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愛が重い夫と、それに気づかない転生妻

作者: サモト

1.


 夫の隠し部屋は“私”であふれていた。


*****


 ニナが隠し部屋を見つけたのは偶然だった。

 夫の部屋に置き忘れた本を取りに入り、壁際の棚がずれていることに気がついた。

 位置を直そうと近づいて――隠し部屋の存在を知ったのだ。


 入ってみて、ニナは驚いた。出会ったのはまず“自分”だ。

 正確には鏡写しのように精巧に描かれた己の全身絵。しかも等身大。


 まじまじと絵を観察する。


 栗色の髪と目。背は高くもなく低くもない、太ってもやせてもいない、十八歳の娘。かわいいと褒められはするものの、美人と褒められたことは一度としてない、取り立てて絵にすることもない容姿だ。


 着ているものも珍しさはない。シンプルなシャツにスカート。頭にスカーフを被り、手に藤カゴを下げ、服が汚れないようエプロンをしている。教会へ奉仕活動に行くときの服装だ。


 全身絵の他にも絵があった。入って右に横長い部屋は、正面の壁が絵で飾られていた。大小色々で服装やアングルも違うが、モデルは一人だ。


(なんで私ばっかり……?)


 たくさんの“自分”がいるのは異様な光景で、ニナはターンして顔をそむけた。


 絵と反対側の壁には棚があった。

 上段にぬいぐるみが規則正しく陳列されている。

 ニナにはすべて見覚えのあるものだった。夫と結婚する前、まだ顔見知り程度の関係だったころ、教会のチャリティーバザーで販売していた自作の手芸品だ。


(親戚の子供にあげるっていって買って行ってくれていたのに。なんでここに飾ってあるの?)


 腑に落ちないものを感じつつ、一段下に目を移す。

 彩色美しい木箱に手紙がきれいに立てて収納されていた。差出人を確認すると、すべてニナだ。


(私も夫の手紙を取っておいてあるけど……)


 不審なのはささいなメモ――明日の十時におうかがいします――といった他愛のないものまで保管されていたことだ。

 しかも折れたり破れたりしないよう、厚紙に挟んで。


 こわごわ別の段の宝石箱をのぞいてみる。


 ハンカチが出てきた。失くしたと思っていたお気に入りのレースハンカチだ。

 壊れたペンや歯の欠けたクシがあった。これも元はニナのもの。

 茶色い髪の毛の束を発見したところで、ニナは棚から飛び退った。


(なんなの、ここ!?)


 部屋の奥には小さな机と椅子があり、革張りのノートがおいてあった。

 悪いことをしていると思いながら、ニナはページを開く。


『〇月〇日 ニナは友人とお茶会。この土地にもなじんできたようだ。良かった』


『〇月△日 今日のニナは体調が悪そう。外出を控えるようにいったけれど、こっそり近所の子供と遊んでいたもよう。ニナは嘘をつくとき声がわずかに高くなるのでわかりやすい』


『〇月×日 ニナが寝言で男の名前をつぶやいた。尋ねたらはぐらかされた。声が高かった。怪しい』


『〇月□日 ニナが――』


 ニナニナニナニナニナ。どこのページもニナのことばかりだ。

 ノートには日々の記録だけでなく、ニナの身長や体重、経歴や趣味といったことも記されていた。

 親兄弟や親戚の名前、友人や知人の名前もメモされている。


(なんでここまで私のことを?)


 小さな隠し部屋をぐるりと、改めて見回す。


(これってひょっとして)


 ニナは棚に陳列されている、自分の作った手芸作品を見つめた。

 冷汗が流れる。


(私が異世界からの転生者だってバレてる?)


 平凡な自分にある唯一の非凡。

 そうに違いない。でなければ、あの夫がこれほどまでに自分に執着する説明がつかない。


 青い猫型ロボットに黄色い電気ネズミ、体重がリンゴ三個分の子猫など、子供が喜ぶと思って作った著作権の侵害甚だしいぬいぐるみは、こちらの人々には不評だった。

 褒めて買って行ってくれたのは夫だけだ。


(なんて優しい人なんだろうって感謝していたけど、ちがったんだ。あれは私が異世界出身者であることの証拠集めだったんだ!)


 それを踏まえれば、この変な部屋も理解できる。


 机の上にあったノートにニナのことばかりが書かれていたのは、ニナの動向を逐一監視している結果。

 壁一面の肖像画はいざという時の手配書用。等身大の全身絵まで用意してぬかりがない。

 棚に集められていたニナの私物は、いざというときニナの居場所を追跡するためのものだろう。

 ニナの転生した世界には、神術や魔術と呼ばれる魔法が存在している。人を探す魔法には探す相手の持ち物や、髪といった体の一部が必要だ。


(私、監視されていたんだ……)


 この世界で、異世界からの転生者は神や救世主と敬われることもあれば、邪神や悪魔と嫌われることもある。


 不運なことに、ニナの生まれ落ちた国は転生者を嫌う方だった。国の信奉している宗教、クライス教の方針だ。


 転生者のもたらす知識や常識は良くも悪くも世の中に影響を及ぼす。

 転生を機に強大な魔力や、人並み外れたスキルを持ち合わせる転生者もいる。

 禍福を兼ね合わせた存在なので警戒されてしまうのだ。


 たとえニナ自身は前世同様普通の人間で、平和な人生を歩みたいと思っていても。


(だから怪しまれないよう熱心に教会に通って、奉仕活動もがんばってきたんだけどな)


