ユカリとユズルと魔女のオカリナ
河原で、ユカリはユズル君と、しばらくおしゃべりを楽しんだ。
都会育ちのユズル君にとっては、川とは茶色いものらしい。ここへきて、真っ青な水を見て、本当にびっくりしたと言っていた。川が青いのは、ユカリにとっては当たり前だったので、ユカリもおどろいた。
中流から下流へいくうちに、川の水はどんどん汚れていくんだな、と思う。水源から、100メートルおきに水を集めたら、自由研究にいいかもしれない、と思ったけれど、車なんて運転できないし、絶対にむりだと思ったので、すぐにあきらめた。
でも、川の水源探しは、きっと楽しい気がする。いつかやりたい。
そう思ったところで、クマが出ることに気がついた。
仲間をたくさん集めてからでないと、やってみることもできなさそうだ。
ユズル君は、やっぱり「魔女」のいとこだけあって、勉強はくわしかった。イネは単子葉類だとか、アサガオは双子葉類だとか、むずかしい言葉がすらすら口から出てくる。
きっと、こういう頭の人間でないと、中学受験はできないのだろう。
でもそのくせ、知っていることは文字にかたよっていた。
イネが単子葉類だというのは知っていても、たとえばイネの育て方や、その時々の気をつける点、なんていうものは知らなかった。ユカリがおどろいたのは、田植えの苗の作り方も知らなかったことだ。ユカリにとっては集落のどこででも見られるのに、ユズル君は生まれてから一度も、田植えすら見たことがない、という。
「こうして話してると、僕が本当に何も知らないことがわかるな」
ユズル君は、しみじみとつぶやいた。
「いっぱい知ってると思うけど……でも、たしかにちょっと、知らない、かな」
ユズル君は、ユカリの知らないこともたくさん知っている。知っていることと、知らないことが、それぞれちがうだけだ。たぶん、育った環境のせいで。
いや、もしユカリがユズル君のように都会育ちだったとしても、ユズル君みたいに、私立の中学校を受験できるほど、成績が良くなるとは思えない。
逆に、ユズル君がユカリの環境にいたら、それこそ「魔女」みたいになっていたかもしれない。裏山の、シロップの魔女の、あととりとかになっていたかもしれない。
そういえば、ユズル君は「エリカさん」と言っていた。
「その……ユズル君は『先生』のこと、エリカさん、ってよんでるの?」
「うん。おば? みたいな立場だけど、おばさん、ってよばれたくないんだって。何歳か知らないけど、たぶん、30歳ちょっと、だと思う」
魔女の年は、初耳だ。
「え? まだ30歳なの?」
ユカリが読んだ、たくさんの本のイメージでは、魔女というものは、たいていがおばあさんだ。ときどき美人に化けることもあるけれど。
びっくりして聞き返したら、ユズル君は軽くうなずいた。
「40歳はまだ先だと思うよ……でもこれ以上しゃべらない方がいいね」
そう言いながら、ユズル君はアーサーの方を見た。
アーサーは、相変わらず人間くさい、お目付役みたいな顔で、ユズル君とユカリをにらんでいた。
「わかった、わかった。もう年の話はしないから」
ユズル君がそう言うと、フン、と小さく鼻息を鳴らした。
本当に、まるで人間みたいな猫だ。
「思ってたより、若いんだ……」
「ん? そういえば、エリカさんのこと『先生』ってよんでたよね? ひょっとしてユカリちゃんも、あの『ティンクチャー』を飲んでるの?」
「……ティンクチャー?」
知らない言葉が出てきた。どうやら、魔法の薬に関係するらしい。
「ハーブを浸けたお酒でつくる、薬」
やっぱりそうだった。でも、ユカリは未成年だから、お酒は飲まないのだ。
「わたしが飲んでるのは、シロップだよ」
「へえ、シロップも作るんだ……ティンクチャーの作り方は知ってるけど、シロップは知らないなぁ……教えてもらおうかなぁ……」
魔女は、どうやらいとこには、魔法の薬を教えているらしい。
もし、夏休みの宿題を計画通りにやれたら、魔女はユカリに「魔法使いのそしつ」があると認めて、薬やシロップの作り方を教えてくれるだろうか。
「教わりたいなぁ……」
「来たらいいんじゃない? ねえ、アーサー」
