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閑話 堕天使と熾天使



 法王領の西、その最奥にある獣人族の集落。

 古龍、ホワイトレス・ドラゴンが、まさにその地で討伐されんとしていた頃___正反対の東、人間族の都、王都シュネル。

 城壁に囲まれた王族の城『ガラハッド皇宮』の一室。


「……報告いたします」


 豪奢なローブを羽織った痩せた男が、上座に座る華奢な少女の下に跪いていた。

 少女は聖職者のような漆黒の司祭服を身にまとい、ベールハットの付いた帽子を被って素顔を隠していた。窓辺から沈みかけの陽を眺めつつ、彼女はしっとりとした声を発する。


「聞きましょう」


「選別結界が破られました……獣人族と古龍が交戦を開始したようです。さらに解析を進めたところ、結界の内部に『秘鍵』の存在を探知いたしました。全てラファエラ様のご推察の通りです」


「そうですか、それは重畳です」


 少女は鈴を転がすように笑う。

 肩が小刻みに揺れる。さらりとした銀髪が落ち、細い指先がそれを耳にかけ直す___その仕草でベールがわずかに開き、その隙間から少女の白い頬と桜色の薄い唇が覗く。

 誰も見たことのない少女の素顔の、ほんの一端だ。

 男の視線が釘付けになる。


「して、あなたの見解はどうですか?」


「は……試薬F-7133の効果は上々です。あの古龍も抵抗することすらできずに、本能の赴くまま破壊の限りを……」


「ふふっ」


 少女は窓から目を離し、男を見た。

 瞬間、快楽にも似たぞくりとした感覚が背筋を伝い、男の脳髄を痺れさせた。少女を唇に笑みを孕んだまま、言葉を続ける。


「私が求めたのは、薬が齎した結果ではないのですよ」


「は、はっ! 申し訳ありません」


「ふふ、いえいえ……私が言葉足らずでした。ごめんなさいね」


 男の言動や感情の揺れ方、その一つ一つを楽しむかのように。

 どこまでも澄んだ声で少女は笑う、くすくすと。


「獣人族と古龍の戦いですよ。どちらが勝つと思いますか?」


「……勝者、でございますか……やはり、古龍が勝つものかと」


「うふふ。どうしてそう思うのです?」


 男はちらりと目を上げ、少女の様子を窺う。

 機嫌を損ねていないかどうか、慎重になっているのだ。

 もっとも、少女はそんな男の一挙一動を矯めつ眇めつ眺めているだけで、不気味なほどに感情の揺れ幅がなかった。


「古龍は凄まじい魔力を持つと共に、独自の魔法体系をも併せ持つ存在です。鱗や甲殻は対魔力や耐衝撃性に優れ、歴史上でも古龍の防御力を上回るほどの攻撃力を実現したのは天使族のみ。獣人族には届かぬ領域かと思われます」


「なるほど……ふふ。天使族、ですか」


 と、少女はしばらく目を閉じ、そして開く。

 わずかに空いた窓の隙間から風が吹き、煌やかな刺繍の施されたカーテンが一瞬だけ少女の姿を隠す。その刹那___浮かび上がる少女のシルエットに、何か大きな影が過ぎったように見えた。

 だが、風が静まって再び現れた少女は何ら変わりなく、ただ深い笑みを浮かべて男を見つめていた。


「確かに、過去、古龍と刃を交え……そして勝利を収めてきたのは神の血を引く一族でしたね。かのルフィノ様が討伐したプロミネンス・ドラゴンの遺骸は私も拝見したことがありますよ」


「私も見とうございました」


「ああ、今はもう解体されてしまったのでしたね……それはそれは壮麗なものでした。まるで神の、死骸を見ているようで」


 少女の声に、獲物を甚振る快楽や嗜虐的な色は皆無だった。

 まるで、死を喜劇として見ているかのような、子供のように純粋で無垢な声音だった。


「……うふ。また見てみたいものです……けれど、思いの外」


 と、少女は更に笑みを深め、立ち上がる。

 

「事は、思い通りに進んでくれないようですね」


 男が怪訝そうに顔を上げた瞬間、どたばたと騒がしくドアをノックする音、次いで、くぐもった男の声が部屋に響いた。


「ラファエラ様、お目通りしたく存じます!」


「お入りなさい」


 ほとんど返事を待たず、若い青年がつんのめるようにして部屋に転がり込んできた。目上の者の前で見せるべきでない醜態に、男が咎めるような視線を向けて口を開こうとする。

 だが、少女はそれを手で制し、懐から小さな布を手に取って青年に差し出した。


「さ……これを使いなさい」


「え、あ、しかし……」


「遠慮することはありません。ハンカチも使われなければ、ただの布切れと同じ。この子の望むところではないでしょう」


 ころころと笑いながら、少女は手ずから青年の汗を拭った。

 青年は少女の方を直視できない様子で、ひたすら肩を縮めて恐縮していた。されるがままに汗を拭われたあと、青年はせめてお礼を言おうと顔を上げ___しかし、そんななけなしの勇気も、少女の目と視線が合った瞬間に挫けていた。