 司祭もニナのことを良き信者と信頼してくれていたので安心していたが、見通しが甘かったようだ。


「……見てしまったんですね」


 ニナは思わずひっと悲鳴を漏らした。


 隠し部屋の入口に人が立っていた。

 太陽のように輝かしい金色の長い髪に、晴れ渡った空のような碧い目をした、すらりと背の高い青年。

 一年前に結婚したニナの夫、ミシェルだ。


 ミシェルはいつも陽だまりのような穏やかな笑みを浮かべているが、今はちがった。天使のように美しい顔は、悲しげに曇っていた。


「ミシェル、仕事、は? 今日は帰れないって、知らせが、さっき」

「そうなんですけどね。一目でもニナの顔が見たくて。寄ったんです」


 ニナの足がガクガクと震える。


 ミシェルの職業は騎士だ。しかもただの騎士ではない。

 騎士の中でもとりわけ優秀な者だけがなれる“使徒しと”。

 武術にも神術にも長けた悪魔討伐のスペシャリスト。

 教会から聖なる剣を授けられた神の戦士。


 つまりニナの天敵だ。結婚してから知った。


(どうしてミシェルみたいな良くできた、できすぎた人が私と結婚する気になったか不思議だったけど。やっと謎が解けた)


 転生者――クライス教における悪魔を監視するためだったのだ。

 伴侶になってしまえば相手に悟られず見張りやすい。


(今までも、今みたいに「早くニナに会いたくて」って予定外に帰って来ることがよくあったけど、あれは私が不審な行動をしていないかの抜き打ちの調査だったのかもしれない)


 ニナはごくりと唾を呑みこんだ。


「ミシェル……」


 私を殺すの? とは怖くて尋ねられなかった。


 ミシェルは無表情だった。青い目が危険に光っている。獲物を見つめる獣のように。


 無意識に一歩下がると、一歩詰められた。

 さらに下がれば、さらに近寄られる。


 ニナの背中が壁に当たると、ミシェルは壁に右手をついた。

 息がかかるほどの耳元でニナにささやく。


「逃がしませんよ?」


 それでもニナが往生際悪く逃げ道を探すと、ミシェルは左手も壁についた。

 ニナの体は壁とミシェルの間に閉じ込められる。


「……私を、どうするの?」

「それはあなた次第ですね」


 まだ危険な状態ではあるが、ニナは肩の力を抜いた。


(よかった。すぐに殺されるわけではないんだ。

 おとなしくミシェルの言うことを聞けば生きられるのかもしれない)


 横抱きにされると、ニナはすなおにその首に腕を回した。



2.


 隠し部屋を出ると、ミシェルは二人の住んでいる城の塔をどんどん登っていった。

 たどりついたのは、塔のてっぺんにある鍵のついた部屋だ。


(ミシェルが見せてくれなかった部屋だ)


 この城はミシェルの父、グラン伯爵から新居として与えられたものだ。

 引っ越してきた日、ミシェルは地下牢も宝物庫も隠さずニナに見せてくれたが、塔の部屋だけは「見るほどのこともないから」と見せてくれなかった。


(まさか拷問部屋とか?)


 手に汗を握って、ミシェルが部屋の鍵を開けるのを見守る。

 覚悟を持って中をのぞくと、最悪の想像は外れた。中はホテルのスイートルームのように整っていた。


 壁には淡い黄色の壁紙が貼られ、床には草花模様のじゅうたんが敷かれている。全体的に温かみのある雰囲気だ。

 ベッドにクローゼット、ソファといった家具も用意されていて、どれも彫刻が細かく贅沢なつくりをしている。

 太陽の昇る方角には祭壇があり、毎日の礼拝も行えるようになっていた。


「今日からここで生活してもらいます」


 ニナは戸惑った。地下牢に入れられてもおかしくない身の上だ。こんな上等な部屋で生活させてもらえることが信じられなかった。


「最初にこの部屋を使ったのは我が家の先祖です。故あって捕らえられ、晩年は幽閉生活でした。以来、貴人を幽閉するために使われています」


 貴人の幽閉部屋に入れられるということは、ニナはまだミシェルの妻ということだ。


(悪魔が妻だったっていうのは外聞が悪いからかな)


 なんにせよ心ある扱いをされて、心が少し軽くなった。

 浅かった呼吸がようやくいつも通りになる。


 けほっと小さく咳が出た。部屋は整っているが、長いこと使われていなかったのでほこりっぽい。ミシェルがすぐに窓を開けた。


 高い塔の上なので、当然のことながら眺望が良い。

 城はなだらかな丘の上にあり、郊外のブドウ畑までもが見晴らせる。

 眼下に広がるのは木とレンガで作られた白い漆喰壁の家々。砂岩で作られたバラ色の聖堂。夕陽にきらきら輝く運河。何度でも見惚れてしまう風景だ。


 ニナは思わず身を乗り出し、ミシェルに引き戻された。

 ベッドに座らされ、手早く右足首に金属製の環をはめられる。足かせだ。かせに付いた鎖は、重厚なベッドの柱につながれている。


「妙な気は起こさないでくださいね」


 窓の前に立たれ、ニナは目をぱちくりさせた。


(妙な気って、窓から飛び降りるということ?)


 したくない。全然したくない。

 自殺する気はまったくないので、ニナはこくこくうなずいた。


「……本当はずっとこうしたかったんです」


 ひざまずいたミシェルが、無粋なアクセサリーのついた足をうっとりとなでる。


 ニナは背中に怖気が走ったが、気持ちは分かった。見張る側にしてみたらそうだろう。行動を制限していた方が楽だ。

 従順さを示そうと、左足も差し出してみる。


「……こっちも、はめる?」

「そうですね。当面は」


 ためらいなくもう片方も拘束され、ニナは胃が重くなった。

 生きられるとしてもこの先いったいどんな目に遭わされるのか。


「……う、打ったりするの?」


 恐怖と緊張で口がすっかり渇いている。

 前世の中世であったという、魔女狩りのような目に遭わされないかと不安でしかたない。


「がんじがらめに縄で縛ったり、鞭で打ったり……ロウを垂らすとか、するの?」

「しませんよ!? こんなことをしておいて何ですが、私そんな趣味まではありません」


 力いっぱい否定され、ニナはほっとした。

 幸せそうに足を拘束してきたので人を痛めつけるのが趣味ですとカミングアウトされる可能性を危ぶんでいたが、杞憂だったらしい。


「ニナ、いったいどこでそんな変なことを覚えたのですか……?」

「結婚式のとき、使徒の方々がそういうこともするといっていたから」

「どこの変態か知りませんが、ソレには二度と絶対金輪際近づかないように」


 ミシェルはニナのあごを取った。

 説話でもするように、ゆっくりはっきり妻に言い聞かせる。


「あなたがこの部屋でおとなしくしていてくれるなら、そのうち枷も外しますよ。

 逃げようとしたら……自分でもどうするか分かりませんけど。

 言うことを聞いていただけますか?」


 ニナは間髪入れずに承諾した。

 悪魔狩りのスペシャリスト相手に逃げる自信なんてこれっぽっちもない。従うに限る。


「……幻滅したでしょう?」


 ぽつりと零された言葉に、ニナは小首をかしげた。

 幻滅した、とは。意味が良く分からない。


(夫婦だって信じ切っていた私を裏切ったから?)


