Ⅰ 君、日本に行くんだって?
冷たさが降ってきそうな空だった。
白い空は、凍てついた湖を連想させた。
金熾子は、ソウルの街竝みを日本大使館へ向けて歩いていた。
季節はまだ一月、気温は最高でも一・五度にすぎない。朝の十時前にもなるのに、街は冷たさの底に沈んでいた。光化門前を流れる車の群れが、震えながら白い息を吐いて香ばしい匂いを漂わせた。
熾子はソウルに住む大学一年生だ。
三か月後には日本留学を控えている。
大使館ビルの附近まで来たとき、デモ隊の姿が目に入った。ビルの向かい側の歩道に十数名程度の人々が集まり、日本政府に謝罪を求める横断幕を掲げている。
主催者と思しき女性が声を上げる。
「日本政府は拷問と虐殺の事実を認めて謝罪せよ!」
謝罪せよ――デモ隊が一斉に声を上げた。
「日本政府は過去の誤りを認めて謝罪せよ!」
謝罪せよ――再び声が上がった。
熾子は目を背けた。
居心地が悪くなり、逃れるように日本大使館の中へと駆け込んだ。
昇降機に乗り、領事部のある八階まで昇ってゆく。
上昇してゆく昇降機の中で、ふと、何か月か前に同じ学部の男が発した言葉を思い出した。授業の合間の休憩時間のことであった。
――君、日本に行くんだって?
そうよ――授業で使われたプリントを仕舞いながら答える。
――本当の日本を見てみることが、昔からの夢だったの。
彼は怪訝な顔をする。
――本当の日本? 何だそれは?
――テレビとかネットとかじゃ、日本を見習えって言ってるじゃない? けど、そのくせして日本のことを悪く言っているでしょ? 悪口を言っている国のことを見習えって、何だか不思議じゃない?
――ふうん。
つまらなさそうに言い、彼は目を逸らす。
――貴方には、日本に留学するだけの学力なんてないものね。
軽い嫌味のつもりで熾子はそう言った。
――三月にもなったら私たちも離れ離れになっちゃうわね。
――ないなんてことはないだろ。もっと早く出会っていれば、俺も君の編入に合わせて頑張ってたさ。ただ、それが遅かっただけだ。
熾子は軽く鼻息を鳴らし、へえ――と言う。
――本当にできるのかな?
――ああ、できるさ。
刀の鋒のような目が、黒縁眼鏡の向こうで煌めいた。
――たとえ一年遅かったとしても、俺は必ず君と同じ学校に行ってみせる。たとえ離れていたとしても、俺が愛し続けるのはただ君だけだ。そういう男なんだ――俺は。
昇降機が止まり、熾子は現実へと引き戻された。
大使館に来た目的は査証の発行を申請するためであった。待合室には既に十数人程度の人々が屯している。受付で目的を言うと、しばらく待つように言われた。
待合室の長椅子に腰を掛け、スマートフォンを取り出す。そして、短文投稿サイト「呟器」にアクセスした。新規投稿欄に、日本語で文字を打ち込んでゆく。
「日本大使館です。今からビザ取得してきます。(´・ω・`)」
返信はすぐにきた。
「いよいよですね!
今までいろいろとありましたけど、あと一息ですね。(^-^)」
返信してきたのは、「つかさ」という名前のフォロワーであった。
熾子はすぐさま返信を打ち込んだ。
「ええ、本当に。。。
日本語試験があったり、学校選んだり、留学試験があったり、、、
本当に色々と大変でした((+_+))
けれども、このままいけば三月には会えますね(^.^)
つかささんも、また風邪引いちゃわないよう気をつけて下さいね。」
「はい、気をつけます!
最近は寒いので、体調には本当に気をつけなきゃ(-_-)
三月に無事に会えるのを楽しみにしております(^.^)」
「つかさ」は東京都内に住む女子高生だ。ちょうど、熾子が留学する大学の近くに住んでいる。在留資格証明書を交付してもらうため一時来日したときは、二人で顔を合せる計画を立てていた。生憎、当日は「つかさ」が風邪を引いてしまい、計画は実現しなかったが。
司はいま学校にいるころだ。時間から察するに、十分間休憩の最中なのであろう。それならば、あまり自分に付き合わせるのも悪い。
「はい! お気遣いありがとうございます!
