第1章 トロイアの女神
初めて戦記物を書いて見ました。
読んで頂けたら嬉しいです。
焼けつく太陽の陽射しの下、アキレウスは同じく焼けるような砂浜を走っていた。
正確に言えば、逃げまどっていた。
彼はアカイア人であり、富める城塞都市トロイアを侵略する為に、アカイア軍の一人としてこの遠征に参加していたのである。
アカイアとは、紀元前1500年頃にペロポネソス半島一帯に定住したとされる、古代ギリシャ人の集団である。
トロイアは、ギリシャ神話に登場する古代都市だ。
トロイアを攻略するには、トロイア近郊のこの浜辺に前線基地を作る必要がある。
そこでアキレウスを隊長とした部隊が編成され、このトロイアの浜辺に攻め込んだのである。
数に勝るアキレウス達は、トロイア兵をなめてかかっていた。
しかし、トロイア兵の統制された動きと、地の利を生かした攻撃に思わぬ苦戦を強いられた。
アキレウス達の部隊は浮き足だち、気がつけば総崩れとなっていた。
アキレウスは一命を取りとめたが、トロイア兵は彼を殺すべく追いかけて来ていた。
もはや、仲間が何人生き延びているのかも判らなかった。
アキレウスは一人で浜辺を逃げていたが、彼の体力は限界に達しようとしていた。
ドウッ、と彼は砂浜に倒れ伏した。
振り返れば、数十人のトロイア兵が彼にとどめを刺そうと迫っていた。
彼が自分の死を覚悟した瞬間、一つの人影が彼の前に現れた。
小柄なその人影は長剣を構え、亜麻色の髪をなびかせながらトロイア兵に突進して行った。
「女?少女か?」
アキレウスが考える間もなく、亜麻色の髪の少女は長剣をトロイア兵に振るった。
ビシュッ!
鮮血をほとぼらせながら、トロイア兵の首が三つ飛んだ。
返す剣で二人のトロイア兵が倒れた。
少女は風のように軽やかに、トロイア兵を次々となぎ倒した。
いきなりの少女の出現に、トロイア兵は驚いたように立ちすくんだ。
そんな彼らを、亜麻色の髪の少女は無表情に見つめた。
その瞳は妖しい光りを放っていた。
その瞳を見た者は、身体の奥底から例えようも無い恐怖感に襲われた。
「うわぁ!」
少女に見つめられたトロイア兵は、身体の根源から沸き起こる恐怖感に耐えられず半狂乱になって逃げ出した。
誰も例外では無かった。
その場にいた兵士達は皆、恐怖に怯えながら逃げ去っていった。
アキレウスは自分の目が信じられなかった。
数十人もいたトロイア兵は消え去っていた。
彼の目の前には長剣を砂浜に突き刺した少女と、彼女が倒した十数人のトロイア兵の死体が転がっていた。
少女は、おもむろに剣を抜くと立ち去ろうとした。
「ま、待ってくれ!お前は何物だ?なぜ俺を助けてくれた?」
少女の歩みが止む事はなかった。
「な、名前は!お前の名前は!」
その問いに少女は立ち止まり、ゆっくりとアキレウスを振り返った。
返り血をあびた少女は、とても美しかった。
「私の名はターニャ」
亜麻色の髪の少女は、その一言だけ残して振り向きもせず立ち去った。
「よくやったな。アキレウス」
呆然と座り込むアキレウスの肩をアガメムノーンが叩いた。
彼はアカイア軍の総大将である。
「……皮肉か」
アキレウスは呟いた。
「何を言っている。お前達のおかげで我々は上陸出来た」
「なんだと?」
アキレウスは驚いたようにアガメムノーンを見上げた。
俺たちの部隊は敗北したはずだ。
しかし、それではアガメムノーンがここにいられるはずが無い。
「トロイア兵達は?」
アガメムノーンは上機嫌で言った。
「だから、お前の部隊が掃除してくれたんだろ?途中ではどうなるかと思ったがな」
そんなバカな。
俺たちの部隊は総崩れで全滅したはずだ。
アキレウスは混乱したまま尋ねた。
「俺たちの部隊は全滅したんじゃないのか?」
アガメムノーンは、ちょっと苦い顔をして言った。
「まぁ、部隊の3分の2を無くしたのは痛かったがな。それでもこうして上陸出来た。こちらは大艦隊で来ているからな。兵はいくらでもいる」
3分の2。
すると3分の1は助かったのか?