 もちろん恨んでいる。だまされていたと知って悲しかった。


「ニナのことならなんでも知りたいんです」

「ニナが他の人と話していると不安で……」

「子供はもう少ししてからでもいいですか? ニナと二人きりの生活を楽しみたい」


 これまでミシェルにささやかれた言葉の本当の意味を考える。


 ニナのことをなんでも知りたがったのは、監視対象だったから。

 ニナが他の人と話すのを嫌がったのは、転生者という悪魔から人々を守るため。

 子供……悪魔との子供なんて欲しくないだろう。


 甘い言葉と信じて浮かれていた自分が虚しい。


(ぜんぜん気づかなかった。……すごいな、ミシェル)


 使徒としての任務を果たすため、悪魔と結婚したことにも感嘆する。


(騙されていたのはショックだけど、私も転生者だって黙っていたからお互いさまか。

 ミシェルの方が一枚上手だったって話だよね)


 ニナは負けを認め、ミシェルに穏やかにほほ笑みかけた。


「幻滅なんてしてないわ。今このときでもミシェルは私の中で勤勉で高潔な騎士様よ。

 私のことはどうか気の済むようにして。悪いようにしないと信じて従うから」


「――っ!」


 ニナの許しに、ミシェルはよけいに苦しそうにした。顔を逸らす。


「あなたは本当に優しい方ですね。

 母が早くに亡くなった話をしたとき、あなただけです。私に同情したのは」


 ニナは記憶をたぐった。


(なんていったっけ? “子供を残して亡くなるなんて、お母様も心残りでしたでしょうね”?)


 思い出して身が縮む。

 ニナにとっては大失敗だった。あれは正しいなぐさめではなかった。


「おかしななぐさめだと思いました。母は早くに神の御許に呼ばれたのです。栄誉なことです。辛いことではない」


 ミシェルの言う通りそれがこの世界の、クライス教での適切な励まし方だ。

 早く死ぬ人は神様に愛された人。良い人だから神様に呼ばれた。名誉なこと。


 ニナはそれをうっかり忘れていて、安易に前世でよく使われていたお悔みを使ってしまった。

 ミシェルにおかしそうにされ、焦ったことばかり覚えている。


「でも――思ったんです。そんなふうに考える人は、きっと簡単に大事な人を置いていったりしないのだろうって」


 ひざまずいているミシェルは、両腕でニナの両足をつかまえた。

 母のひざにすがる子供のように、ニナのひざの上に顔をうずめてくる。


 ニナはなんとなくそうしてあげた方がいい気がして、金色の髪におおわれた頭をなでた。


「……いやにおとなしいんですね。

 普通もっと嫌がったり、泣いたり、私を避けようとしたりするものだと思いますけど」


 顔を上げたミシェルは不審そうだった。

 まったく抵抗しないので、かえって怪しまれている。


(ちょっとは逆らった方がいいかな)


 思案していたら、だしぬけに中性的で美麗な顔が近づいてきた。

 唇が触れそうになり、とっさに体を押し返す。


「ごめんなさい、びっくりして」


 意図せず逆らったニナは後悔した。


(ひいっ、怒ってる! 怒ってる!)


 立ち上がったミシェルが、憮然とした面持ちで見下ろしてくる。怒っていると整った顔は石のような冷たさがあって怖い。ニナは二度と逆らうまいと誓った。


「私は出かけますが、召使に様子を見に来させます。妙なまねはしないでくださいね」


 部屋に鍵をかけて、ミシェルは仕事へもどっていった。



3.


 ニナの幽閉生活は本人の予想より快適だった。


 食事はきちんと用意されたし、衣類やシーツ類も交換されて清潔を保たれた。痛めつけられることもなかった。足を拘束した以外は、ミシェルはニナをていねいに扱った。


 苦痛なのは外に出られないことと、ミシェル以外とは会話ができないことだ。

 ニナが塔の部屋に移ったのは伝染性の病気にかかったせい、とされていた。

 メイドは身の回りの世話をしにきてくれるが、必要最低限の会話しかせず、用事が終わったらすぐに出て行ってしまう。


 さみしいが、転生者と知られて避けられるよりはましだ。

 メイドはニナを気の毒そうにしていた。声に出さずとも、雰囲気で伝わってきた。

 もし隔離の理由がもし転生者と知られていたら同情なんてされなかっただろう。

 頻繁に差し入れられるお菓子をありがたくいただいた。


 おかげで、ニナのお腹まわりは由々しき事態になった。

 むにむにとお腹のお肉をもみ、悲壮な顔でミシェルに訴える。


「部屋の中だけでも自由に動けるようにして。ミシェルの足がつぶれるわ」

「そんなにヤワではないので大丈夫です」


 ひざにニナをのせたミシェルは、平然と応じる。


「私を窓も扉も通れないくらいの肉だるまにするの!? そういう魂胆!?」

「肉だるまなニナですか……それはそれで良いしれませんね」


 ほほ笑まれて「なんという鬼畜」と戦慄したが、最終的に乙女の切実な願いは叶い、足枷は外れた。ニナの日々の従順な態度も功を奏したようだった。


(この生活になってからやたらと触れ合いが多いけど……一体なんなんだろ。

 悪魔なんて触りたくないものだと思うけど)


 ニナは頭をなでてくる使徒を不審にした。


(なでることで弱体化を狙っているとか……?)


