01.愚かな娘は、美しい番犬と出会う
「お前の婚約者が決まった」
その言葉を父から聞いた瞬間、アイラの胸に嫌な予感が広がった。
同時に、とうとうこの日が来たのだと悟る。自分が商品として売りに出される日が来たのだ、と。
「あの、お相手の方は……?」
おずおずと尋ねると、父は舌を打ち、アイラは思わず身を縮めた。父の冷たい目がアイラに突き刺さり、その場から逃げ出したい気持ちを抑えるのがやっとだ。
だが、今日は機嫌が良いのか、いつもの怒号は飛ばなかった。父の態度に一瞬の安堵を感じながらも、アイラの心には不安が残ったままだ。
「ビショップ男爵家の三男、エリックだ。王子直々の推薦状が届いた。どうやら、王子は私の才能を高く買っているらしい」
(……え?)
エリックの名を聞いた瞬間、アイラの胸に広がった嫌な予感は、よりはっきりとした形を成した。
「奴は商売女の産んだ子供だ。出自が卑しい。だが、王子の近衛騎士団に選ばれた男でもある。何より、奴は王子の気に入りで、次期筆頭騎士になると噂だ! はははっ! 王の筆頭騎士は侯爵位同等の権力持ちだっ!」
話していくうちにだんだんと興奮している父の顔は赤く、まるで酒に酔っているかのよう。実際、すでに何杯か飲んでいるのかもしれない。
最近の父は、以前の狡猾さが影を潜め、やけに浮ついて見える。欲と焦りに囚われ、かつての慎重さを失っているようなのだ。
感情の起伏も激しく、一瞬で怒鳴り散らしたかと思うと、突然笑い出す。
これが単なる疲労のせいなのか、あるいは──……いや、考えまい。アイラは小さく首を振り、その疑念を振り払う。
「これで我が家は安泰だな!」
下卑た笑い方で締められた父の言葉に、アイラはなんとか「はい」と返す。
エリック・ビショップといえば、百年に一人いるかいないかと言われている、『剣の神に愛されし者』と綽名されている騎士だ。
彼は一四歳のとき、王都で開催された剣術大会で最年少の準優勝を達成しており、当時の優勝者は国王の現在の筆頭騎士だった。
見目麗しく、次期国王であらせられる美貌の王子の隣にいても遜色ない、未婚のみならず既婚女性にも人気の優良独身男性。年は数えで二三歳。
そんな彼が、悪名高いシーグマン伯爵家の娘と、婚約? 王子の推薦で?
そんなこと、天地がひっくり返ってもあり得ない。
アイラの父、シーグマン伯爵は領民から嫌われている。
(……いえ、憎まれてる)
圧政を敷き、重い税を取り立てる父は、お世辞でも良い領主とは言えない。
一〇年以上も前から、アイラの父は違法薬や禁制の武器の製造・密売に加え、人身売買にまで手を染める闇組織と深く結びついていた。
今では、その組織内でも幹部の地位にまで上り詰めている。
父が担っている役割は、違法薬の売上金の出所を隠すこと。その手段として、何も知らない若い画家たちの絵を利用し、資金が正当な取引で得たものだと見せかけているのだ。
四年前、喉の渇きを覚え、暗い廊下を歩いていたアイラは、ふと耳にした父と組織の人間の会話に衝撃を受けた。
『処理は終わったのか?』
『ええ、証拠はすべて処分済みです。資金も絵画の売上として問題なく流しました』
『よし。では、次の画家を用意しろ。使えるうちに使い潰せ』
あの日、父の裏切りをはじめとする数々の真実を知り、今まで信じていたものが音を立てて崩れ去った。
その瞬間、アイラの世界は一変し、その衝撃がその後の行動を決定的に変えた。
デビュタントには参加したものの、誰とも踊らず、暗い庭園で身を隠すという行動が、それである。
以降、舞踏会やパーティーなどの社交の場には一切姿を見せていない。
これは、自分なりの精一杯の反抗の意思表示だった。
美しいドレスの背後には、貧しい人々が粗末な服を縫い続ける姿があり、豪華な食事の裏側には、飢えに苦しむ農民たちの姿があった。
着る服も。口にする食事も。住む場所も。与えられたすべては数えきれない犠牲の上に成り立っていた。
……胸を締め付けるような罪悪感と、押し寄せる怒り。
──その事実に気づいてしまえば、着飾ってパーティーを楽しむことなど到底できなかった。
そして、アイラは父の富の裏に隠された真実を突き止めるべく、父の行為を独自に調査し、深い闇に辿り着き……知ってしまった。
父が組織と結託し、多くの人々を犠牲にしてきた真実を。
倉庫や納屋に溢れるほどある絵画が、屋敷内に飾られることがない理由を。
一年に一回開催される深夜の会合の理由を。
自分が汚い金によって生かされていたという事実を。
そして、母の死因が病死ではなく、父に悪事から手を引くよう進言したことにより命を落としたことを。
すべて、知ってしまった。そう、何もかも──
きっと、王子もその事実に気が付いたのだろう。
だが、もし王子が本気で父を裁こうとするなら、まずは証拠を集めるはず。
しかし、これまでの例を見ても、父は疑いがかかるたびに身代わりを立て、決定的な証拠を残さないように立ち回ってきた。
だからこそ、王子も慎重に動かざるを得ない。
では、王子はどうやって証拠を掴むつもりなのか?
