地獄に行く前に
雨の匂いだ。
降り始める前の独特の匂いに思わず鼻をしかめた。
臭い。臭すぎる。
雨だけではない。様々なニオイが混じり合っている。
アスファルト、排気ガス、下水、植物、昆虫、獣、香水、汗、食べ物。もっとたくさんのニオイ。ニオイ。ニオイ。
自身の全てが鼻になってしまったような。嗅覚におみもたらされる感覚は苦痛を伴った。鼻がもげそうだ。いっそ外してしまいたい。
苦しい。息が出来ない。鼻を塞がなくては。あまりの臭さに頭がどうにかなってしまいそうだ。
鼻をつまむ。
とても簡単な動作だ。
右手を上げて人差し指と親指で鼻を挟めばいい。
だのに、出来ない。腕が上がらない。指を動かせない。
腕を前方に押し出す形になり、前倣えをしている状態になった。
いや。そんな事よりだ。
まずはニオイをどうにかしなければ。あまりの臭さにまともに考えることもできない。
そうだ。口で息をすればいい。意識して口呼吸に変える。
口から吸って、吐いて。吸って、吐いて。
酸素を多く取り入れようと息が荒くなる。
吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて。
舌に違和感を感じる。
こんなにも締まりのないものだっただろうか?
だらしなく口の外にはみ出してしまう。なんだか、薄く大きくなってしまったような。
雨のニオイが強くなった。
ぽつんと大きな粒が頭の上に落ちる。次は横腹。次は足。本格的に降り始めた。余すところなく全身に降り注ぐ。あっという間にびしょ濡れになった。
ここは外だ。
それは分かった。
それ以外は何も分からない。
目が見えない。真っ暗だ。夜でもこの暗さはありえない。
耳も聞こえない。一切の無音だ。外ならば車が通る音。風の音。虫の鳴く声。何かしら聞こえるはずだ。
見えない、聞こえない理由をあげるなら三つ。
一、誘拐され、地下深くに監禁された。ロープでしばられ身動きができない。上から降ってくるのは雨ではなく、天井から水を流されており、まもなく溺死する。
二、夢を見ている。いわゆる金縛りだ。幽霊の仕業であると言われているが実際は睡眠障害だ。身体が動かない、圧迫感がある、幻覚を見る等、症状は酷似している。
三、単純に目が見えなくなり、耳が聞こえなくなった。
“一”はそれこそありえない。ドラマでもあるまいし現実に起きるわけがない。
“二”がもっとも根拠のある理由だが、金縛りの症状と食い違う点もある。身体は動かないのではなく、思い通りに動かないのだ。目も耳も使えなくとも、それらを補うように鼻が効きすぎるくらいに機能している。それに触覚も残っている。肌を打つ雨の冷たさが記憶であるはずがない。
このニオイが現実でないのなら、現実などどこにもないように世界がそこに広がっていた。
ならば、答えは“三”だろう。
なぜ目が見えないのか。なぜ耳が聞こえないのか。
外という以外、どこにいるのかすら分からない。
そもそもなぜ、こんな状況に陥っているのか。
分からない事が多すぎる。
寒い。雨のおかげでニオイはだいぶ治まった。
雨は体温と思考能力を奪っていく。
恐怖はなかった。
現実であるとは思う。ただ、現実味がない。
恐怖を恐怖と感じる程には、何も理解出来ていなかった。
どれほど時間が経っただろう。永遠にも思える時間を過ごした。
実際はほんの数刻だったに違いない。
雨が止んだ。否、遮られたのだ。
何かが身体に触れる。暖かい何かだ。頭から背をゆっくりと労わるように撫でる。
これは、人だ。ニオイで分かる。誰かが助けに来てくれたのだ。
このニオイは知っている気がする。なんとなく懐かしい。知り合いだろうか?