 悪魔は転生者だけでなく、邪な異形も含まれる。そちらの方が一般的な悪魔で、聖水や神の祝福を受けた武器が有効だ。祝福を受けて戦う使徒もしかり――ニナにはまったく効果はないが。


「そうそう、ニナ。アナイスから小包が届きましたよ。出張土産だそうです」

「アナイスお姉さまから? 嬉しい」


 アナイスはミシェルの双子の妹だ。同じく使徒で、各地を飛び回っている。

 ニナのことを実妹のようにかわいがってくれており、二人は気軽に手紙や物をやりとりしていた。


 小包を受け取って、ニナは愕然とする。


(――ひどい。勝手に)


 小包はすでに開封されていた。添えられている手紙も。


「ニナ、お風呂が好きだったんですね。知りませんでした」


 プレゼントは有名どころの石鹸といい香りのするサシェだった。

 手紙には、ニナのお風呂好きを踏まえてお土産を選んだ旨が書かれている。


(検閲するなんて)


 思わずミシェルをにらんだが、なんの恥も後ろめたさも感じていない相手の様子に、だんだんと意気消沈した。


(囚人だもの。そういうものよね)


 ニナは模範囚を心掛けていたので、義姉への返信は封をせずミシェルに託した。

 文句の一つもなくそうしたことに、ミシェルは少し目を見張る。


「ねえ、ミシェル。私みんなに“伝染性のある不治の病にかかったので、二度と会えません”ってお手紙を書いておいた方がいいかしら?」

「はい?」


「私、世間と縁を切らないといけないのでしょう?」

「別にそこまでして欲しいとは思っていませんけど!?」


 ニナの提案に、ミシェルは目をむいていた。

 バツが悪そうにうなだれる。


「ニナ……信じてもらえないでしょうけれど、私、本当はあなたと前と同じように暮らしたいんです」

「前と同じに?」

「普通の、世間一般の夫婦のように暮らしたいんです。こんなことはせず」


 ニナの茶色い目をしばたかせた。


「隠し部屋を見られた時は必死で。私の正体を知ったあなたが離れて行ってしまうことが耐えられなくて、強引なことをしてしまいました。

 今となってはとても後悔しています」


 ニナは内心、首をひねった。

 相手が離れていく心配をするのは、むしろ悪魔であるニナの方のはずだ。


(ミシェルは監視役でなくずっと私の夫でいたかったの……?)


 ニナはミシェルのひざに乗せられている理由を考え直した。

 これはいわゆる夫婦のスキンシップというものだったか。


「……私のことが憎くなったのだとばかり」

「まさか! 好きです。自分ではどうしようもないくらいに」


 思い詰めた声で告白され、抱きしめられる。

 ニナの脳内で結婚式のときの鐘の音が再現された。


(ミシェルが私と結婚したのはただ任務を果たすためだと思っていたけど、そんなことなかったんだ。ちゃんと気持ちがあってのことだったんだ)


 心臓がドキドキした。頬に血が上る。熱い。


「すみません、ニナ。怖がらせてしまっていますよね。

 囚人のように扱っていたら、愛なんてあるのか疑って当然ですよね。

 好きなのにこんなことをするなんて、矛盾していますよね。

 ……どうして私はこんなふうなんでしょう。こうはなるまいと思っていたのに」


 ミシェルの腕に力がこもる。痛いほどの抱擁だった。


「でも、それでも私はあなたを離せない。最低ですね」


 自嘲まじりの独白は、聞いている方が辛くなるほど苦しそうだった。


 ニナはミシェルの背に手を回した。

 相手を責める気持ちはこれっぽっちもない。

 ミシェルが自分の自由を奪うのは仕方のないことではないか。仕事なのだから。

 個人的な感情を押し殺して、世の平和のために責務を果たす。使徒の鑑だ。


「ミシェル、どうかそんなに自分を責めないで。私は幸せだわ。あなたような人が夫で」

「いいんですよ、軽蔑して。気持ち悪いでしょう」


「夫婦だっていうなら、私あなたに……キス、してもいい?」

「――っ!?」


 信じられないことを聞いた、というようにミシェルは硬直していた。

 頬に口づけると、しばらく呆然としていた。


「あなたは――あなたはどうしてそんなに――」


 優しいんですか、というセリフはかすれ、ほとんど声にならなかった。


「――ひゃっ!」


 ニナは頓狂な声を上げた。

 突然ミシェルに左足を取られ、足先に口付けられたのだ。


「ミシェル、そんなところ! 汚いっ、汚いから!」


 ミシェルは制止に耳を貸さなかった。

 妻の足からビーズのついたサテンの靴を取り去り、もう一度その足先にキスした。


「あなたの体に汚いところなんて一つもあるわけないでしょう」

「あ、り、ま、す、よ!?」


 ニナは一音一音を大事に発音した。

 頬をまっ赤にしてミシェルの手の中から左足を抜こうとするが、抜けない。

 夫はしつこく足にかまってくる。


「あなたの体についたものなら泥でも金粉に思えます」

「ひいっ!?」


 足裏を舌が這った。湿った生々しい肉の感触に、ニナは背筋が粟立った。

 足指の間にも薄いピンク色の肉は割って入ってきた。指を口にふくまれた段に至っては、ニナはもはや声を失くした。

 幽閉も拘束も検閲も受け入れてきたが、さすがにこれはヒいた。


 迫ってくる夫を、血の気の失せた顔で見上げる。


 彫刻のように整っている顔は、頬がばら色に上気して生き生きとしていた。

 浮かぶ微笑は穏やかで幸せに満ち足りている。

 長いまつ毛の奥にある澄んだ碧色の目は、熱っぽい。ただただニナだけを熱く見つめている。人生でこれほど熱心に見られたことはないと断言できる熱視線だ。


 ニナはどこか夢心地な夫の様子を、前世の語彙で簡潔に表現した。


(なんかイっちゃってない――?)