 青年は目を泳がせ、結局何も言えないまま口を閉じて少女の元に跪く。少女はくすりとまた笑みを零し、布を懐に戻した。


「大丈夫ですか?」


「……は、はい。ご配慮、ありがとうございます」


「ふふ、どういたしまして……落ち着きましたら、あなたのペースで構いませんから、報告を聞かせてください」


「はい」


 青年は数回深呼吸を繰り返した。

 肩は強張ったまま緊張は溶けておらず、焼け石に水だったようだが、今度こそ視線を揺らすことなく青年は少女を見た。


「では……報告します。先ほど、アルファブラ大森林にて、古龍、ホワイトレス・ドラゴンの魔力反応が消失しました」


 その言葉の意味を誰よりも早く理解したのは、古龍に関する知識の造詣が深い男だった。

 なまじ古龍について詳しいだけに、その事実がいかにありえないものであったか___彼を揺さぶった衝撃は計り知れない。

 青年のように少女の前で見苦しい姿を見せまいという側近としての意地が、辛うじて動揺を押し殺していた。


「ふふ、ふふふ……あはははっ」


 そんな中で、少女は、完全に相好を崩していた。

 満たされゆく欲の余韻に笑い、予期せぬ隘路に咲い、どこまでも抗おうとするちっぽけな世界に嗤った。

 全身の至る所をくすぐられているかのように身を捩っていた。

 お花畑ではしゃぎ回る天真爛漫な女の子のようだった。


「うふ、ふふっ。失礼、取り乱してしまいました」


 目尻に浮かんだ涙を払いながら、少女は居住まいを正した。


「ご報告、確かに承りました。引き続き大森林の魔力観測を続けてください……次の報告は一週間後にお願いします。それと」


 と、少女は一旦言葉を切った。

 思案するように指先を顎に当てて、体を左右に揺らす。

 ふわりとした甘い香りが男たちの方へ漂ってきた。


「……そうですね、ルフィノ様をお呼び頂けますか? 此度の件で少々意見をお聞きしたいのです」


「はっ」


「はい!」


 男と青年は頭を下げ、速やかに退室していった。

 廊下を叩く二人こ靴音が遠ざかっていくのを聞きながら、少女は天蓋の付いた絢爛豪華なベッドの端に座り、そして静かにその身を横たえた。

 きしりと小さく軋む音。

 部屋に舞う塵が、窓から差し込んだ夕陽をきらきら反射する。


「……そう、その調子です」


 やがて陽は地平線の彼方に沈み、夜空に星が顔を覗かせる。

 少女の髪と同じ色の光が空にちりばめられる。


「もっともっと、いっぱい足掻いてくださいな。そうすれば私も、この世界の崩し甲斐があるというものです___」


 対照的に、灯りのない暗い部屋の中。

 少女の囁き声が、闇に、残響のような影を落とす。


「___ね? 堕ちた天使、セラフィさん」




 ***



 天上界『デーヴァローカ』という世界の話をしよう。


 この世界に存在する個体数は常に一定だ。

 下位の階級には、千人の『天使』と、四人の『大天使』と、三人の『権天使』がいる。

 中位階級は『能天使』『力天使』『主天使』が二人ずつ。

 上位階級には、『座天使』『智天使』が各々一体。

 そして、最上位の個体に『熾天使』の位が存在する。


 全て合わせて千十六体。

 だが、実はこれが全てではない。


 低位にして最も数の多い『天使』、さらにその下___最下位の位として『堕天使』がある。心を失った天使が堕ちる場所だ。

 神の遣いである天使は、自我がない。しかし皆無というわけではなく、心の成長に従い自己も確立していく。

 階級で言えば、上位であるほどはっきりとした自我を持つ。

 だが堕天使は違う。

 堕天使となった者に心はなく、従って自我も完全に失われる。

 天使の行き着く最悪の墓場みたいなものだった。


 逆に、熾天使となった者には幾つか特権が与えられる。

 そのうちの一つに、自分の心を模倣した世界を、創り出すことができるようになるというものがある。

 創造主たる神が、その御心を具現化し、現界『宇宙』を誕生させたように、より神へ近付いた者も小規模ながら同じことが可能になるというわけだ。

 異世界『イークウィナクス』は、こうして生まれた世界のうちの一つ___熾天使となったセラフィが創造したものだ。

 

 だが今、その世界は崩れ去ろうとしている。


 セラフィに敗北して熾天使の座を追われた先代熾天使ルシファーが、地位を奪還しようと反逆を起こしたのである。

 ルシファーは異世界『イークウィナクス』に直接攻撃を仕掛け、これを破壊しようとしていた。天使の心を模倣した世界を破壊するということは、すなわち堕天使に堕とすことを意味するのだ。


