黒の聖女
まるで雲の上にいる龍神様が激怒しているような雷の音がゴロゴロと鳴り響く。雷は容赦なく落ち、所々木はなぎ倒され、赤い炎がちらりちらりと覗いてみえる。
窓がカタカタと音を立てて風の凄まじさを伝える。窓の隙間から室内に入る風は凍えるように冷たく、雪が降っていないことが不思議な位であった。
「ねぇ、クレア様。私の故郷には“可愛さ余って憎さ百倍”という言葉が御座いますの」
にっこりと女神のように微笑むのはこの国の聖女である。
まるで星の輝く夜空のような黒い髪と目を持った愛らしい少女だ。
赤く紅をさした唇を軽く開き、赤い小さな舌をナイフの紅く濡れた刃をちろりと舐めた。
「今はよく、この気持ちが解りますわ。だって私、クレア様のことを愛していたのですもの。貴方のためだけに私は生きていたのですよ?」
ナイフをクレアの胸に刺した。非力な女の細腕でも楽に心臓まで刃が届くのだから相当の切れ味だ。
クレアは聖女に腕を伸ばすが、髪に触れた所で聖女がナイフを抜いたことによって身体の支えをなくし、崩れた。
凍てつくような風はクレアの身体の体温を根刮ぎ奪っていった。
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雄々しい獣の鳴き声のような雷の音に目が覚めた。
窓の外を見れば木々は生き物のように揺れ動き、風の音はまるで女の悲鳴のようで気味が悪かった。
学校に行く気など無くなってはいるのだが、休校ではないので行かないわけにはいかない。
パリッと糊の効いたセーラー服に腕を通す。そして、学校指定の靴下を履く。もうばぁやの朝ご飯が出来ている頃だろう。部屋から出るが足が着くはずの地面が無い。そのまま重力に逆らえず落ちてゆく。
「ようこそお越し下さいました、聖女様。どうかこの世界をお救い下さい」
目を開ければかなり顔の整った男が私に頭を下げていた。まるで夏の青空のような澄んだ青の瞳と精霊のいそうな深い森林を思わせる神秘的な緑の瞳とのオッドアイに目を奪われてしまった。
「救うと言われましても、親の庇護下にいた私には何の力もありません。私を家に帰して下さい」
ただの学生である桜子に出来るはずがない。高校生とはいえど、まだまだ子供である。
オッドアイの男は再び頭を下げた。
「喚ばれたということは必ず貴女には素質があります」
そしてさらに深く深く頭を下げて、先程とは違った低い声で言った。
「喚ぶ方法は伝えられていますが、還す方法は伝えられていません」
ひっ、と短く息を吸う音が桜子の咽からした。
手足の先からどんどん冷えていくのを感じた。どんどんと冷えていくのに、汗が噴き出ている。鼓動が激しすぎて胸が痛いし、音が外に聞こえるのではないかと思うほどの脈打つ音がした。
「聖女様、私、第三王子であるクレアはこの命をかけて貴女を守ると誓います。決して危険なことはさせませんので、どうかこの世界をお救い下さい!」
この時、桜子はクレアに恋をした。執着とも言える恋を。
「私にはこの人がいるから大丈夫───」
桜子は自分の心を守るための恋をした。
桜子はこの世界の聖女としての勉強が始まった。
ここは地球とは全く違う世界。当然生き物だって違う。魔物という非常に危険な生物だっている。そして、この世界の元素には魔素と聖素があり、人間にとって魔素は有害であることを学んだ。もし、高濃度の魔素が肌に触れたら溶けてしまうらしい。
ある程度この世界についての知識を得ると魔法についての勉強をした。今、この世界に充満している魔素を払う為に聖魔法を使えるようにならなければいけない。そして、聖素を作り出せるのは高位の聖霊と聖女しかいないということ。しかし、高位の聖霊は気紛れでこの世界を救ってくれるとは限らない。
聖魔法を使った後は酷い脱力感がある。呪文を唱える口から魔法と一緒に何か大切なものが出て行くような感覚がある。しかし、聖女として、そしてクレアが喜ぶからと身体に鞭を打って何度も何度も何度も魔法を使った。