 細身とはいえ、のしかかられれば使徒として鍛えられている成人男性の体は重い。

 触れ合った肌は布越しでもわかるほど熱かった。

 指先に手の甲に手のひらに。形のいい唇が触れる。


「私は幸せ者ですね。天には我らが主が、地上にはあなたが。あなたは私の地上の女神です」


 腕に肩に頬に頭に、あらゆるところに唇で触れられる。

 ニナは圧倒されて反応することを忘れていた。ただぽかんとミシェルをながめて、されるがままでいた。


(何か……何かがおかしい、ような……)


 ミシェルと和解して事態は確実に好転しているはずだ。

 しかし自分がずぶずぶと、何か取り返しのつかない底なし沼に沈んでいっているような不安がぬぐえなかった。



4.


 しばらくするとニナは外出も許されるようになった。もちろんミシェルの監視付だが。


 行動の制限は囚われの身であることを感じさせて憂鬱になったが、ニナはあきらめがついているので悲愴になることはなかった。

 むしろミシェルの方が鬱々と沈みこんだ。


 ミシェルはニナを外に連れ出すたび、ためらいながら鍵のついた部屋に戻し、罪悪感に苛まれていた。

 ニナが進んで監視下に置かれようとすることに安堵を見せるものの、一方で、安心する自分を嫌悪していた。


「慈愛深い女神のようなあなたに、こんなことをしている自分が許せなくて。

 前のような生活に戻りたいのに、あなたを信じ切れない自分が情けなくて。

 浅ましくて醜くて。吐き気がします」


 ミシェルは青い顔で口元をおさえた。目の前にある朝食はほとんど減っていない。


 頬が一月前より痩せてしまっているのを、ニナは痛々しく思った。

 いまだに任務と個人的感情に折り合いを付けられないミシェルが気の毒だった。

 このままでは倒れてしまいそうな様子だ。死んでしまわないかハラハラする。


「考えたくないけど、ミシェルにもしものことがあったら、私、ほかの――」

「絶対ニナより先には死なないです。死んでも死なないです」


 論理の破綻したことをいいながら、ミシェルは食事に食らいついた。

 ミシェル以外が看守になるのは不安なので、ニナは安心した。


「ミシェル、このところよく町に出掛けているみたいだけど、使徒のお仕事は?」

「サボっているわけではありませんよ。今はたまたまこの町が任務地なんです。

 町を“真実の目”のメンバーがうろついているという話があって」


 “真実の目”というのは異世界転生者をリーダーとする組織だ。

 “真実を視る力によって人々を正しい方向へ導く”という信条を掲げ、最初の頃は隠れた悪事を暴いたり、未解決の事件を解決したりしていたが、だんだんその力を脅迫に使うようになり、今では存在を迷惑がられている。


「リーダーが死んで組織が崩壊したという話を聞いたので、元メンバーが行く当てを探してさ迷っている最中なだけかもしれませんけど。警戒しておくに越したことはありませんから」