 二体の強力な天使が、真っ向から対立した。


 熾天使としての特権にはもう一つ『神性能力の獲得』というものがある。

 これによりセラフィは『神眼』の力を得、ルシファーは『神託』の力を得ていた。

 異世界『イークウィナクス』を舞台とした戦いが始まった。


 この戦いは、セラフィが大きく不利だった___創造者本人でも異世界に入ることはできないため、ルシファーからの攻撃を天上界から能力のみで防がなければならないのだ。

 この間接的な戦いでは、神託によって異世界の住人に直接干渉できるルシファーが一枚も二枚も上手だった。

 というより……ルシファーに有利な土俵だった。

 これに対抗すべく、セラフィは輪廻転生を巡る魂に、肉体、世界の境界を通るときの通行証となる転生者の烙印、そして『神眼』の劣化版を与えて送り出した。

 他にも、自分の分体を六体ほど転送してみたりもした。


 しかしルシファーは全てにおいて先を行っていた。

 今まで投入した転生者は、敵に寝返ったか、死んだか……或いはすでに、未来を変えられる立ち位置にはいなかった。

 そして天上界でも、セラフィの不利を悟った天使が、一人、また一人と姿を消していった。

 セラフィ陣営に残っていた座天使や主天使も姿を消して、いまやルシファー側の参謀だ。

 もはやセラフィに味方はいない。

 ただ、智天使だけは……いつからか持ち歩いていたお気に入りの魔導書を残して、それから姿を消したのだが。

 追い詰められたセラフィは、最後の手段に出ることにした。

 現界から、因果を捻じ曲げてでも、未来を変え得る可能性が最も高い人物を引っ張り出そうとしたのだ。


 そして、あの少年が来た。




 誰もいない宮殿の中で、セラフィは王座に座っていた。


「……」


 目を閉じているが、彼女の『神眼』は視ている。

 彼女の箱庭、異世界の行く末___ついこの間までは崩壊の道が視えるばかりだったというのに。

 どういうわけか……今は、その結末がぼやけてみえた。


 まあ、どうも何も、あの少年の影響だろう。


 因果を無理やりに曲げて死なせたせいか、片桐唯葉に『神眼』を与えることはできなかった。

 彼は魔力すら受け付けられずにいた。

 だから、代わりに智天使の魔導書を与えてやった。

 あの時セラフィは、ほとんど投げやりだった。

 異世界は崩壊寸前で、それを止めることはもう不可能だと思っていたからだ。ルシファーの陣営は千を超える勢力___たった一人の少年がどう対抗しようと言うのか。

 そう思った。

 

 だが、少年は転生して早々に、獣人族を感染病から救い、さらに暴走した古龍をも正面から打ち倒した。


 獣人族も古龍も、少年が介入しなければ滅んでいた存在だ。

 異世界を完全なる崩壊へ誘う一打だった。

 ルシファーにとっては、チェックメイトとなる一手だったろう。片桐唯葉はそれを盤ごとひっくり返してしまったのだ。

 神眼も魔力もない、智天使の魔導書から施された一つの魔法だけで……少年は、セラフィがどう足掻いても変えられなかった結末をいとも容易く捻じ曲げてしまった。


 何度かピンチに陥ったこともあった。

 古龍のブレスの一片を受けて死にかけていたときは、セラフィは柄にもなく焦り、思わず精神世界を呼び出してしまった。

 おかげで『助言』が行えるのはあと一回だ。

 そして、あの時にセラフィは、唯葉が辿る未来が絡み合っていて見えないと言ったが……あれは嘘だ。

 セラフィの『神眼』はそんな甘い代物ではない。

 現界の人間や、天上界の天使たちの先々を全て見通せるわけではないが、自らが創った世界の未来ならば。

 全て見える。見えてしまう。


 ぼやける『異世界の崩壊』の未来。

 代わりに視えてきたのは……『少年の崩壊』だった。


 最初は冗談かと思った。

 だが、片桐唯葉が獣人族を救い、古龍を倒し、進む毎にその未来の色は濃くなった。

 そして、彼が辿るであろう道もうっすらと見えた。



 片桐唯葉は。

 これから、長く、辛く、険しい道のりを歩むことになる。



 セラフィにとって、彼が死ぬことは本意ではなかった。

 後味が悪いのが一番嫌いなのだ。

 それで異世界が救われるのだとしても。


「……」


 熾天使はゆっくりと目を開く。

 彼女が何を考えているのか。

 その紫の双眸からは、窺い知ることはできない。



   

この話で章の完結となります。

次章のプロットも考えてはいるのですが……大学が忙しいのと、今は他の小説を書いてみていたりするのとで、いつごろ再開するかは分かりません。


ともあれ、ここまで読んでくださった読者の皆さま、ありがとうございました!

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