09.王子の騎士は、青天の霹靂を受ける
王子・ジェレマイアの執務室には、近衛騎士のザイルとエイブが控えていたが、エリックが入室すると静かに退出した。
ザイルとエイブはジェレマイアの年上の幼馴染であり、彼が絶対の信頼を置く近衛騎士たちだ。
さらに、彼らはジェレマイアとエリックの複雑な関係を知る数少ない存在でもあった。
世間ではエリックが次期筆頭騎士の候補と噂されているが、その可能性はないと断言できる。その噂は、シーグマンを誘い出すための『撒き餌』に過ぎない。
次期筆頭騎士の座を手にするのはエリックではなく、ザイルかエイブのどちらかである。
「兄さん、何かいいことがあったんだね?」
「……いや、その、あー……うん、あった。……はあ、ジェレマイアには隠し事はできないな。ああ、いや、元々隠すつもりはないんだ、今、言うつもりで……」
「分かってる。部屋に入ってきた兄さん、なんか……決意した顔、って言うの? してたから」
「ええ? そんな顔、俺してたか?」
「してた」
エリックが両頬を手で揉むと、ジェレマイアが「兄さんは、すぐ顔に出るんだ」と言って、エリックと同じ色の目を細めた。
◇
エリックは現王・ブラッドフォードの実の息子だが、王妃とは血の繋がりがない。
エリックの母親はビショップ男爵家当主の妹、ミッツィだ。
初め、ブラッドフォードとミッツィは王子と侍女という関係だった──ブラッドフォードには幼馴染兼婚約者がいて、この事実は絶対に覆せないと自覚していた。
一方でミッツィは『王宮侍女』という肩書きを得るためだけに王宮に来た男爵令嬢であり、王子と結ばれたいとは微塵も思っていなかった。
双方ともに、何の思惑もなかったのだ。
しかし、まるで運命に導かれたかのように出会った二人は、一瞬で恋に落ちた。
それは旋風のように激しく、誰にも止められない感情だった。彼らは心の底から互いを愛し合い、この人こそが運命の相手だと確信した。
そして、互いへの想いは募り、二人の心は固く結ばれた。
けれど、ミッツィは男爵家の生まれ。身を引くしかなかった。
釣り合わないと諦めたのだ。
これは、当然の結果だった。
ただ、腹の中の子だけは諦めたくなかった。
『絶対に生む。私が死んでも、この子だけは』と。
出産により母体の命が危ないから、と説得されても、ミッツィは譲らなかった。
そして、周囲の、特に兄の反対を押し切り、彼女は赤子を出産した。
生まれた子供は、茶髪に、茶色の目をしていた。
ミッツィは安心した。彼と違う色だ、と。
元気な赤子を見届けると、彼女は静かに事切れた──しかし後に、エリックの髪と目の色は、ミッツィの運命の人と同じ色に変わり、その半年後に生まれたジェレマイアも、エリックと同じ色を持って生まれ、同様の変化を見せた。
そんなわけで生まれてすぐに両親を失ったエリックは、ビショップ男爵に引き取られることとなった。
エリックが正妻とその息子たちに苛烈ないじめを受ける……ということは全くなかった。
むしろその逆であった。
エリックは新しい家族に温かく迎え入れられ、愛情を持って育てられた。
周囲には、エリックを支える優しい人々がいたのだ。
ビショップ夫妻はミッツィの忘れ形見をまるで自分たちの子供のように愛し、時には叱り、励まし、慈しみながら、のびのびと育てた。
エリックの意志を尊重し、騎士になりたいと言ったときには、『頑張りなさい。でも、辛いと思ったらやめてもいいよ』と優しく諭してくれた。
その愛情と支えのおかげで、エリックは自分の道を見つけることができた。
そして、きょうだいたちもエリックを深く愛し、支えてくれた。
彼らとは一緒に笑い、泣き、共に成長し合った。
エリックの夢を応援し、その絆は強く温かく、何よりも大切なものだった。
運動が苦手なのにやんちゃなエリックに付き合って遊んで熱を出した長男と、木の上から降りられなくなったエリックを助けるために高所恐怖症を克服して木に登った次男。
そして、遅くに生まれた妹のことは、自分が兄たちにしてもらったように愛情をたっぷり与えて可愛がっている。
この家族の絆が、エリックを支え、成長を促した。
士官学校に入学する年──一三歳の誕生日を迎えるその日まで、エリックは自分だけが家族と容姿が似ていないことに疑問を抱いたことすらなかった。
それは家族を心から信頼し、疑う気持ちが湧かないほどに、家族から愛されていると感じていたからだ。
もちろん、エリックも家族を愛している。
家族が悲しむことはエリック自身の悲しみであり、家族が喜ぶことは自分の幸せそのものだった。
その想いは、今も、これからも変わることはない。
だからこそ、真実を知っても、自分を『哀れ』だと思ったことは一度もなかった。