 さんざん名残惜しそうにしながら、何度もニナを振り返りながら、ミシェルは出勤していった。


 そうしてまた塔を登る靴音が聞こえてきたのは夕方だった。

 ニナは夫を出迎えるために立ち上がったが、肩透かしを食らった。

 やってきたのはミシェルに似てはいるが違う人物だった。


「アナイスお姉さま」

「お久しぶり、ニナ……一月ぶり……? なら、久しぶりともいえないのかしら……難しいわ、あいさつって……」


 双子だけあって容貌はミシェルと似通っているが、雰囲気はまるでちがう。

 凛々しく前を見据える兄に対し、妹の方は夢を見ているようにぼんやりしている。口調もおっとりだ。


 ニナは狼狽した。ここにやって来られるのはミシェルと、ミシェルに許されたメイドだけだ。

 ミシェルの許可を取って特別に来ているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。

 アナイスの背後に、鍵束をもって後ろめたそうにしているメイドがいる。


「アナイスお姉さま、ここにいらしてはいけません。先日のお手紙に書きましたけど、私は今、病気なんです。人に感染する。だから」

「ウソはだめよニナ……私は全部わかっているわ……」


 アナイスはためらうことなく距離を詰め、白く繊細な指先で義妹のあごを取った。


「本当は何ともないのでしょう……? 兄に命令されてウソをついているのでしょう……?」

「いいえ、本当に。病気で」


 見破られていることに驚くが、真実は口にできない。懸命に否定する。

 しかしメイドが白状してしまった。


「アナイス様のおっしゃる通りです。病気はウソです。

 ある日突然、若様は奥様をここに閉じこめてしまって。人とは会わせないで、私どもとも話させないで、人とのやりとりも監視して。

 旦那様と同じです。正気の沙汰とは思えません!」


 メイドは両手に顔を伏せて泣き出した。

 アナイスはニナの手を取り、美しい瞳に憂いを浮かべる。


「ニナ、怖い思いをさせてごめんなさい……やっぱりうちの血筋は変なのね……」


「変?」


「うちの家系はね……何かに熱狂的になりやすい気質というか血筋みたいで……。

 最初にこの塔の部屋へ入れられたご先祖様はクライス教の熱烈な信者で……熱心すぎて過激すぎて教会からも疎まれるようになって……ここに幽閉されたような人なのよ……。

 困ったことに恋人や配偶者に異常に執着することもあって……父も母をここに幽閉していたわ……」


 ニナは絶句した。道理でミシェルがこの部屋を案内したがらなかったわけだと納得する。


「母は病死ということにされているけれど……本当は父のふるまいに耐えかねて、そこから」


 アナイスはただ、塔の窓を指差した。


「兄は何度も父のようにはなりたくない、絶対にならないと言っていたから安心していたのだけれど……ダメだったのね……」


 深々とため息を吐き、アナイスはニナの手を引いた。


「遅くなってごめんなさい……今すぐここを出ましょうね……」


「誤解です、そういうことでは全くないんです。

 変な話ですけど、ここに閉じこもっているのは半分私の意志というか。

 自分で納得してのことなのでご心配なさらないでください」


 ニナは忠実に使徒の責務を果たしている夫をかばったが、よけいに旗色を悪くした。重症患者を見る目をされる。


「ニナ、辛かったのね……そう思わないと耐えられなかったのね……大丈夫よ、私があなたを守るから……」

「ミシェルが私をここに隔離しているのは、私が、私が――」


 足早に階段を上がってくる靴音がした。

 アナイスよりも重い足音。ミシェルだ。ニナは強引にクローゼットに押し込まれる。


「じっとしていて……私が兄を説得するから……けはいを悟られないでね……」


 クローゼットは一部が格子状になっており、中から部屋の様子がうかがえた。

 ミシェルはきょろきょろと部屋の中を見回している。


「……ニナは?」

「見損なったわ、兄様……お父様のようにはならないとおっしゃっていたのに……」


 ミシェルは妹と議論をしなかった。踵を返す。


「ニナ! ニナ!」

「やめてお兄様……ニナをお母様のような目に遭わせるつもりなの……?」


 アナイスは兄の腕をつかんだ。相手は手出しを不快そうにする。


「ニナは母のようにはなりませんよ。彼女は私のしたことを許してくれました。彼女は違う」

「バカなこといわないで……そんなのは兄様が怖いからよ……身勝手に都合のいい解釈をしないで……」


「私も最初は疑いました。

 でも、本当なんです。ニナは私を恐れずすべてを受け入れてくれました。

 ニナは特別です。特別な人間なんです。私たちには計り知れない人、女神です」


 うっとりと、熱っぽく、恍惚と、ミシェルはいう。


 ニナの言葉で表現したなら完全に“イっちゃってる”顔だった。


 アナイスの表情が死んだ。兄を見る目が虚無だった。


「――“裁きの火よ、神の名のもとに正義を果たし給え”」


 別人の口ぶりで、アナイスは高らかに呪文を唱えた。

 神術によって起きた紅蓮の炎がミシェルが包む。


 ニナは悲鳴を上げそうになったが心配無用だった。

 やがて炎が収まると、ミシェルが体にも服にもダメージを負うことなく立っていた。

 妹の所業に、額に青筋を浮かべる。


「なんてことするんですか。私でなかったら死んでましたよ」

「いけない、私ったら無意識に……目の前に大きいウジ虫がいたから……」


「そこの窓から放り投げて反省するなら投げてやるんですけどね。それくらいで悔い改めるようなかわいげはないですもんね、アナタ」

「兄様の顔をしたウジ虫が何かしゃべってる……怖い……」


 一触即発の空気で兄妹はにらみ合う。


 一方、ニナはクローゼットの中で頭を抱えていた。

 ようやく自分の盛大な勘違いに気付いた。

 ミシェルが自分を監視していたのは異世界転生者だからではなく、アナイスの言うように行き過ぎた好意からだったのだ。


(じゃあ、あの部屋は――)


 ミシェルの部屋に隠されていた、自分に関するものばかりが集められていた異様な小部屋。

 刑事が事件に関するあらゆるものを収集し記録し手がかりにし証拠にするようなものだと思っていたが、あれは。


 前世にあったぴったりの単語を思い出す。


(ストーカー?)


 全身が総毛立った。

 アナイスは兄の顔面に紙を押しつける。


「兄様……ニナを愛しているというなら離婚届を書いて……」


「アナイス、ニナはどこです?

 あなたには理解できないようですが、私たちは心から愛し合っているんです。

 あなたの手出しはただただ余計なことです。これ以上邪魔をするなら、兄妹でも容赦しませんから」


「自信がないの……?」

「はい?」


「私はお兄様が離婚届を書いて……ニナがサインしなかったら……二人の仲を信じるわ……。

 だから書いて……? お兄様はニナの愛を信じているのでしょう……?」


 挑発するような物言いだった。

 ミシェルは視線で射殺す勢いで自分の片割れをにらみつけたものの、紙を取った。

 必要事項を書き殴り、妹の顔面に押しつけて返す。


「いい機会です。ニナがサインしなかったら、私もニナを信用してこんなバカげた生活はやめます」


 アナイスはクローゼットを開けた。が、妻の姿を求める兄の行動を邪魔した。

 義妹を背にかばい、兄のことは戸口へとおいやる。


「お兄様は出て行って……大きなウジ虫がそばにいたのでは、離婚したくてもできないかもしれないでしょう……?」

「いいかげん人を虫呼ばわりするのはやめてもらえます?」


「そうよね……ウジ虫に失礼よね……考え直すわ……」

「直すのはその考えです」


 しぶしぶ出て行くミシェルと、ニナは視線が合った。

 なんと声を掛ければいいのかわからなかった。


 また後で、とも、さようなら、とも。



5.


「うちの不肖の兄がご迷惑をおかけしたわ……」


 謝罪しながら、アナイスはニナに離婚届を渡してきた。

 紙の文字は乱れていた。嫌々と書いたミシェルの心の内がありありと表れている。


「メイドから聞いたけれど……兄様はニナの私物を集めたりもしてたそうね……。

 処分しておくわ……気持ち悪かったでしょう……?」

「あれはびっくりしました」


 ニナは心臓を押さえた。でも、とつづける。


「そこまで嫌でもなかったですよ」

「え……?」


「怖い! って思いましたけれど。

 こんなに私に関心を持ってくれる人がいるなんてって、嬉しかったです。

 私、注目を浴びることが少なかったから」


 ニナの実家は子だくさんの貧乏伯爵家だ。両親は子供たちに愛情を持っていたが、子供の数が多いので、子供たちはそれぞれ十二分に構ってもらえるという訳にはいかなかった。

 前世の記憶を持って生まれ、たいていのことが一人でこなせるニナは特にだ。あの子はしっかりしているから、と悪気なく放置されてしまった。


 前世でも似たようなものだった。共に働きに出ている両親は忙しかった。

 親子仲は悪くなかったが、母親が家族に相談することもなく海外赴任を決めてきた時はショックだった。「中学生だから、もうママがいなくても大丈夫よね?」と嬉々とした表情でいわれれば返す言葉がなく、笑顔を作って見送った。