ソウルは本当に寒いので、私も気をつけなきゃ!」
返信を終えたあとは、画面を下へとスクロールさせ、他のフォロワーたちのつぶやきに目を通した。しばらくして、「つかさ」が一時間ほど前に投稿したつぶやきを見つけた。
「これ、めっちゃウケるんだけどwww」
つぶやきと共に、外部サイトへのリンクが貼られていた。怪々反応通信というサイトへのリンクであった。タイトルは『韓国人「『まほつゆ』の暗黒物質のコスプレをしてみた」』である。
怪々反応通信ならば熾子も知っている。韓国のネット掲示板を翻訳しているサイトだ。韓国人の意外な姿を見られるということで、数ある「海外の反応サイト」のなかでも人気があるという。
ただし、怪々反応通信が翻訳するのは――。
韓国でも嫌われ者の掲示板なのだ。
気にかかって、熾子は次のように返信する。
「これ、イルペからの翻訳ですか?」
イルペというのが、その嫌われ者のサイトの名前である。正式には、「日刊ペシミズム」という。
再び返信があった。
「ええ、イルペからみたいですね。」
続いて、いけませんでしたか、と返信された。
「いや、いけないってことはないんですよ。ただ、気をつけてくださいね。イルペは韓国でも最悪の極右サイトなんです。ユーザーたちは、人種差別や女性差別など、とにかく特定勢力や弱者に対する中傷を好んで行っている最低の奴らなんです。もしユーザーであることが周囲に発覚したら、社会的地位は失われ、恋人からは絶縁されます。」
「そうなんですか! なんか怖いですね((+_+))」
「まあ、そのサイトが翻訳するのは比較的無害な書き込みなので、そこまで注意はいらないかも。それに、つかささんが深い事情を知らないのも当然だし、、、ただ、ちょっと心配になったんです。」
「そうだったんですね(^-^; 気をつけます。
けど、この記事はめっちゃお勧めですよ。かなり笑えますw」
確かに、記事の内容は熾子も気にかかった。
『まほつゆ』といえば、テレビアニメ『魔法アイドル@つゆりライブ』の略称だ。熾子も恋人に勧められて観たことがある。題名から受ける印象に反し、完成度の高いダークファンタジーであった。
「そうですか。じゃあ、ちょっと見てみますね(^-^)」
「つかさ」に悪影響がないかという確認も兼ね、リンクを踏む。
ページの先頭には、奇妙な男の画像が貼られていた。
「후앗!」思わず噴き出した。「何じゃこりゃ!?」
『まほつゆ』に登場する敵役「暗黒物質」のコスプレであった。
その男は、ブリーフパンツ一丁の姿で立っていた。全身を白く塗っており、胴には百足の足のような模様が描かれている。顔は金剛力士像のような憤怒の表情であった。錫杖を持ち、荒れ狂う戦士のようなポーズを取っている。
異様なほど――そっくりであった。
まるでアニメから「暗黒物質」が起き上がってきたかのようだ。
しかし、二枚、三枚と画像を読み進めるうちに微笑みは消えた。
男の顔は、目に二つの「◉」マークがついている以外、修正はされていない。アニメでも「暗黒物質」は黒く円い目をしていた。
それでも、この顔、この髪型、背後に写る部屋の風景などには見覚えがあった。ひょっとしたら、これは自分の知っている人物ではないのか。そう考えると後頭部に冷たい熱が感じられた。そもそも、熾子に『まほつゆ』を紹介したのも彼だった。
この人物は、熾子の恋人である朴念仁ではないのか。
最後の画像は合成画像であった。巨人のような「暗黒物質」が口から蒼い焔を発射し、青瓦台――韓国大統領官邸――を焼いていた。背後には、「地獄に堕ちろ文存寅!!」と書かれている。
頭の中で、氷の割れるような音が響いた。