魔法が使えるようになるとマナー教室が始まった。地球でのマナーとはほぼ同じようで、食事のマナーに問題点は無かったらしい。しかし、言葉遣いに矯正が必要なようだ。普段使っている言葉を直すのはとても難しいがクレアの為、と思って必死に学んだ。
「頑張っていますね」
この言葉が嬉しくて頑張った。
魔法を使いすぎるとツキンッと痛む心臓を押さえ、魔法を使った。誰も教えてはくれなかったが聖魔法は自分の命を糧にしていることを桜子は気付いていた。
きっとこの国の人にとって桜子はとても扱い易い聖女だと思っているのだろう。
クレアの為に身を粉にして働く姿はきっと彼等の目には滑稽に映っていただろう。
きっと誰も知らない。桜子の精神状態はかなり不安定であるということを。ほんの少しの風で崩れてしまうということを。そして、クレアに対する感情は恋では無く、執着ということを。桜子さえ知らない。
「増えすぎた魔獣を減らす為の勇者様を喚ぶことになりました。きっと不安でしょうから桜子、よろしくおねがいします」
魔獣の吐き出す魔素によって魔獣が生まれる。そして、その魔獣がまた魔素を吐いて魔獣を生み出すという悪循環が問題になっていた。
「ええ、分かりましたわ。聖女としての仕事をこなしつつ、勇者のサポートをするのですね」
にっこりと微笑み、ゆったりとした口調で言った。もう女子高生の桜子はそこにはいなかった。そこにいるのはこの国の聖女であった。
「ええ、その通りです。貴女を頼りにしてますよ、桜子」
そう言うと小さな薔薇の花弁のような唇にそっと口付けを落とした。そして、
「愛しています」
と言うと再び口づけした。
勇者、アデリーナと顔を合わせたのは数日後のことだった。
「桜子、今時間ありますか? 勇者と会って貰いたいのです」
クレアが桜子の部屋のドアの向こうから聞いた。
「ええ、今参りますわ」
3日連続で無理して魔法を使った桜子の身体はぼろぼろだった。膝に上手く力が入らず、手足が小さく震えていた。しかし、無理をし慣れた桜子は顔に笑顔を浮かべ、クレアと共に勇者のもとに向かった。
「あ、クレア! あら、貴女が聖女ね!!」
そこにはシルバーブロンドの美しい絹のような髪にまるで透き通る海のような真っ青な瞳を持った美女だった。やはり身長は驚くほど高く、胸は自分が恥ずかしくなるほど大きかった。
「ご機嫌よう。私は聖女の白蝶院桜子ですわ。貴女のお名前を伺ってもよろしくて?」
「私はアデリーナよ。よろしくね、桜子」
結局、挨拶だけして部屋に戻った。
やはり身体の疲労は凄まじく、あっと言う間に意識はなくなった。
夕日が窓に差し込む頃、侍女に起こされて重い瞼をこじ開けた。そこには眉をつり上げた侍女と教師がいた。
「聖女様、もうお時間ですよ。いつまで寝ているつもりですか?」
侍女は布団を引っ剥がすと桜子の腕を掴み、起き上がらせた。
「貴女は聖女としての自覚はあるのですか? まだまだ学ぶことはあるのですわよ」
はぁ。と溜息をつき、少しずれた眼鏡を直した。きっちりと後ろでキツく結わかれたくすんだ金色の髪も、縁の赤い眼鏡も、血で塗りたくられたような赤い唇も、性格のキツさを誇張している。
急いでベッドから降りると、部屋の隅にある椅子に座る。机には羽ペンと、インクとざらざらした少し黄ばんだ紙があり、地球より文明は遅れていることを示している。
この世界の魔獣について詳しい事を学ぶと外はすでに星と月が夜空で輝いていた。
「ねぇ、私の部屋にきてよ。いいでしょう?」
外からアデリーナの声がした。まるで昔食べた異国のチョコレートのように口の中で粘つくような甘ったるい声だ。
「では、お邪魔しますね」
この声は間違いなくクレアのものだった。 胸の奥で何かが崩れる音がした。そして、そこから何か良くないものが滲み出て辺りを染めた。
いけないことだと分かりながらも魔法で自分の気配を消して、2人の後をつけた。
クレアは今朝、桜子に愛の言葉を囁き、口吻を落としたその唇で桜子ではない別の女に愛を囁き、口吻を落としていた。
