Ⅱ あんたなんか、もう二度と会いたくないわ。
査証の交付が終わり、熾子は日本大使館から出た。
電話をかけたものの、何度呼び出し音が鳴っても念仁は出なかった。
念仁は――確か今日は授業はないと言っていたか。
仕方がないので、熾子は念仁の住むアパートまで向かった。口から漏れる吐息が、白く長い尾を断続的に引く。気温は低いのに、身体中が汗ばんでいる。それほどまでに――熾子は殺気立っていた。
アパートの階段を昇り、勢いに任せてその部屋のドアを開ける。鍵はかかっていなかった。土足のまま駈け込んで、声をかけた。
「おい念仁!」
1DKの狭い部屋だ。かすかに煙草の臭いがする。念仁はベッドでうつ伏せになって寝ていた。ゴーッ、ガーッと、酷い鼾をかいている。
熾子は周囲を見回す。
壁には――コスプレに使われた錫杖が立てかけてあった。
熾子は錫杖を手に取り、念仁の尻を思い切り叩いた。
「갸악!」
念仁は海老ぞりとなり、二、三回転しながらベッドから落ちた。床の上で尻を抱え、あががががと声を上げる。しばらく悶絶したあと、恐る恐る頭を上げ、そしてぎょっとしたような顔となった。
熾子は皮肉に笑んでみせる。
「コスプレが得意なようね?」
「チ、熾子――どうしてここに!?」
「ふざけんな、この野郎! お前のやったことは全部お見通しだ!」
熾子は錫杖の尻でどんと床を打ち鳴らした。それから、念仁のコスプレ画像に行き着いた経緯を一気にまくし立てた。罵声を吐いているうちに、なおのこと頭に血が昇ってゆくのを感じた。
「これっぽっちも似ていない世界最悪のコスプレだ! よりによってイルペにこんなものを上げて恥ずかしくないのか!? おまけに――」
スマートフォンを取り出し、画面を念仁に突きつける。
「何だこの『つゆりちゃんのおしっこ飲みたい』ってのは!?」
「히익!」
イルペの会員は全てハンドルネームを持っている。特定のユーザーが、今までどのような書き込みをしてきたのか、どのようなスレッドを建てたのかも全て検索できる。
ゆえに、熾子は念仁のハンドルネームで検索をかけたのだ。
「お前の書き込み読んで、正直、吐き気がしたわ! 『御坂美琴が履いたルーズソックス百足くらいを鍋で煮詰めて出汁を取って飲みたい』だとか、『つゆりちゃんが歩いた地面の土をご飯にかけて思う存分味わいたい』だとか、そんな変態的な書き込みばっかじゃねえか! 女を莫迦にしてるだろ! 普通、土の味しかしねーよ!」
「こ、これは誤解だ! 誤解なんだ!」
念仁は白々しい釈明を始めた。
「これは決して変態的な書き込みなんかじゃない! もっとプラトニックなものなんだ! つゆりちゃんがこの世界に舞い降りた女神様であることは疑いない。けれども、夜空に輝く星のように手が届かない! それなら、せめて銀河から滴り落ちてきた全ての雨水を飲みたいと考えるのは当然じゃないか!――」
言い終えないうちに、熾子は念仁の頭を錫杖で殴りつけた。
「黙れ! 解る言葉で話せ!」
念仁は頭を抱え、うづくまった。
止めを刺してやろうと思い、錫杖を振り上げる。しかし思い留まった。こんなもので頭を殴り続ければ頭蓋骨が割れかねない。代わりに、手元にあるリモコンやら漫画本やら灰皿やらを手に取り、片っ端から投げつけた。
「お前の女神様は私だろが! つゆりちゃんと私、どっちが大切なんだ!?」
最終的にテレビを投げようとし、両腕で持ち上げる。しかし、その直前に念仁と目が合った。目を円くし、投げるのか、と無言のまま訴えている。熾子はその格好でしばらく動けなかった。お互いに目を円くして、はぁはぁと息を切らしていた。
テレビを下ろし、吐き捨てるように言う。
「あんたなんか、もう二度と会いたくないわ。」
念仁の顔に狼狽の色が表れた。
「わ、別れるのか?」
「まさか、恋人を続けられるなんて思ったの? イルペに入り浸っていて、そこに女性を莫迦にした変態的な書き込みをしていながら。本当に虫唾が奔る。」
「あれだけ俺を振り回してきたのにか――?」
ここ三ヶ月ほどの記憶が頭をかすめる。けれども、とにかく拒絶しなければならないと思った。
「さよなら。学校で会っても、もうこれ以上、話しかけてきたりしないでよね。」
心残りがなかったと言えば嘘になる。その気持ちを振り払うように踵を返し、玄関へと向かった――それでも、できるだけ速足で。
ドアノブに手を掛けたとき、恨めしそうな声が聞こえてきた。
「ああ――分かったよ。俺も、もうお前なんか彼女だと思わねえよ。」
熾子は足を止めた。しかしそれも一瞬のことであった。ドアを開け、外へと踏み出す。冷たい外気が頬に触れた。ドアノブを振り払い、一歩二歩と部屋から離れる。
ドアが閉まる直前、念仁の叫び声が聞こえてきた。
「お前は、キムチ女だ!」
ドアの閉まる音がした。
熾子は背後を振り返る。
視線の先には、異様なほどの静けさが落ちていた。
腹立ちまぎれにドアへと近づき、どしんと蹴った。
どこからか、さっきからうるせぇぞという声が聞こえてきた。
無性に遣り切れない苛々した心を抱えつつも、帰路を急いだ。
*
その日から――だった。
その日から――どういうわけか熾子の髪の毛と瞳の色が真紅に変わり、どういうわけか持っていた服が全て緑色に変わり、どういうわけか持っていた髪留めが全て唐辛子の形に変わり、どういうわけか身体からは仄かにキムチの匂いがするようになった。しかも、どういうわけか周囲はそれを気にも留めなかった。
熾子は――名実ともにキムチ女となった。