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第13話 笑顔を失った少女




 幼い獣人の女の子が、父親の腕に抱かれた小さな赤ん坊のほっぺをツンツンつつきながら興味津々な声を出した。


「おとうさん、このコやわらかーい」


 とんがった狼の耳をぴくぴく動かして、少女は赤ん坊を見る。

 赤ん坊は『うゆ、ううぁ』と小さく唸って首を振った。


「こらリナ、やめなさい。ノエリアが嫌がってるだろ」


「うー? のえるあ?」


「ノエリアだ」


「の、の、のえりー。言いにくい。ノエルでいいでしょ?」


「………好きにしろ」


「えへ」


 苦笑しながら赤ん坊をあやす父親を尻目に、狼少女はにこにこと笑いながらまたほっぺをつつき始めた。


「ノエルー」


「きゃーあうあう、うゆー」


 赤ん坊は少女の指を掴んで、くすぐったそうに笑った。



 ___人里離れた森奥のアルトゥンハ村に、一人の人間の女性が訪れたのは七年前のことだった。

 赤ん坊を抱えたその女はひどく衰弱し切っていて、まもなく死ぬものと思われた。当時人間に対して憎悪しか抱いていなかった獣人が彼女に救いの手を差し伸べるわけもない。

 ところが、その例外となる男が一人いたのだ。獣人の中で唯一、人間族を妻に娶った男。

 ラウル・フォシェルは女を治療した。


 女が全快したのち、ラウルはこの村へ来た目的を聞いた。

 曰く、この赤ん坊を預かってほしい。代わりに、アルトゥンハ村を守る結界を張ってやると。

 赤ん坊はともかく、この『結界』とやらは獣人族にとって非常に魅力的に映った。いくら獣人が戦闘に優れた種族と言っても限度がある。アルファブラ大森林に村を築いてから、獣人の数は減る一方だった___当然だ、こんな魔獣だらけの森の中に村を据えれば、命の犠牲は免れないに決まっている。

 獣人たちは取引に応じ、赤ん坊を核とした『選別結界』が村周辺に展開した。赤ん坊の持つ魔力を超えるか、結界が選別できぬほどの極小な魔力を持つ者を除き、無属性魔力を宿す獣人族以外に村へ入れなくなった。ただ、赤ん坊を殺せば結界は消える。

 これは一種の賭けでもあった。

 獣人にとっても、恐らく人間の女にとっても。


 あの女の言っていたことは全て本当だった。

 結界は、魔獣はおろか時々襲撃してくる人間族すら寄せ付けず、アルトゥンハ村には平穏が訪れた。

 このとき、獣人たちは少しだけ人間族への見方を改めた。

 人間には話の分かるやつもいるのだと。


 そして、三年の年月が流れた。



 やや成長し、手足がすらりと伸びた狼少女が森を歩いていた。


「リナ、待て! どこに行くつもりだ」


 早足にずんずん木々の間を進んでいく少女を、父が引き止めようと追いかけていた。だが少女はますます足を早める。

 やがて結界の縁まで来た二人は、一本の樹を挟んで対峙した。

 父に背を向けたまま、娘は呟くように言う。


「……今日、村の月狩りに参加したの」


「なっ……」


 月狩り。

 村で周期的に行われている魔獣狩りや山菜採りのことだ。

 九歳を過ぎた獣人は皆参加することになっているが、


「お父さんが今まで、なぜ私を月狩りに参加させようとしなかったのかがよく分かったわ……忌み子だものね、私」


「っ……違う! リナ、お前は、戦わなくていいんだ」


 少女の肩に、ぐっと力が篭ったように見えた。


「……舐めないでよ」


「な、に?」


「そうやって、私を村の人から隠そうとしてるんでしょ?」


 意表を突く言葉に、男は顔を殴られたような衝撃を受けた。

 絶句した父に向かって、娘は吐き捨てるように言う。


「お父さんなんて嫌いよ。大っ嫌い……私だって、守られなくても一人で生きていけるんだからッ!」


「リナ___ダメだ、行くんじゃない!」


 結界の外へ飛び出そうとする少女へ、父は手を伸ばしていた。

 しかし、胸の内側で渦巻いていた微かな逡巡と動揺が、その腕の動きを妨げていた。宝物は指先から零れ落ちた。


「…………俺は……どうすりゃ、いいんだよ……ちくしょう」


 力なく地に膝をついた男の声は、迷子になった子供のように途方に暮れていた。

 この時、彼女を引き止めることができていれば。

 或いは違う結末もありえたのかもしれない。



 ___この日、単独で狩りに出掛けたリナ・フォシェルは、父親の家に戻ってくることはなかった。

 リナが言う『忌み子であるから隠していた』……これはある意味で正しく、ある意味で誤りでもあった。選別結界の一件で多少偏見が和らごうとも、人間の血が混じった獣人がアルトゥンハ村で歓待されようもないのは自明の理であって、それを知っていたからこそラウルはできるだけリナを村の目に晒さぬようにしてきた。