アデリーナの透き通る白い肌は少し赤らんでいた。クレアの唇は細い首に触れ、豊満な胸に触れ、余計な脂肪の無い背中に触れ、腰に触れた。アデリーナの身体につけた花びらはクレアの独占欲であることを桜子は気づいてしまった。
クレアは自分のことを愛してなどいないと分かってしまった。
桜子は辛い聖女としての仕事をこなして来た。命を削る聖魔法を異世界の人々に強要され、2度と優しい自分の国には帰ることができないのだ。しかも、この世界の人々は桜子に感謝などしていない。ただ、便利な聖魔法を使えるものが用意されたと思っているだけだ。桜子が召喚された理由は、この世界に聖魔法を使える人が居ないからではない。聖魔法は命を削るから、国民を守る為に桜子を召喚した。
こんな状況を理解している桜子は心を守る為に依存しなければならなかった。そうでなければとっくに自分の手で自分を殺していただろう。
もう無理矢理苦しみを誤魔化していたものは無くなってしまった。
桜子はもう皆の望む聖女ではいられなくなってしまった。
涙がこぼれ、地面に落ちた。すると地面は溶けた。
嗤いがこみ上げてきた。桜子は命を削ってでもクレアに尽くしたのにクレアは桜子を愛してなどいなかったことに。唯一の支えはクレアだったのに。
「ご機嫌よう、お二人方」
にっこりと微笑むと王子は一瞬驚いたように目を見開いたが、安心したように笑った。アデリーナは勇者なせいか、危険な察知して服も着ないで一目散に逃げ出した。
「ねぇ、クレア様。私の故郷には“可愛さ余って憎さ百倍”という言葉が御座いますの」
きょとんと分かりやすく戸惑うクレアの首にナイフを当てた。
「桜子、御免なさい。でも、愛しているのは貴女はだけなのです。勇者に魅了の魔法をかけられていたのです。どうかそのナイフをどけてください」
やっと危機感が表れたのかそう言った。
クレアの首に当てたナイフに少し力を加えるとぷつりと赤い珠が出てきた。
なぜかその血が美味しそうに見えて、ナイフについた血をペロリと舐めた。私と同じ鉄の味がしたけれど、舌の先が少し痺れてなぜかとても美味しいものだと認識した。
「今はよく、あの言葉がよく解りますわ。私には貴方だけだったのですわよ? 突然誘拐されて、しかも帰ることも出来ないと言われて。私、絶望したのですわ。その上、教師も侍女もこの世界の人は皆私を都合の良い人形だと思っていますでしょう? 私には人権すらないことにどれだけ苦悩したか貴方には解りますか?」
この世界に来たときの事を思い出して唇にを噛み締める。もう慣れた血の味が口の中に広がった。
そして涙を手の甲で拭って再び口を開いた。
「私はクレア様のことを愛していたのですもの。貴方のためだけに私は生きていたのですのよ。でも、貴方が愛していたのは私ではなかった……」
女の細腕でも楽に持てるほどの軽くて切れ味の良いナイフをクレアの左胸に刺した。クレアの鼓動を止めてしまいたくて、ぐぐぐっと両手に力を込める。そしてナイフをぐるりと回すと、ぐちゃぐちゃと肉と血のかき混ぜるおとがした。
クレアは何も言わず手を桜子に伸ばすが、桜子はその手から逃げるようにナイフを抜いた。するとクレアは崩れ落ちるようにして倒れた。
胸から噴き出た赤黒い血は桜子の顔や胸、腕、ドレスを濡らした。桜子の青白い肌に血は映え、聖女であったはずはのに官能的で美しかった。
パキパキパキパキッ。
音のした胸を見ると花瓶が割れたような跡が肌にあった。そこから黒い靄が宙に出て行く。
「これは……魔素」
にっこりと嗤うとゆっくり目を閉じた。
この世界の終わりが始まっているということは桜子にとって非常に満足いく結果のようだ。
身体が完全に砕けると身体から大量の魔素が出て行き、世界を埋め尽くした。クレアが守ろうとした家族も国民も皆消えてしまった。
これからはこの世界は人間の世界ではなく、魔獣の世界、いや、魔族の世界となった。
今日もこの世界に吹く、酷く冷たい風は狂った女の悲しい嗤い声がする。