12.愚かな娘は、「先生」と呼ばれる
温かくて優しい、懐かしい夢を見た。
そう思って目覚めたのに、その内容はすぐにぼんやりと薄れていく。
ベッドから起き上がる頃には、どんな夢だったのかをすっかり忘れてしまっていて……。
確かに幸福な夢だったはずなのに、完全に目が覚めた今となっては、ただ『ああ、今日も良い天気だわ』と思うだけ。夢を見たことさえも曖昧になっている。
起き上がり、あくびと伸びを同時にする。
ベッドの固さには未だに慣れず、肩と腰に違和感を感じる。
軽くストレッチしてから立ち上がり、テーブルの水差しからコップに水を注ぐ。喉が渇いていたのか、水が驚くほど美味しい。
中身が半分になったコップをテーブルに置き、顔を洗うために水瓶から桶に水を移す。顔を洗い、短い髪を簡単に梳く──短い髪は手入れが楽でいい。
大袈裟なそばかすを描き、度なしの眼鏡をかけたら身だしなみはようやく完了だ。
次は朝食の準備だ。とはいえ、パンに塩コショウを軽く振り、焼いた卵を載せるだけ。貰い物の林檎も一緒にいただこう。
手を組んで感謝の祈りを捧げた後、パンをちぎって口に運ぶ。
これを食べ終えたら肩への細工が待っている。
花茶が飲みたい、とふと思ったけれど、あれは今のアイラには贅沢な品で、おいそれと日常的に飲むことはできない。
だけど、それを悲しいとは思わない。
悲しいと思うことが『花茶が飲めない』ということだけなら、どんなにいいかとは思うけれど。
──アイラがシーグマン姓を捨て、屋敷を出てから一年半が経過していた。
父の死を知ったのは数ヶ月前、新聞の記事を通じてだ。
逮捕時にはすでに末期の薬物中毒に陥っていたことも、その文字から知ることとなった。
父の死を知っても、その心に悲しみも喜びも浮かばなかった。
あるのは、『無』のみ。
無いのに、あると表現するのは矛盾しているように思えるが、それがアイラの感じている感覚だった。
胸の中に何も感じないことが、時折、自分を冷たく薄情な人間だと感じさせる。
自分だけが感情の波に乗り遅れているような錯覚に囚われるのだ。
何か大切なものが欠けているのではないか、という不安が心に忍び寄り、静かに胸を締め付ける。
(早く慣れたい)
アイラは心の中で強く願った。
──この感覚に、早く慣れてしまいたい。
慣れることで、この不安と孤独から解放されることを強く望んでいた。
◇◇◇
「レイラせんせえ! も~~! やっぱりここにいたぁ!」
教会で静かに祈りを捧げているアイラの背中に、幼い女の子の弾むような声がぶつかってきた。
振り向くと、そこには小さな拳を腰に当て、まるで怒っているかのような顔で睨んでくるディディ・ローバック──王都一有名なローバック大商会の会長の孫娘(八歳)が立っていた。
「朝、起きたらすぐに来てって言ったのにぃ!」
ディディは小さな体を精一杯に使って抗議するようにむうむうと唇を尖らせる。
アイラは微笑みを浮かべながらも、少しだけ厳しい口調で問いかけた。
「こちらにはお一人で?」
その静かで少し冷たい声色に、ディディは途端に「だってぇ、だってぇ」とべそをかき始める。
だが、その顔には涙の跡一つなく、目元はカラリと乾いたまま。
(また嘘泣きね……このお嬢様ったら)
誘拐を一度経験しているというのに、このお嬢様は好奇心旺盛である。
アイラは小さく溜め息をつくと、ディディの背中を軽く撫でて宥めた。
すると、教会の扉が勢いよく開き、「お嬢様ぁぁぁぁぁぁあ……っ!」と叫び声を響き渡らせ、ディディ付きの護衛が息を切らしながら駆け込んできた。
アイラは彼に「ご苦労様です」と頭を下げる。
彼は無事にディディを見つけられてホッとした顔を見せ、今度はアイラに礼を言ってくる。
それから、「せんせえが一緒に来るなら、帰ってもいいけど!」と腕を引かれるがまま、アイラはお嬢様の住むお屋敷に半ば強引に連れていかれることとなった。
さて。
アイラは現在、『レイラ』としてディディお嬢様の教育係という職に就いている。
一年半前、ひょんなことをきっかけに──『ひょんなこと』と六文字で表現するには濃厚すぎる出会いと出来事だったけれど──思いがけず職を得た。
ここに来てから、アイラの生活は忙しくも充実したものになっている。
かつての肩書きや立場を隠し、ただ一人の少女を育て、見守る立場となったことで、アイラは新たな役割を生きることに真剣さと満足感を感じていた。
◇
「ねえ、レイラせんせえ?」
「何ですか、お嬢様」
「せんせえは、どうして顔に大きなそばかすを描くの? せっかくの美人さんが台無し」
ディディの無邪気な質問に、アイラは少しだけ驚いたが、すぐに冷静な表情を取り戻す。
この質問をされるのは、これで三回目だ。
「お嬢様はお世辞が上手くなりましたね」
「お世辞じゃないよ?」と、ディディは少しだけむくれたように言い、「まあ、なんとなく理由は分かるんだけどね……」と続けた。
(……分かるわけない、わよね?)
