど嬉しいか。
「我が領にしかない特産に、安定した職。それがあれば、飢えで苦しむ者の数を減らせます」
「素晴らしい考えだ。地域全体の経済にも良い影響を与えるでしょう」
アイラの心には、安堵と温かな安心感がじわじわと満ちていく。
自分の思いが伝わり、受け入れられたことで、まるで暗闇の中に一筋の光が差し込むような希望を感じた。
「若輩者の考えるままごとのような商売ですが、最近ようやく軌道に乗り始めたのです」
アイラが話し終え、ふとエリックの目と視線が重なった瞬間、鋭い後悔が胸を突き上げた。
(──あ)
エリックの瞳は淡い蜂蜜色に輝き、優しげな印象を与えていた……はずだった。
しかし今、その奥には冷静な観察者の光が潜んでいる。その視線はまるで小さな隙も見逃さないように動く鋭利な刃のよう。
柔らかな笑顔の裏に潜む意図に気づいた瞬間、アイラの胸に冷たい恐怖が走った。
(どうして私は、この瞳を『甘い』なんて思ってしまったの?)
自嘲にも似た思いが胸をよぎる。
(やっぱり……この人は、私に罠を仕掛ける人なんだわ)
優しげな仮面の裏に、計り知れない獰猛さを隠し持つ危険な人物なのだ。
エリックと視線を交わしたまま、アイラは内心で強く、苦々しく噛み締める。
──彼に、父の罪を知られるわけにはいかない。
(絶対に、どんな手段を使ってでも)
エリックからの鋭い視線にさらされていると、まるで自分の本心や弱さが見透かされてしまうような気がしてならない。
そして、同時に悟るのだ。
自分がいかに、父と同じ性質を持っているかということを。
結局、アイラは自分が一番可愛いのだ、と。
もし父の悪事が明るみに出れば、シーグマン伯爵家の財産は没収され、父は牢に繋がれる。最悪、死刑だ。
そしたら、自分は……どうなるのか。
領の外に一歩も出たことのない自分が、一人で生きていけるだろうか?
育ってきた世界が音を立てて崩れ去るその未来を、想像するだけで息苦しい。
恐怖と不安が胸の奥で渦を巻き、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚が押し寄せる。
手が震え、その震えを止めようと拳を固く握り締めるが、気持ちは収まらない。冷や汗が背中を伝い、脳裏には最悪のシナリオばかりが浮かび上がってくる。
(……怖い)
エリックの鋭い眼差しの奥にある決意を感じるたび、追い詰められていくような気がした。
(この人は、父を、私を、逃がさない)
けれど、アイラはそんな彼の視線を逸らさず、強く見返した。
(私はあなたの罠にはかかりません、絶対に)
震える指先を強く握り締め、決して引かないという意志を突きつけた。
※プリュム:栗に似た形状。青梅色の物語上の架空の実。