第15話 一難去ってまた一難
それからさらに四日が経過した。
日が昇るもまだ朝靄の漂うアルファブラ大森林の最奥、獣人族の集落アルトゥンハ村___その端っこに鎮座する我らがログハウスにて、俺たちはいつものように朝食を取っていた。
ただし、昨日までの『いつも』と違い、今日は食卓の席に座っている人の数が一人多い。
「……繁殖期とな」
「うん。もうすぐ、その時期に入るはずよ」
久方ぶりに作った自分の料理に舌鼓を打ちつつ、俺はノエリアの髪が食器に入りそうなのを除けてやる。
料理と言ってもキビもどきをこねただけのキビダンゴなのだが、幼女は大層お気に召したようだ。もきゅもきゅと頬一杯に詰め込みながら器を突き出して『おかわりでしゅ!』とさえずった。
リナはその器を受け取ってキビダンゴを投入、その上にきな粉をまぶしてノエリアに返し、
「ほら、アウローラさんが言ってたじゃない。感染病が流行るのは魔獣の繁殖期の直前だとかなんとか」
「あー……っと、そうだったっけ……?」
「……ふぅ。ユイって時たま、忘れっぽくなるわよね」
指先に付いた粉をぺろっと舐めて、狼少女は思案顔になる。
「繁殖期になると魔獣が凶暴になりやすいの。だから村では大抵、今のうちにできるだけ食料とか貯蓄を集めとくようにするのよ……あら、この粉甘いのね」
「ふーむ……そうなのか。じゃあ今日は採取に出掛けるかな。あとこのきな粉が気に入ったのならそこの緑色の大豆すりつぶして砂糖混ぜればいくらでも増産できるからね。すりつぶすときはあそこのすり鉢とすりこぎ使うといいよ」
「うゆぅ! ユイ、それ後でやってみてもいいですかっ?」
「ノエルは少し危なっかしいから俺が帰ったら一緒にやろうか」
ごくりとキビダンゴを飲み込んで手を挙げる幼女。気合十分なのはいいが、勢い余って陶器を割ってしまいそうで心配だ。
その傍らで狼少女はうーんと背伸びしながら窓から外を見て、
「さて、私はちょっと外出の準備でも」
「お馬鹿。リナはまだ寝てなきゃダメです」
いそいそと衣服を整え始めるリナの側頭部を軽く小突くと、彼女はくらりとよろめいてベッドに倒れ込んだ。
「もう治ったもん……」
「まだふらふらだろうに。あと二日は安静にしてなさい」
「過保護キライ」
「文句言わない。病み上がりなんだから」
「はぁ……分かったわよ、もう」
唇を尖らせながらも、リナは身体を横たえて目を閉じた。
その横髪には、今朝俺が退院祝いに献上した髪留めが留められている。赤い宝石の中に魔法陣が煌めく特注品である。
洞窟にいらっしゃる魔導書さんの匠の技が光る一品であった。
今まで村で亡くなっていった感染者たちは、五日ほど苦しんだ後に衰弱、虚脱症状に陥って死亡したという話だが……感染してから今日で一週間となったリナ・フォシェル。
彼女は今朝、無事に完全回復したのが確認された。
コリカラ病の特徴として、舌の付け根周辺に赤い炎症が起こり、唾液がちょっとだけ泡っぽくなって粘着性が弱くなるという症例がある。見た目で分かりやすい症状であるから、感染しているか否かの線引きはこれで行うことができる。
数日前は真っ赤に腫れていたリナの舌は、もとの薄桃色に戻って味覚も正常。唾液も唇の間でちゃんと糸を引いていた。
尤もこの検査は、俺とリナの顔が零距離まで接近するためかなり羞恥心を煽られるものがあり、リナは視覚情報を遮断して現実逃避に努めた。そして俺は目をつむった狼少女の___見ようによってはキス待ちに見えなくもないその唇をぷにぷに触診するという犯罪一歩手前なシチュエーションにどぎまぎしつつ検査を進めた。
手水の手助けといい、彼女に信頼されるのはいいが、この一週間でどれだけ寿命が縮まったことか。
ともあれ……リナが病から受けた爪痕は未だ残っており、足元も覚束ないようだが、少なくとも死相は完全に消えた。獣耳と尻尾の毛並みもいつもの艶を取り戻しつつある。
こうして、リナは不治の病を克服したのだった。
食欲も旺盛だし、あと二日も経てば体調も元通りになるだろう。差し当たっては繁殖期の訪れる前に貯蓄を増やすべきか。
「じゃ、ちょっと結界の外まで行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
「うゆ! ユイ、いってらーしゃい!」
顔のあちこちに緑色の粉をくっ付けた幼女に苦笑しながら、俺は腰に刀を吊り下げ、てくてく歩き出した。
途中、後ろの家からバタバタと騒がしい音が聞こえてきて何事かと振り返ったが、ノエリアがキビダンゴを喉に詰まらせてしまったのだろうか、リナが慌てた様子で水を汲みに行っていた。
安静にしろと言うとるに。
「ユイ、瓶の水も補給しといてー!」
「はいよー」
返事と一緒にひらひらと手を振って、森の中に脚を踏み入れた。
さて、この四日の間に全快したのはリナだけではない。
感染病の正体を『コリカラ病』だと突き止めた俺は、ノエリアに頼んでルシに打開策を聞いてもらった。返答はその日のうちに一枚の紙になって返ってきた。
治療法は経口輸液というもので、水一リットルに対してブドウ糖二十グラム、塩化ナトリウムと炭酸水素ナトリウムと塩化カリウムを各々ごく微量の割合で溶解したものを患者に与え、失われた水分と電解質を適切に補うというものだ。
俺の塩水補給法をさらに最適化した治療法みたいな感じか。
ブドウ糖や炭酸水素ナトリウムの精製方法の注釈まで懇切丁寧に書いてくれたのは、正直ありがたかった。
そんなのは村の医学書にも乗ってない未知の領域である。
ハチミツやら鉱床やらを必死に探して素材を析出した俺の苦労話はさておいて、この経口輸液は精密調整された治療法なだけあって劇的な効果をもたらしていた。
症状の軽い獣人なら、飲ませるだけで二日と経たず症状が収まるほどだ。いくらなんでも回復が早過ぎやしないか。
こんなことならやっぱり無理にでもルシを治療に当たらせた方が良かったんじゃ……と膝をつきかける俺。病の解析には魔法を使うだろうし、受け入れてもらえないかもしれないけども。
最善の選択肢を取り間違えた気がしてきた。
……うん、気を取り直そう。
俺は自分にできる最大限のことを尽くしてきたはずである。
ともあれ、そんな訳で俺は『三つの条件』を満たした。
提示された三つの条件をクリアした昨日、俺はラウルから村居住のお許しを頂いた。ルシもまもなく解放されるという話である。
リナは引き続き俺の家で暮らし、ノエリアは娘みたいな立ち位置で俺たちを繋ぎ、ルシはいつものように俺の隣でいそいそとお節介を焼く。そんな平和な生活が目に浮かぶ。
いやはや素晴らしい。
俺はそういう安穏とした暮らしを求めていたのだ。
無論、転生者の責務として世界の崩壊とやらも止めねばならんのだが……少しぐらい息を整えさせてくれてもいいじゃない?