 彼女の心に傷ができないように。

 反抗期ということもあってか、リナはこれを『忌み子の子を持つという事実を隠そうとしている』と考えたのだ。

 忌み子というのは、人間と獣人の血をひく子のことだが、彼らは実質上この世界で最も厄介な立場にいる。

 人間族から差別され、獣人族から疎まれる存在。

 そして、ラウルは村でも上位実力者として知られている。人間を妻に持ちながらどこか人を惹きつけるその気質に、彼を慕っている獣人も少なくはない。

 だからこそ、忌み子の娘など居ないことにした方が、彼にとって好都合なのではないか___リナはそう考えてしまったのだ。

 

 だが、やはり彼女はまだ子供であった。

 右も左も分からない森をたった一人で進むうち、心寂しくなってしまったのもそのせいだろう。伊達にラウルから狩りの術を学んだわけではなく、道を見失うことはなかったが、孤独が生み出す不安と焦燥は十歳の子供に耐え得るものではなかった。

 家に帰るか帰らないか、意地と寂寥の狭間で立ち止まっていた時___リナは、ふと子供の泣き声を耳にした。

 普通に考えておかしな話だった。

 魔獣ひしめく密林の奥で、子供の泣き声。怪しみながらも辿ってみたその先には、リナより幼い五歳ほどの女の子がいた。

 人間ではなく……そして獣人でもなかった。

 その女の子は、忌み子の姿をしていた。


 リナはその子を保護し、アルトゥンハ村に連れて帰った。

 心細い感情は跡形もなく消失し、代わりに心を満たしていたのは憤怒だった。父親への怒りだ。

 娘のことは無駄に守ろうとするくせに、こんな小さな子は守らずに放っておくのか。そんなのはただの偽善者だ。あいつが守らないのなら、私が守る___外道に身を堕としはしない。

 そして明くる朝、夜光雲の漂う黎明の空。


 ……村は、業火に包まれていた。



 片耳から血を流す熊獣人が、狼獣人の男を前に激昂していた。


「ラウルゥゥッ!!!」


 堅く握り締められた巨大な拳が唸り、ラウルの顔面を重い打撃音と共に撃ち抜く。屈強な脚が数センチ地面にめり込み、全ての衝撃がラウルの体躯を突き抜けた。

 微動だにしない彼に、熊獣人は牙を剥き出す。


「あの奴隷商人たちに、結界の抜け道を漏らしたのは貴様の娘だ。偽装魔法の見破り方すら教えなかったのかラウル!」


 アウローラは、俯いたラウルの胸倉を掴み上げる。


「村はあいつらの魔法で徹底的に蹂躙された。何人死んだと思う? 攫われた獣人も大勢いる。あんたの娘のせいだぞ……あの、忌み子のせいで、あたしの、息子もッ!!」


 再び拳が振るわれた。ラウルは防ごうともしない。

 凄絶な殴打に頬骨が粉砕され、拳からも血が噴き出した。しかしアウローラは拳を振るうことをやめなかった。何度も何度も何度も何度も、狼獣人の顔に叩き込み続ける。

 ラウルは身動ぎ一つせず、ただ根が張ったように脚だけは地面に縫い付けて、アウローラの拳を耐えていた。


「貴様の娘も殺してやる! だから、そこをどけ、ラウルッ!」


 発狂せんばかりに怒り猛るアウローラ、さらにその後ろで殺気の籠った視線を送ってくる何人もの獣人を前にして、それでも狼獣人はその場から退こうとはしない。

 彼の背後には、茫然自失の娘がぺたりと座り込んでいた。


「違う……私は…………そんな、つもりじゃ」


 黒い炭が転がるだけの焼け跡となった村を虚ろな瞳で見渡して、リナは掠れた声で呟いていた。



 ___選別結界にはたった一つだけ、抜け道があった。

 リナのように、獣人と人間それぞれの血を引く者は、親の魔力も同時に引き継いでいく。その身一つに『無属性』と『属性』という相反した魔力を内包するのである。

 そして、選別結界は『無属性』以外の魔力を無条件で弾き飛ばす効力を擁している。

 つまり忌み子は、村に出入りすることができないのだ。

 人間の血が通っていても、獣人族の一人なのだから見捨てることはできない。そうして獣人たちが作ったのが『抜け道』、属性魔力を持つ者でも通れる唯一の穴だった。


 選別結界が張られ、人間がアルトゥンハ村から獣人を攫うことはほぼ不可能になっていた。

 だが、何かしらの障害を乗り越える際の機転や頭の回転の速さ、狡猾さにおいては人間族の右に出るものはない。偽装魔法で忌み子の姿をとった人間に、幼いリナはまんまと騙されたのだ。

