10.王子の騎士は、取り乱す
「オリヴィアが医者に紛れてシーグマン領に行ったでしょ? 本当はザイルかエイブに行かせる予定だったんだけど、その日は私に急な視察が入ってしまってね。ギルバートに頼もうかと思ってたところで、非番だったオリヴィアが『自分が行く』って申し出てきた。『しばらくエリックの顔を見ていないから会いたい』って。そして、翌々日、彼女からサインの入った書類を受け取った」
話の内容は理解できるはずなのに、どこか腑に落ちない。
「それから……二週間ほど前に速達で除籍申請書が届いて、不備がないから申請を通した。それで……」
ジェレマイアはここで言葉を切り、言いにくそうに唇を噛んだ。
二週間ほど前といえば、アイラがエリックの面会を立て続けに三回断った最初の日だ。
「先にも言ったけど、アイラ嬢の除籍はもう済んでしまったんだ」
その一言が、鋭い刃となってエリックの胸を貫く。
(──書簡なんて知らない、サインもしてない)
何度も頭の中で言葉を反芻するが、理解が追いつかない。
理解しようとするたびに、胸が強く締め付けられるような痛みに襲われる。
考えれば考えるほど、違和感が募っていく。
書類には、確かに自分のサインが入っている。
だが、エリックにはそれを書いた記憶がまるでない。
それどころか、オリヴィアから書簡を受け取った覚えすらないのだ。
ならばサインは、誰が書いた?
(まさか)
──オリヴィアしか、あり得ない。
現実を受け入れようとした瞬間、手が勝手に震え始めた。汗が額を伝い、呼吸が次第に浅くなっていくのが分かる。
「……嘘だ」
声が震え、感情が抑えきれずに漏れ出していく。
言葉にすると、自分の中の怒りと焦りが膨れ上がった。視界の端が赤く染まり、目の前の景色が歪んで見える。
「なんで……っ!!」
気づいたときには、声が怒鳴り声となっていた。
その瞬間、ジェレマイアの部屋の扉が勢いよく開き、ザイルとエイブが駆け込んできた。
二人は瞬時に剣を抜き、部屋の空気が張り詰める。
(落ち着け……こんなことで取り乱してどうする)
そう自分に言い聞かせようとするが、どうにも感情は収まらない。
「ザイル、エイブ、剣を収めて」
ジェレマイアの低い命令が耳に届き、ザイルとエイブはすぐに剣を納める。だが、二人の視線はエリックに釘付けだった。その視線を受け、エリックは自らの取り乱しぶりを思い知らされる。
冷静にならねばならないと理解はしているのに、それができない。
しかし、握りしめた拳の震えも、背を伝う冷や汗も、意志とは無関係に止まらない。逆流するような熱が全身を駆け巡り、鼓動は痛みを伴うほどに激しくなっていく。
「……オリヴィアのことは、私の方で調べさせよう」
ジェレマイアはそう言うと、静かに息を吐いた。
異母兄の激しい動揺を前に、彼はエリックがアイラに抱く特別な想いを察したのか、申し訳なさそうに表情を曇らせた。その顔には、拭いきれない後悔と罪悪感が色濃く浮かんでいる。
「私の落ち度だ。エリック、悪かったな」
エリックがラフな言葉遣いをするのも、ジェレマイアが『兄さん』と呼ぶのも、許されるのは二人きりのときだけだった。
先ほどのような砕けた口調は、ザイルとエイブの前では決して許されない──これは、王妃がエリックに下した唯一の命令である。
「……いえ。大声を上げてしまい、申し訳ありませんでした」
エリックは深く頭を下げた。
だが、胸の奥で荒れ狂う怒りと後悔は、未だに鎮まる気配すらなかった。
◇◇◇
エリックはいてもたってもいられず、単騎でシーグマン伯爵家に向かった。オリヴィアのことも気になるが、最優先はアイラだ。
──馬車で半日かかるシーグマン領へと到着したのは、日が完全に暮れた頃。
エリックは荒々しく門を叩き、使用人に導かれるまま玄関ホールへと足を踏み入れた。
いつものエリックであれば、状況を慎重に分析し、最善の手段を選んで動くはずだった。
しかし、アイラが突然除籍されたと聞かされた今、そんな冷静さなど吹き飛んでいる。
胸の奥で抑えきれない怒りと焦りが渦巻き、エリックを衝動的に突き動かしていた。
ホールへ足を踏み入れた途端、エリックは強い酒と、萎れた花のような甘ったるい香りに包まれた。