あの状況で?
しかもトロイア兵は一人もいないと言う。
アキレウスは訳が判らなかった。
「まぁ、死んだと言っても奴隷どもだ。いくらでも代わりはいる。お前は目的を果たした。こちらに来て休め」
アキレウスはアガメムノーンのこの態度が、いつも気にくわなかった。
奴隷とは言っても、元はアカイア軍が滅ぼした都市の住人である。
俺たちと同じ人間だ。
特に、アキレウスのように前線で戦う者たちには生死を共にする仲間だ。
しょせん、アガメムノーンのように自分では戦わず命令だけしているような奴には判るまい。
アキレウスは疲れた身体を引きずるように彼の後に続いた。
浜辺は、沖に浮かんでいる大型船から運び込まれた物資で溢れかえっている。
これから、前線基地の建設が始まるのだろう。
とにかく喉の渇きを癒したかったアキレウスは水瓶の方へ向かった。
そこで美味そうに水を飲んでいる男を見つけて、アキレウスは驚いた。
さっきまで一緒に戦っていた仲間だ。
あの状況で生き延びていたとは。
彼は慌てて、その男に駆け寄った。
「お前、生きていたのか!」
「おぉ、隊長もご無事で」
アキレウスはその男の笑顔を直視出来なかった。
「…すまん。俺の采配が悪かった」
「いや、あっしらにも油断がありました。隊長だけの責任じゃありやせん」
そう言われてもアキレウスは自戒の念を捨てられなかった。
「しかし、お前はよく助かったな。あの状況で。3分の1は生き残ったそうだし、トロイア兵もいなくなった。俺には訳が判らん」
アキレウスが問うと、何故かその男は口を閉ざして目を反らした。
何か言いたそうだが、言えない。
そんな雰囲気だった。
「どうした?何があった?」
「…話しても、隊長には信じてもらえやせん」
はっとして、アキレウスは自分の体験を思い出していた。
もしや、もしや、
「女を見たんじゃないのか?亜麻色の髪の女を」
「えぇっ!隊長はなんでその事を!?」
アキレウスは苦々しげに呟いた。
「俺も、その女に助けられたんだ」
「隊長も!」
その男はポカンと口を開けた。
そして、夢見るように喋りだした。
「あっしら、トロイア兵に囲まれて、もうダメだと思って目を閉じたんです。でも、あいつら何もしてこねえ。それで目を開けたら、あの女があっしらの前に立っていたんです」
男は熱に浮かされたように喋り続けた。
「亜麻色の髪が、とても美しかった…。そしたら、トロイア兵のやつらが狂ったように逃げ出したんでやす」
アキレウスは愕然とした。
ターニャと名乗ったあの少女に助けられたのは、自分だけではなかったのだ。
ひょっとすると、生き残った仲間を助けたのも、トロイア兵を全て追い払ったのも、あのターニャと言う亜麻色の髪の少女の仕業ではないのか?
アキレウスは、背筋が冷たくなるのを感じた。
こんな感覚は初めてだった。
今までの、どの戦場よりも恐ろしい気分だった。
あの、ターニャと言う少女は、どれほどの力を持っているのだろうか?
今日は俺たちを助けてくれたが、あの少女が敵として現れたら、俺はまともにあいつと戦えるだろうか?
考えるだけでも恐ろしかった。
「…あの女は女神だ」
男はまだ、熱に浮かされているようだった。
女神?