 ひょっとしたら自分は親にとって自己実現の邪魔ものと思われていたのではないかと心のどこかで考えた。


「ニナ……恐がらせたくはないのだけれど、今後のためにいうわね……。

 うちのいとこに好きな子が使ったフィンガーボウルの水を飲んだ変態がいるの……。

 兄はまだそこまではしていないと思うんだけど……していないと信じているけれど……いつかする可能性はあると思っていて……それって大丈夫……?」


「……ちょっと無理かもしれないです」


 ニナの離婚届を持つ手に力がこもった。


(……どうしよう)


 実のところ、ミシェルがストーカーだったと知っても、ニナは離婚したいほど嫌いにはなっていない。

 好きでも相手を監禁するのは許されないことで、勘違いに気づいた今はミシェルに怒っているが、すでにニナの一番辛い時期は過ぎてしまった。

 将来に不安要素があるので一生かどうかは自信がないが、とりあえずまだ好きだ。


 だが、ミシェルの方はどうだろう?


 今の時点で大好きでいてくれているのは間違いない。


(私が異世界転生者と知っても好きでいてくれる……?)


 ずっと勘違いしていたが、ミシェルは自分を転生者とは知らなかったのだ。

 知った上で、なお愛してくれているのだと思っていたが、違ったのだ。


「考える時間をもらってもいいですか?」

「もちろんよ……ゆっくり考えて……。部屋の鍵は開けておくから自由にしてね……」


 一人になると、ニナはベッドに身を投げ出した。

 悩む。結論はなかなか出ない。

 水でも飲もうと水差しを手に取ったところで、違和感を覚えた。


 部屋の中に風が吹きこんでいる。窓は閉めたはずなのに。

 夜風がうなじに吹き付けてぞくりとする。


「お迎えに上がりました、転生者様」


 ニナは水差しを取り落としそうになった。

 いつの間にか部屋に人が入り込んでいた。黒い装束に身を包んだ人物が三人。胸には目の形をしたペンダントが揺れている。“真実の目”のマークだ。


「我らが主は後継者としてあなたをご指名なされた。

 ここはあなた様の居るべき場所ではない。我らと共に参りましょう。どうか我らをお導き下さい」


「ひ――人違いですっ!」


 立ち上がった男に、ニナは水差しを投げつけた。


 窓からさらに二人入ってこようとしているのを見て、体がすくむ。

 男たちは目もくらむような高さの塔の外壁を登ってここまで来たらしい。恐ろしい身体能力だ。


 部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。先に明かりが見えた。


「だれか! だれか、来て! 変な人が!」


 侵入者の一人がニナに追いついた。ニナに手を伸ばすが、つかむことはかなわなかった。


「“主の御名において命ずる、汝が信仰をその身で示せ”」


 アナイスの詠唱で、黒装束の男が地面に平伏する。

 塔の地階であるホールにはミシェルもいた。


「何があったの……?」

「部屋にいたら変な人が、“真実の目”の人が入ってきて」

「彼らが? ニナを狙ってきたんですか? どうして」


 問われて、ニナは舌を凍りつかせた。

 この二人からも逃げるべきかどうか迷う。


「サトウ・リナ」


 はっきりと耳に届いた人名に、ニナは冷や水を浴びせられた気分になった。

 ぎこちなく後ろに首を回せば、平伏していた男は起き上がりつつあった。

 到着した仲間がアナイスの術を解いている。いち早く自由になっている舌を動かした。


「異世界、日本国の生まれ、女性。両親と兄の四人家族、犬を飼っていた。交通事故で命を落とし、この世界にニナ=マルタンとして生を受ける。

 我らが主は偉大な“眼”をお持ちだった。遠く離れたできごとも、過去も未来もお見通しになった。あなたの前世だって。

 人違いであるはずがない。あなたが我らの新しい主だ」


 わざわざ確認しなくても、ミシェルとアナイスの自分に注目していることが分かった。


「転生者……?」


 ミシェルのつぶやきに、ニナは一歩離れた。激しく首を横にふり、必死で命乞いする。


「ちがう、私は転生したけど普通の人間! 前世と同じで特別なことは何もできない、ただの人間。

 普通に生きたいだけ。中途半端に終わった人生をここで続けたいだけ。お願い、許して。見逃して!」


「――それは、できませんね」


 腕をつかまれた。強く。

 ニナの指先は血の気が引いて白くなる。


 こわごわ、ニナは涙目でミシェルを見上げた。

 憎悪があると思っていた。嫌悪があると思っていた。

 どちらでもなかった。ミシェルはニナが今までだれの顔でも見たことのない表情をしていた。


 狂喜、といえばいいのか。

 こらえきれない喜びと悦びにあふれた顔。

 正しく整った顔は奇妙に歪んだ笑いを浮かべていた。


「そうだったんですか。ニナは異世界からの転生者だったんですか。

 それは到底、見逃せませんね」

「う……あ……」


 うまく声が出ない。震える背中を、大きな手がなでてくる。優しく。


「大丈夫ですよ、ニナ。絶対に逃しませんけど、あなたを傷つけたりはしません。

 だってニナは普通に生きたいだけなのでしょう? 大それたことなんてしたくなくて、ただただ普通に暮らしたいだけなのでしょう?」


 ニナは何度も何度もうなずいた。


「私は悪魔じゃない。毎日ちゃんと礼拝して、休息日には教会に行って、神様の教えを守ってる」

「ええ、知っていますよ。熱心に奉仕活動もして、あなたは信者のお手本のような人です。

 主の御心は広い。悪魔だろうと帰依する者を拒んだりはしません。あなたは私たちの仲間です」


 二人の横でアナイスが侵入者五人を足止めしてくれているが、徐々に距離が詰まってきている。

 ニナはミシェルにすがった。


「ミシェル、お願い。助けて。私、何にもなりたくない!」

「――あなたの心のままに」


 まるで神のお告げを受けたように。ミシェルは法悦に浸って応じる。

 触れるのも畏れ多いというような慎重さで自分より小さな手の先に口付けた。

 腰に下げた剣を抜く。使徒に授けられる、神の祝福を受けた聖なる剣。


「兄様……面倒だわ……一思いに潰しちゃってもいい……?」

「やめてくださいよ。片付けが大変です」


 ニナは頭からミシェルの上着をかぶせられた。

 後のことはよくわからない。

 ミシェルの言いつけ通りその場でじっとおとなしくしていた。

 目を閉じ、耳をふさぎ、口を閉ざして、ただ災難が通り過ぎるのを待った。


「もういいですよ」

「手が冷えているわ、ニナ……寒い……?」


 すべてが終わると、ニナは二人の使徒に連れられて血のにおいのするホールを後にした。


6.