(この香りは……)
空気がどこか歪んでいるように感じたそのとき。シーグマン伯爵は現れるや否や、彼はエリックの襟元を掴む勢いで迫り、顔を真っ赤に染めて叫び声を上げた。
「娘をどこにやったああああ!!」
その怒声が響いた瞬間、エリックの耳には鋭い耳鳴りが突き刺さる。
「娘を返せえええ……! お前が婚約者になってから、アイラは言うことを聞かなくなったんだぞ!」
伯爵の目は血走り、焦点は虚ろに彷徨っていた。
「ままごとまでさせてやったのに! 門限を厳しくしたのに! 仕置き部屋と鞭が怖いくせにぃぃぃ!」
伯爵の叫びはますます支離滅裂になり、側仕えや屈強な使用人たちが駆け寄り、必死に彼を押さえようとする。
しかし、伯爵は彼らの手を振り払い、なおもエリックに向かって怒鳴り続けた。
「この前なんて門限を破ったんだぞ……! いや、その前からだ! もっとずっと前からおかしかったんだああああ! 何を考えてるんだ!? あいつはどうなってるんだ、全く理解できない! なんなんだあああ!」
エリックはその狂気に戦慄を覚えながらも、毅然と伯爵の怒りを受け流し、冷静さを装いながら口を開く。
「私もアイラ嬢の行方は知りません」
伯爵の血走った目が、じっとエリックを睨みつける。
「ならばどうしてこんな時間に慌ててやってきた!?」
エリックは表情を崩さず、穏やかな笑みを浮かべて答える。
「アイラ嬢発案の商品が、殿下の推薦でヴァージニア商店に置かれることになりました。その報告をお伝えしたかったのです。愛する婚約者の功績を、伯爵に真っ先にお知らせしたくて」
「お……おお……ヴァージニア商店……! は、はは……っ! それはいい!」
伯爵の顔に一瞬で笑みが浮かび、先ほどの激昂が嘘のように機嫌を直した。
そのあまりに分かりやすい変わりように、側仕えの者たちは顔を見合わせ、怯えた様子で一歩後ずさる。
「ご苦労だったな、エリック君。わざわざ報告に来てくれて助かったよ!」
伯爵の笑みは、どこか虚ろで不自然だった。
彼はあちこちに視線を飛ばし、エリックを見ながらも時折、目がどこか別の場所に泳いでいる。
(……やはり常用してる、か)
エリックは心の中で伯爵の状態を分析する。
目の前の男は、もはや正常な思考ができないほどに壊れている。幻覚に囚われ、現実と妄想の境界が曖昧になっている。
「ところで、アイラ嬢はどちらに? 先ほど、伯爵は『どこにやった』と仰っていましたが……こちらにはいないのでしょうか?」
エリックの問いに、伯爵は一瞬虚を衝かれたように口を開けたまま沈黙した。
そして、何かを考えるかのように目を泳がせた後、急に「あっ!」と声を上げ、しどろもどろに言葉を紡ぎ始めた。
「 ……そんなこと言ったかぁ? エリック君の聞き間違いじゃないか? そうだ、娘は……そうだ、昨日から寝込んでいて……枕が上がらないんだった。ああ、わざわざ来てもらって申し訳ないなあ」
伯爵の言葉は、相変わらず支離滅裂だった。
(アイラの除籍をしたのは、この男ではないようだ。それどころか、娘が除籍になったことも分かってない様子。……そして、この屋敷にアイラはもういない)
「だが! 子は産めると思う! そこだけは疑わないでくれ!」
突如として飛び出した見当違いな言葉に、エリックは思わず眉をひそめる。
「……勘違いでしたか。それは失礼しました、伯爵。アイラ嬢の件については疑っておりませんので」
エリックは深々と礼をし、礼儀を保ちつつも、迷わず踵を返した。
(ここに長く居てはだめだ。さもなければ、本当にこの男を殴り倒してしまう)
後ろから、伯爵の声が追いかけてくる。
「ヴァージニア商店の詳しい話を聞かせろ!! 商品の商標権は、私に変えるんだ!!」
貪欲さに塗れた要求に、反吐が出る。
「詳細は後ほどお伝えいたします」
振り返ることなく、冷ややかな声でそう告げ、エリックは足早に厩舎へと向かう。
冷たい夜風がわずかに怒りを和らげるも、アイラへの深い不安と、自らへの苛立ちは消えることなく渦巻いていた。
◇
(馬には無理をさせるが、頑張ってもらうしかない)