「ふぁー……あふ」
あくびを噛み殺し、俺はのんびり水を運んでいく。
普通なら肩が外れそうな重量の水が、ドラム缶じみた桶に並々と汲まれている。今では『力』の出力調整にも手慣れたもので、これぐらいなら楽勝すぎてあくびが出るほどだ。
……などと余裕をかましていると足元の石ころが反撃に走りそうな気がしたので、俺はパチパチと瞬きして眠気を追い払い、
(あー、ノアにも水やんなきゃな……)
我が家の裏庭ですくすく成長中の芽に思考を傾ける。
いや……正確に言えば、今のアレを『芽』と呼ぶには少々語弊があるだろう。机にかじり付いて病気の解析を続けていた俺には理解すべくもない謎現象が発起したようで、現在あの芽は、墓標の刀を包むようにして純白の『繭』を形成中である。
今にも何か生まれてきそうな雰囲気だ。
世話していたのはノエリアだが、何が起こったのかと彼女に事情聴取してもにこにこしながら『えへ』と体を揺するばかり。
真相は闇の中……というより、神ならぬ幼女のみぞ知ると言ったところだろうか。
以前、夜中にリナが催したときに、ノエリアがノアの前でぴょんぴょこ飛んだり跳ねたりして謎の儀式を行っていたのだが、それがどこからどう見てもトトロな養育方法だったのだ。
正直言って不安を抱かずにはいられない。
次の日の朝、どこからか召喚された超巨大な御神木がログハウスを押し潰していたとかなったら……色々と困ってしまう。
「……ふぅ」
よたよたと歩いてログハウスの裏庭に到着し、瓶の中に水を足し終えてから俺は顔をしかめた。
リナやノエリア、他の獣人は概ねそんな感じだ。
しかし、問題はまだ残っていたりする。
「っ……とっと。あー……体がだるい」
ぐらりと傾いだ視界を立て直し切れずに膝をつく。
そう、何とも情けない話であるが、俺自身が支障を来たしているという非常に切実な問題だ。
実は昨日、頭痛がピークに達すると共に鼻血が出た。
咄嗟に窓から飛び出し、いつも水を汲んでいる川の近くで出血が止まるのを待って事なきを得たのだが、止まるまで時間が掛かった上に出血量が洒落にならないレベルだった。
おかげで今日はずっと貧血気味でふらふらする。今朝は久しぶりに狼少女と一緒に寝ることができたので、その際に充填しておいたもふもふエネルギーで何とか体力を賄っている状態なのだ。
リナとノエリアに悟られないよう振る舞うので精一杯だった。
顔も真っ青になってそうだが、今の所は火傷跡でカモフラージュされてギリギリバレずに済んでいる。
ルシには一発で見破られそうで怖いが……。
(俺が、倒れる訳にもいかないよなぁー)
やっとリナが回復した所だ。無闇に不安にさせることもない。
顔を上げると、ログハウスの窓越しにリナの顔が見えた。何やら楽しそうに頬を綻ばせ、ここからは見えない窓の下の方からにゅっと差し出されたキビダンゴを口でぱくりと食べる。
どうやらノエリアとあーん方式での食べさせ合いっこをしているらしい。俺も一緒にやりたいです。
でも食欲ないんだよなーとため息をついて空を見上げた時、
「……なんだあれ」
天へ天へ、もくもくと際限なく肥大化していく黒煙を見た。
ただの白い煙とは違う、有機物が炎上して大気に炭素を吐き出すときの漆黒のそれが……森の中心に根っこを張り、天空に向かってもこもこと枝葉を伸ばしている。
俺は、その場に立ち尽くしたまま目を細める。
風が吹き、微かな熱気と焦げ臭い匂いが頬を撫でていく。だが、運ばれてきたのは煙や熱だけではない。
___戦闘音。
しかし事態を把握し切る前に、密林の茂みを割って一人の獣人の子供が飛び出してきた。
「助けて、ください! 魔獣が、たく、た、たくさん……!」
(……うーむ)
猫耳を頭の上にちょこんと乗せた女の子は、今にも泣きそうな目を俺に向けて必死にそう叫んでいた。
どうやら問題は、俺だけに留まってはくれないらしい。
お読みくださり、ありがとうございます。