 ぷかぷかと、湯の上でオーガンジーの布袋が揺れている。

 中には良い香りのする花びらや香草が詰められており、浴室は心地よい香りに満たされていた。

 先日アナイスからもらったお土産のサシェだ。ニナはバスタブの中から礼をいう。


「ありがとうございます、アナイスお姉さま。これ、すごくいい香り」

「喜んでもらえてよかったわ……。 体、温まってきた……?」

「はい。おかげさまで。落ち着いてきました」


 張り詰めていた緊張の糸はほどけていた。心もゆるんで、つい口が軽くなる。一生口に出すまいと思っていた前世の話をもらす。


「お風呂が好きなの、前世の影響なんです。毎日入っていたし、バスグッズを集めるのが好きだったから。

 こっちの世界の習慣に慣れているんですけど、お風呂好きは抜けきらなくて」


「そんなに好きだったなら早く教えてくださいよ。私、毎日でも準備しましたよ。私なら厨房で湯を沸かしてここまで運ぶなんてこともなく、神術であっという間ですから」


「ミシェルもお湯の用意、ありがとう。いいお湯加減で気持ちいい」


 浴室の戸口に立っている双子の使徒は、慈しむようにニナを見守ってくれている。

 ニナはようやく先について尋ねる勇気が出た。


「私、これからどうなるの? 討伐されないの?」

「しませんよ。クライス教において転生者は悪魔ですが、一概に排除したりはしません。

 教会から無害と認定されて普通に一生を終えた転生者もいます」


「そうなの?」

「まあ、一生監視つきなのだけれど……。ニナのように本人にその気になくても騒ぎの元になることがあるから……」


 アナイスはちらりと兄を横目にした。

 ミシェルはバスタブのそばに座って、ニナに穏やかな視線を注ぐ。


「ニナ、安心してくださいね。あなたのことは一生、私が見守りますからね。

 他の使徒に見張らせるなんて冗談じゃありません。ニナは私の妻なんですから。

 ニナだって身も知らない人間に始終そばにいられるなんて嫌でしょう?」


 妻の手を両手でつかみ、ミシェルは誓った。


「また頭のおかしい変な連中が来ても、絶対あなたを渡したりしませんからね。

 命に代えても守ります。あなたのためにすべての悪を平らげ殲滅します。あなたと私の仲をだれにも邪魔させたりしません。

 なんだか仕事がとっても楽しくなってきましたよ。ふふふふふ」


 今朝までの懊悩はどこへやら、ミシェルはとても晴れやかな表情だった。


(私が転生者っていうの、何かよくない口実を与えた気が……)


 一抹の不安を覚えるが、処遇に異を唱える気はない。

 ミシェルの檻はやさしくて甘い。――くどいくらいに。


「私もこれからここに住むわ……私も監視しないといけないし……」


 アナイスが口を挟む。


「ニナを見守るのは私一人で十分ですよ。ニナのストレスになるのでやめてください」

「私が監視するのは兄様よ……監視にかこつけて変態行為が増長するといけないから……」

「心配しなくても、ちゃんと元の生活に戻ります」


 ミシェルは立ち上がった。


「ニナの私物、全部元の部屋にもどしておくので。今夜から元の部屋で過ごしてくださいね」

「戻すの? これから監視しないといけないのに?」

「ニナが私から離れないとよく分かったので」


 監視が必要になった途端に、監視の必要がなくなるというのは変な話だが。

 人並みの生活に戻れると知ってニナは安堵した。


「では、ゆっくりお風呂を楽しんでくださいね」

「ニナ、私も一緒に入っていい……? 体、洗いっこしましょ……?」

「出たら、そのままでいいですから。片付けもしておきます」


 服を脱ぎだす妹の耳を引っ張って、ミシェルは浴室を出て行った。

 ニナは浴槽にもたれ、タイル張りの天井に向かって深く息を吐く。


(転生者って知られてしまったけど……ミシェルに嫌われなくてよかったな……)


 目を閉じておだやかな時間に身をゆだねていたが、湯から出る頃になって、ふと疑問がわいた。


(片付けって。メイドに任せればよくない?)


 わざわざミシェルがやることはない気がした。


「……」


 ニナは自分が浸かったお湯を両手ですくい、凝視した。


 ――好きな子のフィンガーボウルの水を飲んだいとこがいて


 アナイスの話が頭をよぎった。


「あれ? ニナ、お湯、片付けたんですか?」

「ミシェルにそこまでさせるのは悪いから」

「……本当にそのままでよかったんですけど」


 夫が残念そうに見えたのは気のせいと思うことにした。


ヤンデレヒーローを目指したつもりが変態ストーカー野郎になりました。

これはこれでアリ! と思いましたら評価入れてやってください。作者が安心します。

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― 新着の感想 ―
変態行為も異常行動も、お互いの同意があれば、夫婦間のコミュニケーションに早変わりですねっ! 内心はどうだかですけども。
悲しい終わりにならなくてよかったです! 面白くて好きなお話でした! 書いてくださりありがとうございました!!
>「……本当にそのままでよかったんですけど」  夫が残念そうに見えたのは気のせいと思うことにした。 ほ、本当に飲もうとしてたのか、ミシェル……?(・・;) 変態禁止ですね(汗) で、ちょっと思った…
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