心を読む
フィクションでは人の心を読む力がしばしば扱われる。
そして私見だが、そういう能力を持つ人間は、多くの場合、影のある人物に描かれる。
なぜだろうね?
本物のぼくが、この力について述べよう。
本物ってどういう意味かって? そのままの意味さ。
ぼくは人の心を読む力を有している。
そしてその力は、子どもの頃から完全だった。
そのことを証明しようなんか思っちゃいないけどね。
この力を、今のぼくは限定的にしか使っていないから。
漫画、あるいは小説、もしくは映画、そういったものに出てくる、人の心を読む力。そしてそれを持った人間。
彼らはぼくから言わせれば、不完全な才能を持ったが故の悲劇さ。彼らは「テレパス」と呼ばれることが多いようだから、以下でもそう呼ぶ。
ちなみにぼくは、自分自身はこう呼ばれるべきだと思っている。
「リスナー」と。
その方が楽しそうじゃないかい?
だって実際楽しいのさ。人の心を読むというのはね。
かといって誤解しないで欲しい。決してぼくは悪趣味な人間じゃない。
心は不可侵だ。確かにその通りだ。
でも事実、知られたい、知って欲しい秘密だってある。
まだ公にはしてないけれど、その機会はめぐってはいないけれど、今にも誰かに言いたくてたまらない、そんな思いをしたことはないかい?
ぼくの「リスニング」の才能は、そういったものだけに働くのさ。
誰かがわくわくしながらこう考えている。
「来週、新しい車が入るんだよな。はじめて職場にのってきたとき、みんなはどういう顔をするだろうか?」
「誕生日のパーティ、うまくいくかしら。彼には黙っているんだけど」
むろん、こういう明確な形ではぼくには聞こえない。
もっと曖昧模糊とした、あえて言葉に翻訳するとこういう形になるってだけで。
そうしてぼくは聞くだけで、それを知っていても言葉にはしない。
まったく、ただ個人的に楽しむだけなんだ。
一方、「テレパス」たちにはプライベートも何もあったものじゃない。
あたり構わず人の心を盗み取り、そして一人で勝手に心を痛める。
「表面上では機嫌よく装っているけど、あの人は今話している人が嫌いなんだわ」
「人間はみんなそういう風に嘘をつく」
「大嫌いだ」
そんな風にね。
でも、ぼくから言わせれば、そんなの当然さ!
綺麗な人間なんてどこにいる?
「テレパス」たちに言いたい、自分の心に手を置いてごらんよ。
もしも君たちの心が綺麗なら、世間の人間の汚い心も許すことが出来るはずさ、ってね。
しかし、フィクションの中の彼ら、「テレパス」たちも不幸なんだ。
ぼくは不思議でならない。どうして彼らは受信する心を制御できないのか。
おそらくそれには、聞こえたくない音も聞こえてしまう、ぼくらの耳の構造が大いに反映されているんじゃないだろうか。
あくまでぼくの想像だけど。
だけどそもそも、ぼくらの力は空気の振動によるものではない。
まあぼくも深く研究したわけではないけれど、おそらく自分の脳が相手の脳から発せられる何かを受信し、変換し、理解するというプロセスをたどっている。
だから、この能力はあくまで自身の脳の中の問題だ。
この能力をどういう風に調整するか、ぼくは生まれながらに感覚的に知っていたし、あるときから「徹底的に楽しいものだけを受信する」という方針を貫いている。
正直いうと、ぼくも幼い頃の一時期は「テレパス」だったんだ。
人の心が汚いことなんかそのときだってわかっていた。調整する方法を知らなかったわけじゃない。
ただ、幼いころはまだ、それをしようとしなかったんだ。
なぜって、そうすると人の本心が読めなくなってしまうから。
皮肉なことに、心を傷つける人の汚さから隔離されることも、ぼくにとっては恐ろしいことだったのさ。
だけど、まあ、がっかりするほど陳腐なことでぼくは「テレパス」から逃れることが出来たのさ。
実はその頃、妹が生まれてね。彼女の思考は、まったくもって無垢だった。
完全な白だった。だけど、重要なのはそちらじゃない。
その頃のぼくにとってはある種憎悪の対象だった両親がね、生まれたばかりの妹を見るとき、一瞬、完全な喜びにつつまれたのさ。
次の瞬間、将来の出費だの、気味悪い兄 (……つまりぼくのことだ)の悪影響だのを考え出すのだけれども。
でもそのわずかな瞬間の彼らは疑う余地なく幸福で、その心を受信していたぼくも、やはり幸せになっていたのさ。
そう、だから、人は汚いものさ。だけど、いいところもある。
そのどちらの側面を見る?
どうやったって後ろ向きな考えしか出来なかったぼくでさえ、あの一瞬、人の心の美しさに圧倒されたんだ。
だからぼくは「リスナー」になったのさ。