馬に跨った瞬間、「ビショップ様!」と若い女の声が響いた──アイラ付きのメイドだ。
何度か顔を合わせたことのあるメイドだったが、その頬は大きく腫れ、痛々しい。
一刻も早く王都へ戻りたい。
だが、このメイドを無視するのは忍びなく、エリックは馬を降りた。
「お呼び止めして大変申し訳ありません。あ、あたしは、いえ、私は、アイラお嬢様のメイドの──」
「すまないが急いでいるので手短に頼む」
エリックが言葉を遮ると、メイドは大きく頷き、早口で話し始めた。
「お嬢様は二日前の早朝、屋敷を出て行かれました。行き先は不明ですが、おそらく移動手段は徒歩です。に、西に、行く……と言っていました」
「西……? 隣領……それとも隣国か?」
「さ、さあ? そこまでは」
メイドの一瞬の動揺を見逃さなかったエリックは、素早く行動に移した。
上着の内ポケットから紙幣を数枚取り出し、驚くメイドの手にそっと握らせる。
エリックは穏やかな微笑みを浮かべ、「本当のことを教えてくれないか?」と柔らかく問いかけた。その瞬間、メイドの口から先ほどとは異なる答えがこぼれた。
「……ひ、東です」
「東の?」
「行き先までは……」
さらにもう一枚の紙幣を手渡すと、メイドの目が驚くほど輝いた。
その変わり様にエリックは内心で満足し、さらに和らいだ声で「それで、君のお嬢様は他に何を言っていたのかな?」と促す。
「些細なことでも何でもいいんだ、教えてくれるかな?」
「『あなたが責められる可能性が高いから』と、宝石と、少しだけですがお金も貰いました」
「へえ? それで?」
「あ、あと、りぼんとレースのハンカチも……で、でも! お嬢様は『私が無事にここから出ていけたら好きなものは持っていっていい』って仰っていましたし、殴られて怪我をした慰謝料代と思えば──」
「分かった、もういいよ。ありがとう」
エリックはメイドの言葉を遮り、愛馬に跨ると、今度こそ王城へ向けて馬を走らせた。
◇◇◇
早朝にもかかわらず、エリックはジェレマイアの許可を得て部屋に入り、開口一番に「アイラはすでに家を出ていた」と告げた。
「わぁ、ひどい顔だね、兄さん。美形が台無しだよ。仮眠を取ったほうがいい」
「寝てる暇なんかない。すぐにアイラを探しに行く。だから、報告だけしに来た。仕事は少し休ませてくれ」
エリックが真剣な表情で訴えると、ジェレマイアはしばし沈黙し、やがて冷静な声で「ふふ、そんなことだめに決まってるでしょう?」と答えた。
「止めるな」と強く言い募るエリックに対し、ジェレマイアは一転して厳しい声で言い放つ。
「止めるよ。命令だ──今すぐ仮眠室に行け、エリック」
その強い口調にエリックは目を見開き、驚きで固まった。
「五日後、シーグマン伯爵を捕縛する。その際、屋敷の家宅捜索も行う。令状は現在作成中だ。担当責任者はエリック、お前だ。これは当初の予定と変わらない」
ジェレマイアの言葉は、いや応なく王子の命令として響いた。
「証拠はすべて揃っている。お前がしっかり仮眠を取った後で詳細を話す。いいな?」
エリックは「拝命、承りました」と敬礼をする。
条件反射だった。体が勝手に動いたのだ。
「……ごめんね、兄さん」
ジェレマイアが謝り、エリックが「いいんだ」と答える。
「アイラ嬢はすでに平民だから、罪には問わない」
「……ああ」
「調べた結果、オリヴィアがサインを偽装したのは間違いなかった」
「……ああ」
「ギルバートも伯爵捕縛の場に連れて行って、何か手柄を取らせてあげてくれるかな」
オリヴィアの目的はまだ分からない。
しかし、彼女の行動は決して見過ごせるものではない。王子に偽りの報告をしたのだから、看過はできまい。
本来、彼女の採用は『平民でも女でも、実力があれば近衛になれる』ことを示すためのもの。
だが今回の件で、その方針が揺らぎかねない。そうなれば、平民出身のギルバートの立場も危うくなる。それだけは避けなければならなかった。
「分かった」
エリックの返事を聞き、ジェレマイアはもう一度「ごめん」と呟く。
その言葉には深い後悔と申し訳なさが込められていた。
エリックはジェレマイアの気持ちを察しながらも、冷静な態度を保ち、静かに頷いた。