布が掛けられたかと思うと抱き上げられた。
身動きの取れない成人男性をこうも軽々と持ち上げるとは。腕も広い。こんな大男、知り合いにはいないはずだが。
ともかく。これで助かるのだ。病院に運んでくれるのだろう。彼には感謝しなくては。
空気が変わった。
室内に入ったのだ。床に寝かせられ男が遠ざかる。
雨から解放されてひとまず安心した。けれど、ひとつ違和感を覚える。
ここは病院ではない。
部屋には消毒液のニオイが充満している。臭いくらいだ。おかげで他のニオイが嗅ぎ分けにくい。
それよりも怪我人もしくは病人を入ってすぐの場所に寝かせるだろうか?
病院にしては狭すぎるし、妙に胸騒ぎがした。
男のニオイが近づいてくる。
乾いたタオルが当てられた。身体を拭かれているらしい。
ぽんぽんと優しく頭を撫でられ、再び抱き上げられた。
嫌な予感がする。
空気が変わった。別の部屋の扉を開いたのだ。
水とカルキと消毒液のニオイ。そこに混じるほのかな、けれど、こびりついて消えない悪臭。
そのニオイを知っている。
甘美であり、悦楽であり、恍惚であり。
男が頭を撫でる。耳を折りこむように行ったり来たり。
それは愛撫だ。怖がらなくてもいいのだと、安心させるために。
男は耳が聞こえていないのを知らない。聞こえていたところで理解出来ないのを分かっていて猫なで声で、優しく語りかけるのだ。
身体が痙攣する。
違う。震えているのだ。計り知れない恐怖に。
知っている。知っているのだ。
予感ではいない。これから起きることを一部始終知っている。
身をくねらせ男の腕から逃れようとした。しかし男との力の差は歴然だ。噛みつこうとしたが慣れた手つきで猿ぐつわを嵌められた。
……やめろ。やめろ、やめろ。
浴室には台が置いてある。鉄で出来た丈夫な台だ。横幅四十センチ、縦幅六十センチ。この身を寝かせるにはちょうどいい大きさだ。高さも作業しやすいように調整してある。
丁寧に、すぐに終わってしまわないように。
この時間がいつまでもいつまでも続くように。
じっくりと時間をかけて。
最後まで楽しめるように。
台の上に寝かせられた。鉄製のためひんやりする。それ以上に身体の芯が冷えていた。水とカルキと消毒液にゴム手袋のニオイが加わる。それらを凌駕する圧倒的な……鉄のニオイ。
ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロ
嫌だ!ヤメロ!違う!違う!!駄目だ!
俺だ!俺じゃない!
俺は、俺は……っ!!
*****
電車を降りると同時に雨が降ってきた。
朝の予報で降水確率八十パーセントと出ていたため、折り畳み傘は持ってきていたがついていない。電車の中は湿気のせいでより蒸し暑く、目の前に立っていた男の汗臭さは尋常ではなかった。移動しようにも車内は混み合い動くに動けなかった。
そういえば星座占いでも順位が良くなかった。
確か幸運を握る行動は……。
そうだ。いつもと違う道を歩くといい出会いがあるかもしれないと言っていた。
駅からアパートまでの距離は五分程度だ。すぐに着いてしまう。
せっかくだ。アパートを一周してから帰ろう。
果たして。占いは当たっていた。そこには素晴らしい出会いが待っていた。
アパートの裏手。ほとんど人が通らない場所にダンボールが置いてあった。中を覗くと犬が入っていた。
捨て犬だろう。茶色い毛並みに白い斑点がある雑種だ。
ダンボールの中で辛うじて息をしている。
背中を撫でてやると目を開いた。けれど、その瞳は濁っており、何も見えていないらしい。大方それが理由で捨てられたのだろう。
その犬は嬉しいのか、小さく尻尾を降った。
こんな扱いを受けて尚、人が恋しいのだろう。
上着を脱いで包んでやる。見た目よりもずいぶん軽かった。
この子は良い犬に違いない。
意気揚々とアパートへ向かう。
今日は久々に素晴らしい時間を過ごせそうだ。
このアパートを選んだのには三つ理由がある。
一、駅から近いから。
二、浴室が広いから。
三、音が漏れないからだ。