アイラは心の中でそう思いつつ、ディディの言葉に少し不安を感じた。
もしかして、この子は気づいているのだろうか? 自分が隠しているものに。
「可愛いから、ゆーかいされないようにでしょ?」
「ふふっ」
アイラは思わず声を立てて笑ってしまった。
子どもに対する『教育者』としての建前を一瞬忘れるほど、ディディの無垢な発言がアイラの心を和ませたのだ。
(私が可愛いなんて……)
この小さなお嬢様は、自分を信頼し、好いているようだ。
その無垢な好意に、アイラの心は温められる。
「あー! ごまかしたぁ!」
ディディがプンプンと文句を言うと、アイラは「さあ、お嬢様。手元がお留守ですよ」と優しく諭し、手仕事に集中するよう促す。
今日は彼女の友人に贈るためのハンカチに刺繍を施すお手伝いをしているのだ。
「別にいいよ。まにあわなかったら、おみせの商品を持っていくもーん」
「まあ、そんな悲しいこと言わないでください。さあさあ、お口のとんがりを直してください。ね?」
突き出たディディの唇をちょんと押し、アイラは笑顔で励ました。少しの間だけでも、子ども自身の力でやり遂げることを学ばせてあげたい──それが、アイラの教育方針だった。
ディディは「しかたないわねえ」と自身の母親の口調を真似て呟き、作業を再開した。
少々飽きっぽいものの、素直で賢いディディお嬢様。
その天真爛漫な性格は、周囲の人々に笑顔をもたらし、彼女の愛らしさは誰もが認めるところだった。
と、アイラ自身は、ディディお嬢様を素直で賢い子だと感じているが、ローバック家に仕える者たちの見解は少し違うようだ。
曰く、『我儘なお姫様』。
曰く、『悪戯好きのニンフ』。
曰く、『気位の高い子猫様』。
それぞれの視点から見るディディの姿が、多様な愛称として浮かび上がる。
まあ、ディディが我儘だったことも、アイラが来てからは激減したらしいが。
しかし、アイラはその昔のディディを知らないため、家族や使用人たちから感謝されても、いまひとつ実感が湧かないのであった。
◇
「──休日に突撃されて、屋敷に拉致されても尚『いまひとつ実感が湧かない』のを鑑みるに、レイラ先生が特殊なのかもねえ」
ほほほ、と笑う奥様──王都一有名なローバック大商会の会長の娘──は、「ディーが、ごめんなさいねえ」と続ける。
「まあ、拉致なんて……」
「そうね、言葉が過ぎた。謝るわ」
「いえ、気にしておりませんので」
「そう? ならいいの。ああ、そうそう、それよりもお見合いの件を考えてくれた? あなたにピッタリな方がいるのよ。私の親戚なのだけどね、王宮で事務をしていて、とても有望なの。覚えてる? ほら、あの事務員採用試験がすごく難しかった年の……そうね、三年前かしら。確か、合格率は一パーセントだったわよね? そう、確かそれくらいよ。でね、それに受かった後はね──」
この『お見合い話』は、すでに何度も断っているはずだった。
(ああ、今回はどうやってお断りしよう……)
アイラは軽く息を吸い、やんわりと断る言葉を探すも、奥様はお構いなしに話を続けている。
アイラにとって、ディディよりもこの奥様こそがまさに『我儘なお姫様』だった。
奥様は決して悪人ではないが、自分の意のままに事を運ぼうとする。
そして、話を大きく盛りがちだ。これを理解するまで、アイラは大いに振り回されたものである。
……今回の話──親戚筋の男性が、合格率一パーセントの中に含まれているというのも、盛りに盛った話だろう。
半年前に仲介した二人の成婚がよほど嬉しかったのか、奥様は顧客から年上の友人にまで声をかけ始めた。
彼らの娘や孫、時には知人までがターゲットになったのである。
しかし、結果は散々。奥様の意気込みも空回りして終わった。まさに徒労の連続。
おそらく成婚したカップルは、元々相性が良かったのであって、そもそも奥様に仲介してもらったという意識を持ってすらいないのだろう。
それを知らずに奥様は自分の手柄だと思い込んで、さらに奮闘してしまったのだ。
……その空回りは微笑ましくもあるのだが、『微笑ましい』で終わらないのが奥様である。
上手くいかない状況に苛立ち、奥様はついに使用人たちにも声をかけ始めた。
「──というわけで、一度会ってみない?」
必殺『一度会ってみない?』にアイラの肩が、ぶるっと震える。比喩ではない。
これは、絶対に頷いてはいけない言葉だ。お嬢様付きメイドであるジュリエットが、『絶対頷いたらだめなやつだからね……』とげっそりした顔で言っていたので、よぉく覚えている。
「ご、ごめんなさい。私、その……た、逞しい殿方が好きなのです。そ、そう、騎士様がいいです。それ以外の方は、その……申し訳ありません」
アイラは必死で断りの言葉をつむいだ──咄嗟に出た言葉だった。
アイラの力強い拒否の言葉に奥様はムッと顔を顰めた。
「先生ぇ? あなた、その顔で『騎士様と……』なんて……まあ。なんて烏滸がましいのかしらぁ」
奥様の言葉がアイラの胸に刺さる。
「理想が高すぎると行き遅れるわよぉ? わたしの女学園時代のお友達にもあなたみたいなことを言う子がいたんだけどね──」
その言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいく。
アイラはそっと目を伏せ、そして窓の外へと視線を向けた。
眠たそうな水色の空と、やわらかな春の日差しが広がっている。
その光に触れた瞬間、自分の口から出た言葉がふいに思い出された。
──騎士様がいいです。
咄嗟に言ったはずなのに、不思議と心に残っていた。
その言葉の奥に、確かな輪郭を持った誰かの面影が浮かぶ。
(まるで──春の日差しみたいな人だった)
穏やかで、けれど確かに温かくて。
どれだけ冷え込んだ日でも、そっと心を緩めてくれるような。
(ああ、そうなのね)
そのとき、ふと腑に落ちた。
(……私は、今も、恋をしているのね)
どんなに叶わない夢でも、この想いだけは消せない。
そう、確かに思えた瞬間だった。