そんな、生やさしいものじゃない。
アキレウスは、これから始まるトロイアとの戦争に、何故かとても不吉なものを感じていた。
物語の途中ですが、ここでトロイア戦争について触れさせて頂きます。
トロイア戦争は、トロイアという都市にアカイア軍が攻め込むギリシャ神話の戦争です。
当然の事ながら、それは神話上の架空の戦争であると信じられていました。
しかし、19世紀末にシュリーマンによって、神話やその他の文献からトロイアが存在したとされる地域から都市の遺跡が発掘されました。
遺跡の地層から火災の跡が発見された事により、シュリーマンはトロイア戦争が実際に起きた戦争である、との説を発表しました。
1930年にブレゲンが再調査をした際には、火災が都市全体を覆っている事、都市の破壊がかなり混乱している事、発見された人骨の胴体と頭部が分離している事などが確認されました。
それによって、トロイアの破壊が人為的なものである事が立証され、現在ではトロイア戦争は実際に起きたものであると言う説が有力になっています。
トロイアでの戦闘が始まってから、9年の歳月が流れていた。
アカイア軍の誰もが、ここまで戦闘が長引くとは予想もしていなかった。
トロイア人はトロイアの城塞都市に籠城した。
城塞都市は大変に強固な城壁に囲まれており、アカイア軍の大軍勢をもってしても、それを撃ち破る事は出来なかった。
アガメムノーンの無謀な突撃命令により、アカイア軍は多大の死者を出した。
アキレウスは自分の嫌な予感が当たってしまった、と感じていた。
しかし、それでも全滅して当然のはずの部隊から生き延びて来る者も多数いた。
ターニャの存在があったからである。
亜麻色の髪の少女は、いつも風のように現れトロイア兵をなぎ倒した。
そして、ターニャを見たトロイア兵は何故か戦意を喪失して逃げ出して行った。
しだいにアカイア軍の間には、ターニャを勝利の女神と呼ぶ者が増えて行った。
実際に、ターニャによって助けられたアカイア兵はかなりの人数になっていたからである。
アキレウス自身も、何度かターニャに命を救わていた。
常に最前線で戦う彼は、アガメムノーンの無謀な作戦で、いつも命の危険に脅かされていた。
そして、今度こそもうダメだ、と思った時にターニャが現れるのである。
9年の歳月が過ぎているのに、ターニャは初めて見た時とまるで変わっていなかった。
美しい亜麻色の髪をなびかせて、長剣を振るい幾人かのトロイア兵を倒すと、後は黙ってトロイア兵を見つめるだけだった。
それだけでトロイア兵は大混乱に陥り、我先にと逃げていくのである。
アキレウスは一度だけ、トロイア兵を見つめるターニャの瞳を見た事がある。
その瞳は妖しい光りを放っていた。
とっさに目を伏せたアキレウスだったが、身体中の震えが止まらなかった。
身体中が恐怖に包まれている。
訳の判らない恐怖心が突然、込み上げて来たのである。
恐ろしい。
一瞬、見た自分でさえ、こうなのだ。
あの瞳に、数秒間見つめられたら発狂するかも知れない。
トロイア兵達が逃げ出していく理由が、やっと判った。
「やったー!」
「勝利の女神のおかげだ!」
周りから歓声が沸き上がる。
アキレウスが顔を上げると、もうターニャの姿は何処にもなかった。
「…勝利の女神だと…」
アキレウスには、ターニャが悪魔のように思われるだけだった。
「何か、策は無いのか!」
夜の砂浜に、アガメムノーンの怒鳴り声が響く。
周りには、かがり火がいくつも燃えている。
そこは、アカイア軍が設営した前線基地の近くの砂浜。
アカイア軍の面だった将兵達が集められ、もはや意味の無い作戦会議が行われていた。
皆より、一段高い台の上の椅子でアガメムノーンは苛立って、声を荒げた。
「いつになったら、トロイアを攻め落とせるのだ!」
アガメムノーンは癇癪を起こしたように、怒鳴り続けた。
アガメムノーンは焦っていた。
まさかトロイア攻略に、これ程の月日を費やすとは思わなかった。
本国からは、早くトロイアを落とせ、という書状が山のように送り付けられていた。