確かに、一部で口さがない噂が出回ってはいた。エリックが商売女の子供だとかいう誹謗中傷の類だ。
しかし、それらに対して悲哀を感じたことはない。もっとも、腹が立たなかったわけではないが。
だって、世の中には自分より何倍も何十倍も、辛い思いをしている者が山といる。
そもそも、エリックは本来、生を許されるはずのない存在だった。
なのに、衣食住だけでなく、惜しみない愛情を注がれ、正しい道を教えられ、恵まれた環境と教育を当然のように享受しながら、今も生きている。
加えて、王妃はエリックの存在を知りながら、自分の息子である王子・ジェレマイアとエリックが顔を合わせることと、近衛騎士にすることまで許してくれている。
王妃がエリックに個別で会おうとしたことは、一度もない。
だが、だからといって嫌がらせや妨害をするわけでもなく、彼女は完全に傍観者の立場を保っている。
やはり、これほどの冷静さと気概がなければ、一国の王妃など務まらないのだろう。並みの女性ではこうはいくまい。
実の父である国王にも、王妃と同じく、一度たりとも対面で会ったことはない。
いや、正確には記憶に残っていないだけなのだが……一度、腕に抱かれたことがあると養父から聞いたことがある。
それ以降、国王との接触は今まで一切ないそうだ。
エリックがその話を養父から聞かされたとき、不思議なことに寂しさも怒りも湧かなかった。
ただ、そうか、と淡々と受け止めるだけだった。
エリックにとっての本当の父は、『あの方』ではなく、養父ただ一人だと心の底から思えたからだった。
◇
「──ああ、そうだ。シーグマン領のキャラメル、ヴァージニア商店で置かせてくれるって」
ジェレマイアが、「ほら」軽く言いながら、ヴァージニア商店の発注メモをエリックに手渡す。
「……すごい発注数だ。ジェレマイア、本当にありがとう。恩に着る」
「私もあのキャラメルは気に入ったんだ。特にプリュム。あれはいいね。食感がとてもいい。キャラメルの売れ行きが良かったら、プリュムを使った別の菓子を作ってほしいな」
ジェレマイアの表情には、甘党らしい期待が滲んでいる。
「売れないはずがない。『麗しのジェレマイア王子殿下のお気に入り』って謳い文句が付くなら、の話だけど」
「ふふ。うん、いいね。付けようか」
王都一有名なローバック大商会が保有するヴァージニア商店と、王子であるジェレマイアが手を組めば、それは莫大な利益を生むだろう。
そうなれば、その利益がシーグマン領に流れ、領民の暮らしも豊かになる。
もちろん、シーグマン伯爵という障害は残っている。
だが、もし伯爵が売上を不正に搾取すれば、その瞬間に捜査の名目で介入が可能になる。
その際に証拠を掴む可能性が一気に高まるのだから、悪い話ではない。むしろ、その機会が巡ってくるなら絶好の展開とさえ言える。
(今が好機だ。アイラの話を切り出そう)
ジェレマイアに直接報告する機会は久しぶりだ。
シーグマン領の医療問題と経過についても伝えねば……そう考えた矢先だった。
ジェレマイアが「そうそう、これも伝えなきゃね」と、何気なく口を開いた。
「シーグマンの娘の除籍、先ほど完了したそうだよ」
その瞬間、エリックの時間が止まった。
(シーグマンの……娘の、除籍?)
一瞬のはずの時間が、永遠にも思えるほど長く感じられた。
ジェレマイアの言葉は何かの冗談だろうか? と一瞬脳裏をよぎったが……彼がこんな冗談を言うはずがない。
「何の……話だ?」
掠れた声は、自分のものとは思えなかった。
口の中が急に乾き、息苦しい。
自分の中のすべてが『理解できない』と叫び声を上げている。
ジェレマイアは訝しげに眉をひそめ、「オリヴィアに持たせた書簡で知らせた件の話だよ」と言いながら、机の上の箱から紙を取り出し、エリックに差し出した。
「アイラ嬢をシーグマンの籍から抜くことを知らせる書簡だよ。……覚えてない?」
エリックは震える手でそれを受け取った。
視線を落とした先には、見慣れた字体──自分のサインが書かれている。
だが──
「……これ、俺の……?」
それは間違いなく、エリックの筆跡だった。
見れば見るほど間違いなく自分のものだ、と錯覚させられるような筆跡。
しかし、記憶のどこを探しても、エリックがこの書類にサインをした覚えはない。
(こんな書類に、俺がサインなんかするもんか)
胸の奥から怒りが湧き上がる。
サインが偽造だと気づいた途端、驚愕で凍りついていた頭が、一気に怒りで沸騰した。
「このサイン……兄さんがしたんだよね?」
ジェレマイアが問いかけてくる。
エリックは無言で首を左右に振った。
焦燥と怒りが入り混じり、視界が揺らぐ。
「違う……これは、俺じゃない……」
絞り出すように声を発したとき、エリックの手は小さく震えていた。