ユズル君は、まるで人間の友だちに話しかけるように、猫に言った。
アーサーは一度、じっくりとまばたきをした。ナッ、と短く鳴く。
「そうか……エリカさんと相談しないとダメなのか……」
ユズル君がそう言うので、ユカリは思いきって質問してみた。
「ねぇ、ユズル君って、アーサーの言葉が分かるの?」
アーサーは猫で、ユカリの聞いているかぎり、人間の言葉は使っていない。
なのにユズル君は、アーサーの言いたいことが、全部分かっているみたいだ。
ユズル君は、あはは、と照れたように笑った。
「全部はむりだけど、だいぶ分かるようになってきたよ」
「……すごい」
「毎日、一緒にご飯を食べて、遊んだら、ユカリちゃんも分かるよ、きっと」
そのまま、おしゃべりを続けていたら、お目付役がしびれを切らしたらしい。
ニャーニャー、とアーサーが、ユズル君をせっついた。
「はいはいはいはい! 分かったよ! ちゃんとするから!」
巨大な猫が、前足で小学生をこづいている様は、まるでお説教みたいだ。
「おしゃべりばっかりしないで、って怒られちゃったよ」
軽く肩をすくめて、そう言ったユズル君は、丈夫な布の肩かけかばんから、白いものを取り出した。よく見ると、あちこちに穴が空いている。
「笛?」
「オカリナ。満月の夜までに、吹けるようになれって、課題曲」
「……中学受験は、音楽の実技もあるの?」
満月、というのが気になったけれど、あえて違うきき方をする。
ユズル君は首を左右にふった。
「エリカさんが言うには、この曲が吹けたら、夜の山でも大丈夫なんだってさ。クマとかをよける、おまじないみたいなものらしいよ」
「聞いて良いの?」
「うん。ユカリちゃんがいるのに、アーサーが吹けって言ったから、それってたぶん、聞いてもいい、ってことだと思う」
ユカリは思わず、巨大猫に目を向けた。
アーサーは、聞くがよい、とでも言うように、ゆっくり目を閉じた。
ユズル君は、小さく音を鳴らして、それからゆったりしたメロディをはじめた。
音楽の授業で習った曲とはちがう、ふしぎな曲だ。
きっと、これは「魔女の音楽」なんだろう、と思う。
ゆっくり、のんびりした曲調と、オカリナの柔らかな音がとても合う。
ユカリは目を細めて、メロディにききいった。風が木の葉をゆらす音、小鳥が鳴く声、流れる川の水の音……それらを、すべて包み込むような、飾り気のない温かなオカリナ。
夏のかんかんと照る日ざしさえ、ユズル君のオカリナでやわらげられるようだ。
ふわ、と風が吹いて、それが思いの外ひややかだったので、ユカリは目を開いた。
本当に日ざしがやわらかくなっている。
ユズル君は、まだのびのびとオカリナを吹いている。
川の水がはねて、小さな虹がしぶきの中に散る。霧が川から、ほのかに上がる。
オカリナのメロディは続く。
それに合わせて、ゆらゆら、ゆらゆらと、小さな虹がゆれる。
ひときわ高い音を、長くのばして、ユズル君はオカリナの演奏を終えた。
小さな虹はくるくるおどって、それから、夏の日ざしの中で散るように消えた。
遠ざかっていたセミの鳴き声が、とつぜん、やけにうるさく聞こえはじめた。太陽はまた、夏のきびしい暑さそのもののように、かんかんと照りはじめた。
まぼろしを見ていたような気分になりながら、ユカリは拍手をした。
「すごいね。オカリナが鳴っている間は、なんだかすずしかった気がするよ」
そう言うと、ユズル君は照れくさそうに、眉じりを下げた。
「僕も、少しは魔法が使えた、ってことかなぁ……」
その言葉に、ん? とユカリは目を見開く。
「……ユズル君は、魔法が使えるの?」
とすると、ユズル君は「魔女」が本物だと、知ってるのだろうか。
「僕は、そこまでは……でも、エリカさんがこのオカリナで、さっきの曲を演奏したら、霧が出てきたんだよね。きっとあれは、魔法だと思うんだ」
思わず、学校の授業で、ばっちり答えられる場所が問われた時みたいに、ユカリは「はいはーい!」と挙手をした。
「ユズル君が吹いてた時も、霧、出てた!」
「えっ?」
ユカリの言葉に、ユズル君は心底おどろいたらしい。
「川の表面がね、少しはねて、もやっとして、小さく虹ができてたよ!」