このままトロイアを落とせなければ、彼の地位どころか命まで危うい。
作戦に失敗した総大将が、どのような目にあうのかアガメムノーンはよく知っている。
彼自身も、そうやって処刑された者達の屍を踏みつけて今の地位を手に入れたのだから。
将兵達は黙りこくっていた。
策など、有るわけも無い。
それがあるなら、とっくにやっている。
それよりも、皆は疲れきっていた。
こんな戦争は早く切り上げて、祖国の家族の元へ帰りたかった。
「…何を言ってやがる」
黙り込む将兵達の中でアキレウスはアガメムノーンを睨みつけていた。
お前の無謀な指揮で、どれだけの兵達が死んだと思っているんだ。
こんな馬鹿馬鹿しい戦争は早く切り上げて撤退すべきだ。
お前の首が跳ねられようが、俺たちには関係ねえ。
しばらくの沈黙が続いた。
アガメムノーンが痺れを切らして立ち上がろうとした時、その声は響いた。
「木馬を作るんだ!」
女の声だった。
それも、ひどく若い。
少女のような声だった。
思わず振り返ったアキレウスの視線の先に、長剣を手にしたターニャが立っていた。
亜麻色の髪が、かがり火に映えて輝いていた。
アキレウスは、初めてターニャの顔をまともに見た。とても美しい少女だった。
思わずターニャの瞳を見てしまったが、恐怖心は沸いて来なかった。
今のターニャの瞳は妖しい光りを放っていなかった。
「…女神だ」
「勝利の女神だ」
その場にいた将兵達がざわめいた。
アガメムノーンはターニャを見下ろしながら、隣の副官に囁いた。
「あれが、勝利の女神とやらか?」
「はい。さようで」
「まだ子供ではないか。あのような者に、そんな力があるのか?」
「閣下も生き延びた者からの報告は聞いておられるはず」
ううむ、とアガメムノーンは呻いた。
そして、ターニャに言った。
「木馬だと?そんなものを作ってどうする?」
「木馬の中に兵を隠してトロイアの都市に入れる。城壁は強固だが、中に入れば攻略は簡単だ」
ターニャの声は凛と響いた。
やれやれ。
アキレウスはターニャの言った案に首を振った。
策としては悪くない。しかし、どうやってトロイアの中に木馬を入れるんだ?
「バカな!」
アガメムノーンの考えも同じようだった。
「木馬をトロイアの中に入れる?どうやって?」
ターニャは答えた。
「この前線基地を焼き払って、我々は船に戻る。トロイア攻略は諦めたと言って奴らを欺く」
アガメムノーンは嘲るように笑った。
「そんな簡単に奴らを欺けるものか。だいたい」
すると、ターニャの瞳が妖しく光り始めた。
それは、恐怖心を抱かせるものではなかったが、その瞳を見た者は誰もターニャには逆らえなくなった。
「それは私がなんとかする。木馬を作ってくれ」
その言葉に逆らえる者はいなかった。
「わ、わかった」
アガメムノーンは絞り出すように言った。
木馬の製作は急ピッチで進められた。
陣頭指揮はアカイア軍の中でも大工の技に長けていた、エペイオスという男が取った。
彼は、イーデー山から木を切り出したり自軍の船を解体したりして、木材を調達した。
数日後に木馬が完成すると、アカイア軍は前線基地を焼き払らい、兵のほとんどが船に戻った。
「それで?これから、どうするのだ?」
アガメムノーンは、ぶっきらぼうにターニャに尋ねた。
こんな小娘の命令を聞くのは癪にさわったが、何故かターニャには逆らえなかった。
「木馬に兵を隠してトロイアの近くまで運んでくれ。トロイア人との交渉は私がする」
アガメムノーンは黙ってターニャの言葉を聞いていた。
「夜になったら、トロイア市内に火を放ち城門をあける。それを合図に一気に攻め込んでくれ」
「…わかった」
アガメムノーンは後方に下がって行き、残った数名の兵士に木馬を運ぶように指示を出した。
アキレウスは木馬に乗り込む前にターニャに話しかけた。
ターニャと話すのは初めてだった。
「なぁ、本当に大丈夫なのか?木馬を運ぶ途中にもトロイア兵はいるだろう?どうするつもりだ」
「それも私がなんとかする」
ターニャはトロイアを見ながら、抑揚の無い声で言った。
「おい!」
アキレウスは何かに閃いたようにターニャに詰め寄った。