その方法の一つとして考えられるのは、父に近しい人物を使い、内部から探らせること。
そう考えれば、王子の腹心であるエリック・ビショップがシーグマン伯爵家に関わる理由も説明がつく。
──王子は、エリックを潜入させたのだ。
その推測を裏付けるように、父が資金洗浄で使う画家の一人が失踪した直後の婚約話である。
王子の近衛騎士団は、王族の護衛に留まらず、特別な役割を担うとされている。
彼らは表向きこそ忠誠を誓う騎士だが、実際には王子の密命を受け、裏で動くこともあるという。確たる証拠はないが、かつて父の取引先の男たちが話しているのを耳にしたことがある。
さらに、王子が近衛騎士を推薦する際には、相手に対して必ず何らかの『狙い』がある。
今回、父のような悪名高い人物を称賛する推薦状が届いた時点で、王子が何かを仕掛けているのは明らかだ。
──狡猾で尻尾を出さない父を狙うより、その娘に近づくほうが、より確実に証拠を掴めると王子は考えたのではないか。
心底恐れ多いことではあるが、もしアイラが王子ならそう考える。
あの清廉潔白な次期国王が、父のような男を評価するはずがない。
断じて、ない。そう言い切れる。
王子が推薦状を出した理由が、父の実力や功績などではなく、裏の意図があることは明白。
これまで父が領民から憎まれる理由を思い返してみても、矛盾するものは何一つない。
──なのに、なぜ父は何の疑いも持たないのか?
以前なら、どんな話でも裏を探り、相手の思惑を即座に見抜いていたはずなのに……。
(まるで考えること自体をやめてしまったみたい)
アイラは無意識に拳を握る。
(お父様、どうしてしまったの……?)
才能を買っている、なんて。
父にそんな価値があるとは思えない。
父の本質を見透かしているアイラにとって、それがどれほどの偽りであるかは明らかである。
そう。アイラには分かる。
もし、そんなことがあるとすれば、それは父を罠に嵌める瞬間だ、ということが。
そして、その罠の網には、おそらくアイラ自身も絡め取られている、ということが。
◇◇◇
釣書に添えられていたエリックの肖像画を事前に見ていたアイラだったが、実際に対面した瞬間、その魅力を改めて実感した。
特にその面貌が印象的だった。
エリックの髪は深い黒で、まるで夜の静けさを纏ったようだった。
蜂蜜色の瞳には、温かみと柔らかな輝きが宿り、端正な顔立ちはどこから見ても美しく、鍛え上げられた体は優雅さと力強さを兼ね備えている。
「お初にお目にかかります。ビショップ男爵家が三男、エリック・ビショップです」
そう言って頭を下げた後、エリックはアイラに微笑んで見せた。
彼は笑うと随分と印象が変わる人だった。
まるで、人懐っこくて番犬には向かない大型犬のようだと思った。
実力のある騎士様を犬に例えるなんて失礼なことだと分かっているのだが、アイラはそんなことを思い、ふっと肩の力が抜けた。
しかし、次の瞬間には、そんな気を起こさせるエリックに対し、警戒心を強める。
「……ア、アイラ・シーグマンと申します」
だが、一九歳にもなって社交経験がなく、男性慣れどころか貴族とのやり取りにも不慣れで、加えて腹芸が苦手なアイラは、顔を俯かせ細い声で返すのが精一杯。
蜂蜜色の瞳を真正面から見据えて挨拶するなんて、到底できない。
「すまないね、エリック君。娘はこの通り、人見知りで大人しい子なんだ」
『良い父親』を演じている父の台詞に、アイラはこっそり鼻白む。
父はアイラのことを愚図だと思っているし、実際に何度もそう言われてきた。
父にとってのアイラは、領地に降りて領民と『ままごと』をしている変わり者なのだ。父はそんなアイラに奇異の目を向けている。
最近では父の言うところの『ままごと』が軌道に乗り、黒字が安定してきているのだが……。
(言ったところで嘲け嗤われるだけなのだけれど)
それでも、ままごとが禁じられずにいるのも、社交界に出ないことを許されているのも、父にとってそのほうが得策だからだ。
笑ってしまうが、社交界ではアイラを見たこともない者たちが、勝手に『絶世の美女』と噂しているらしい。
結果として、アイラの抵抗は無意味なものとなり、『見えざる至宝』として社交界の話題をさらい、父の利益に貢献する形になってしまった……。
「噂通り可憐で可愛らしいお嬢様ですね。早く私に慣れてもらうように努力します」
「はははっ! なあに、心配することはないよ、エリック君!」
(『可憐で可愛らしい』?)
よくもまあ、子供でも分かる嘘が吐けたものだ。
エリックとは目を合わせず、王子の近衛騎士にだけ与えられるという徽章を見つめながら、アイラはうっすら口角を上げる。
上手く笑顔を作れているかは分からないが、表情がないよりかは良いはずだ。
「お会いできて嬉しく思います、婚約者殿」
笑みを深め言うエリックは、正しく犬だった。
それも、王子のためだけに在る、命令に忠実で美しい番犬。
彼は、獲物を狙う捕食者さながらに、牙と爪を巧妙に隠し、無防備を装う。
そして、こちらが心を許し、口を滑らせる瞬間をじっと待っている。
(でも、それは期待外れですよ)
そう、アイラもまた、父の罪を証明する確かな証拠を持っていない。
だからエリックが自分をどんなに油断させようと、証拠を渡すことはできない。
(この男の利益になることは、決して口にしない……)
彼の魅力的な外見と優しい微笑みに惑わされてはいけない。
目の前のこの男もまた、アイラを利用しようとしているに違いないのだ。
「こちらこそ。……よろしくお願いいたします」
アイラは、エリックと視線を交わすことなく言葉を返した。