そう言うと、今度はユズル君の方が顔を赤くした。せきこむようにきいてくる。
「それ、本当? 本当に見た?」
「見たよ! ねぇ、アーサー」
あまりのいきおいに、びっくりしながら、ユカリは居合わせたもう一人……もう一匹の存在に、同意を求めて声をかけた。アーサーは、たわしより太いしっぽを、ゆっくりふって、「ニャ」と鳴いた。きっとユカリの発言を肯定したのにちがいない。
「そうなんだ……そっか……僕にもできたんだ……」
アーサーの言葉には、全幅の信頼をよせているらしい。
ユズル君は、感動したように、オカリナをゆっくりとなでた。
「魔法のオカリナなんだね、これは」
どうやら、ユズル君は、霧みたいなものが発生したのは、オカリナにふしぎな力があるからだ、と考えたらしい。でもユカリはちがう。
ユズル君は、魔女と血がつながっているのだ。
魔女にできる魔法なら、ユズル君にもできておかしくはない。
「ね、そのオカリナ、私が吹いても霧が出るかな?」
「やってみる?」
ユズル君は、首にかけていた革ひもを外して、ユカリに差し出した。
アーサーからは「おとがめ」の声がとばなかったので、たぶん大丈夫だろう。
「ここが右手1番で、こっちが右手2番……あ、親指と、人さし指ね……」
ユズル君に言われたとおり、オカリナの孔を、順番に指でふさぐ。
「意外と大きい」
「長さはともかく、胴回りはリコーダーよりあるよね」
「でも、指の配置は近い、かも……」
多分「ド」の音が出る、と思いながら、オカリナを吹いてみる。
ぺっ、と、すごく、まぬけな音がした。
ユズル君は、ユカリが思い切り間違えた音に、おなかを抱えて笑った。
「ひどいよ! わたし、はじめてなのに!」
「ごめん……でも、さすがにその音はないと思う……あははは……」
ぷくっ、とふくれてみせるが、逆にユズル君の笑いのツボをついたらしい。
「じゃあユズル君は、最初からちゃんと吹けたの?」
「少なくとも、ユカリちゃんよりはちゃんと吹けたと思う」
「何その言い方!」
失礼しちゃう、と、くちびるをとがらせたけれど、もちろんユカリは本当に気を悪くしたわけではない。さっきの音は自分の耳でも、あれはない、というひどさだ。
「リコーダーみたいに、胴が長いわけじゃないから、ゆっくり吹けばいい」
ゆっくり、を意識して吹くと、ぽーっ、といくらかマシな音が出た。
「まだカスレがあるな。口の中に息をこもらせて、それをゆっくり注いで……」
ユズル君の指示にしたがって、がんばってイメージをふくらませる。
ぼーっ、という音は、さっきよりも、厚みが増している気がした。
「リコーダーで、タンギングやってる? うん、じゃ、次はそれを意識して」
吹き口の近くに舌をあてて、ふたを開けるように、最初は勢いをつける。トンッ。
きれいな「ド」の音が出た。
「おおお! 出た! ちゃんと『ド』の音が出た!」
思わず感動して、そう声を上げてしまう。ユズル君は、よくできました、とまるで先生のように言って、自分のことのようにうれしそうに笑った。
「よし、じゃ、右手5番……おっと、右手小指を外して、『レ』を」
言われたとおりにしてみる。最初は吹きにくかったけれど、何度か試すと、ちゃんと音は出た。
ドレミを一つずつ順番に吹いて、それから、ユズル君の指示に従って、一音ずつ「霧の歌」を吹いてみる。つっかえつっかえ、失敗しながらだ。
聞いている時は何とも思わなかったけれど、けっこうむずかしい。
「……霧、出ないね」
どうにか吹き終えたユカリの言葉に、練習すれば出るよ、とユズル君は言う。
よし、いよいよ本題だ、と、どきどきしながら、ユカリはなるべくさりげない感じで、会話を切りだした。
「うーん、でも……私は『魔女』の血筋じゃないから、出ない気がする」
いよいよ、はじめて面と向かって、自分から「魔女」という語を口にした。
どうなるのかと思ったけれど、ユズル君には特にひっかからなかったらしい。
それどころか、びっくりするようなことを言った。
「『魔女』は血じゃなくて努力だって、エリカさんは言ってたけどなぁ」
エリカさんは番外編でも桁違いの魔女です。