「お前が何者なのかは判らない。しかし、その、お前の訳の判らない力を使っていたら、この戦争はもっと早く終わっていたんじゃないのか?」
ターニャは、その言葉を無視するように言った。
「早く木馬に乗り込め」
そしてトロイアに向けて歩き出した。
アキレウスは諦めたように木馬に乗り込んだ。
アキレウスの言ったように木馬を運ぶ途中で、幾度もトロイア兵と対峙した。
しかしターニャが「我々は撤退する。道を開けろ」と言うと、トロイア兵は抵抗もせずに退いた。
そして、いよいよトロイアの都市の目前までたどり着いた。
「トロイアの民よ!我々は撤退する。私の話を聞いてくれ!」
ターニャの声は決して大きくはなかったが、その声は誰の胸にも響きわたるようだった。
「魔女だ!」
「アカイアの魔女が来た!」
城壁の上では多数のトロイア兵が騒いでいた。
やがて城門が少しだけ開くと、中から数名の男達が兵士と共に出て来た。
「そなたがトロイアの長か?」
ターニャは迷いもせずに、背の高い思慮深そうな男の前に歩み寄った。
「アカイアの魔女よ。何用で参った」
「我々は撤退する。ご覧のように兵はいない。基地も焼き払った。この木馬は我々のお詫びとして、そなた達の神に祀らせてくれ」
ターニャは、よどみなく言った。
「その言葉を信じろと言うのか?アカイアの魔女よ」
トロイアの長は静かに答えた。
木馬の中では、アキレウスが冷や汗をかいていた。
本当にうまく行くのだろうか?
しかし、ターニャなら大丈夫という妙な確信もあった。
「信じてくれ。これ以上の血は流したくない」
トロイアの長は考え込んでいた。
その時、ターニャの瞳がまた妖しい光りを放ちはじめた。
何かを言いかけようとしたトロイアの長は、ターニャの瞳を見ると口をつぐんでしまった。
「私も木馬と共に残る。私が人質という事でどうだ」
そう言うとターニャは、これまでとはうって変わったような、妖艶な笑みを浮かべた。
亜麻色の髪が、これもまた男を誘うように妖しく揺らめいていた。
「…わかった。入るがよい」
その笑みを見たトロイアの長は、城門を開くように指示を出した。
ターニャと木馬はトロイア兵に囲まれながら、静かにトロイアの中に入って行った。
木馬の中でアキレウスは仲間と共に息を潜めていた。
トロイアの中に入ってから、数時間が経過していた。
木馬の外からは、酒を酌み交わして大声で笑いあう声が無数に聞こえて来た。
トロイアの民が勝利の祝宴を開いているのだろう。
無限とも言える時間をアキレウス達が耐えていると、不意に木馬を叩く音がした。
「私だ。出て来ていいぞ」
ターニャの声だった。
アキレウス達は、ほっとしたように木馬の外に出た。
無数のかがり火の炎に、アキレウスは目をしかめた。
木馬の暗闇の中にいたアキレウスには、その炎が眩しかった。
そこは、大広間のようであり、酔いつぶれたトロイア人が何百人も寝ころがっていた。
「焼き払え!皆殺しにしろ!」
かがり火の松明を持ったターニャが叫んだ。
その瞳を見たアキレウス達は、自分達の中に凶暴な破壊衝動が沸き上がるのを感じた。
「うわぁぁっ!」
仲間の一人が狂ったように、寝ころがるトロイア人の首をかき切って行った。
他の仲間もかがり火の松明を、手当たり次第に周囲の木造建築物に投げ付けていた。
アキレウスも、自分の衝動に身を任せるようにトロイア人を殺戮していった。
広間は阿鼻叫喚の地獄絵図となっていた。
目覚めたトロイア人は状況を理解できないまま、その首を跳ねられた。
逃げようとした者も、大量の血に足をとられ串刺しにされた。
大広間にいた人々が皆殺しにされた頃、ようやくトロイア兵の集団が到着した。
しかし、彼らも死体の山を見て完全に戦意を喪失していた。
そんな彼らを、ターニャは一刀両断で血の海に沈めた。
都市のあちこちでは火災が起きていた。
「城門を開け!」
ターニャの声でアキレウス達は城門に走り、城門を開いて松明をかざした。
それを合図に、近くで身を潜めていたアカイア軍の大軍がトロイアの中へ雪崩れ込んで行った。
完全に勝敗は決した。
アカイア軍の大勝利だった。
都市内での喧騒をよそに、ターニャは一人城壁の外で佇んでいた。
そんな彼女をアカイア兵が取り囲んだ。
その後ろからアガメムノーンが満面の笑みを湛えて近付いて来た。
「良くやった!勝利の女神よ」
ターニャは無言だった。
「だが、お前に生きていられると後々面倒だ。手柄はわたし一人のものとさせて貰う」
ターニャは、ふっと笑みを見せたように見えた。
そして、風のように軽やかに取り囲んだアカイア兵をなぎ払った。
「ひっ!」
そして後ずさるアガメムノーンの首を無表情で跳ねた。
アキレウスが我に返った頃には、トロイアの都市の中に生きたトロイア人はいなかった。
辺りでは、アカイア兵達が笑いながら酒を飲んでいた。
アキレウスはとっさにターニャを探したが、ターニャの姿は何処にもなかった。
「おい!ターニャは何処に行った!」
「ターニャ?」
尋ねられたアカイア兵は怪訝な顔をした。
「亜麻色の髪の女だ!」
「あぁ、勝利の女神か。俺は見てねぇ」
「女神様なら見たぜ」
別の兵が声をかけた。
「何処だ!何処で見た!」
「さっき、一人で城門の外へ出て行ったぜ」
アキレウスは、その兵の言葉を聞き終わらないうちに城門の外へ駆け出した。
城門の外は明るくなり始めていた。
空は朝焼け色に染まりつつある。
アキレウスが目を凝らしていると、一つの小柄な人影が見えた。
亜麻色の髪をなびかせていた。
「待ってくれぇ!」
アキレウスが叫ぶと、その人影は歩みを止めた。
まるでアキレウスを待っていたかのように。
アキレウスは急いで、その人影に走り寄った。
そこに佇んでいたのは、亜麻色の髪の少女。
ターニャだった。
剣は持っていなかった。
アキレウスが近付くと、ターニャはゆっくりと振り向いた。
微笑みを浮かべていた。
その微笑みはアキレウスが今まで見た事も無い、妖艶なものだった。
別人のようだった。
「…結局、全てはお前の思惑通りだったと言う訳か」
アキレウスは呻くように言った。
ターニャは微笑むだけだった。
「木馬を運ぶ前にも言ったよな?お前の力なら、この戦いをもっと早く終わらせる事が出来たはずだ。何故、そうしなかった」
「ふふ」
ターニャは含み笑いをした。
それは、とても冷たい笑いだった。
「それじゃ人がたくさん死なないわ。そんなの、つまらないじゃない」
これも、とても冷たい声だった。
アキレウスは何も言えずに、目の前の少女を見つめていた。
悪魔のような、その少女を。
「私を責める気?あなたの方が遥かにたくさんの人間を殺してきたくせに」
アキレウスは無言だった。
「もう、ここには用はないわ」
そう言ってターニャは亜麻色の髪をかきあげた。
美しい。
アキレウスは、そう思った。
この悪魔のような少女は、人間とは思えないほど美しかった。
いや、人間ではないのかも知れない。
ターニャが立ち去ろうとしたので、アキレウスは慌てて声を絞り出した。
「さ、最後に一つだけ教えてくれ!」
「なぁに?」
ターニャは、けだるそうに言った。
「何故、俺たちを助けてくれた?トロイアの味方をする事だって出来ただろう」
「ふふふ」
ターニャは、また含み笑いをした。
「そんなの決まってるじゃない」
笑いながらターニャは続けた。
「あなた達が殺戮者だからよ」
「………」
「これまで、どれだけの都市を滅ぼして、どれだけの人を殺してきたの?」
アキレウスは、またも無言だった。
「あなたの手は血まみれよ。これからもあなた達は人を殺し続けるでしょう」
そう言い残すと、ターニャは去って行った。
アキレウスは喋る事も動く事も出来なかった。
ただ、亜麻色の髪の少女が去って行くのを見つめるだけだった。
顔を出し始めた朝の太陽の陽光で、亜麻色の髪が美しく輝いていた。
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初の戦記物です。
読んで頂いて本当にありがとうございました。
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