 抜け道を通って侵入した彼ら奴隷商人とビルダーたちは、夜明けの前に奇襲を仕掛けて村を壊滅させた。

 この際に、結界を完全に破壊してしまおうとした幾人かの手合がノエリアを殺そうとしたのだが、彼女は泣き喚くと同時に正体不明の魔法を発動___彼女を中心に膨れ上がったドーム状の何かが村に広がる業火を消し、襲撃者たちをまとめて外に吹き飛ばした。

 残ったわずかな獣人たちは村の復興に尽力し、人間族への妄執と憎悪にまたも身を埋もれさせていくことになった。


 彼らの怒りの矛先は、まずリナへ向いた。

 獣人族を裏切った彼女への制裁。それは消えることのない罪咎の烙印として、父によって彼女の背に刻み付けられた。

 泣き叫ぶ娘を無理やり力で押さえ付けて、ラウルは灼熱の焼き鏝をその背中に押し付けたのだ。

 命より大切なものは何か……そう問われれば、ラウルは真っ先に娘だと答えたろう。しかし、その愛は諸刃の剣だった。もし自分がリナを失えば絶望の底に突き落とされる。

 そう悟らざるを得ないほどに、息子を失ったアウローラの叫びは深くラウルを刺していた。

 父親として、獣人として、娘に対してのけじめをつけるために、彼は焼き鏝の握ることを決意したのだ。それが、結果的に娘の心を砕くことになるとは、この時のラウルには知る由もなかった。


 死者五十二名、行方不明者百三十名……この大罪を犯したリナはしかし、最後まで自分の正当性を曲げることはなかった。

 リナはいつも父親の背中を見ながら育ってきた。常に村のことを考え、困った者がいれば当然のように助け、魔獣との戦いで仲間を庇う度に傷が増えていくその背中を。

 その姿は確かに、リナの心の『芯』として確立していたのだ。

 だからこそ彼女は言った。

 私は間違ってない。結果的に最悪の結末に繋がってしまったが、それは助けた人が悪かっただけなのだと。あえて言うなら、それは彼女が彼女たり得るための最後の抵抗だった。

 父親に焼き鏝を当てられた瞬間___それら全てが、リナの心を支えていた『芯』が、決壊した。


 それから五年間。

 彼女はずっと一人で罪と罰を背負い生きてきた。

 


 ***



「___……こんなところか。結局、俺は何もできなかった」


 長い話の最後にそう締め括ったラウルは、疲れたようにため息をついて項垂れた。いつの間にか周りには獣人が集まっていた。

 

「これで分かっただろ。俺とリナは、もう戻れねえんだよ」


 俺は頭の中で内容を反芻しつつ、ポリポリと頬を掻いた。

 ……こんな時に『事実は小説よりも奇なり』などということわざを思い浮かべる俺は、やっぱりちょっとズレているのだろうか。

 いや、恐らく、ズレているわけではない。

 今の話と俺が過ごしてきた日常とがあまりにかけ離れているせいで、事実を上手く把握し切れずにいるのだと思う。俺にとって今の話は『奇なり』に過ぎず___リナの負った心の傷がどれほど辛いものであるのかも、分かってあげることができない。

 この後に及んで何の役に立たない能天気な自分の頭に、これほど苛立ったのは初めてかもしれない。


(いや……)


 たとえ獣人たちの無念や、義憤や、痛歎に共感を得られずとも、ラウルに言いたいことの一つや二つは俺にだってある。

 ___大切な人と引き離されたことのある、俺だからこそ。

 一度死んだことのある人だからこそ、言えることがある。


「んーとな。前、とある物語で読んだことがある言葉なんだが」


「……あん?」


「親の言い分が通るのは、子が生きてる間だけだ」


 天使のように未来を見通す力のない人間は、最終的に導き出した己の道を信じて突き進むしかない。

 どんな建前を並べても結局は、自分がどんな選択をするか、後悔しない道を取れるかどうかだけなのだ。そして娘が死にかけている今、父親が取るべき道は、立ち止まることではないはずである。

 ラウルは、俺の言葉を噛み締めるように瞑目する。


「お前さんは、リナを助けてくれねえのか」


「助けるよ。けどそれとこれとは話が別だ。ラウル、お前はリナの救うために何ができる? それを考えろって___」


「___できねぇんだよ! 俺は、何もッ!!」


 かっと目を開き、ラウルは下から掬い上げるように拳を放つ。

 顎を引いて難なく拳を回避するが、すかさず放たれた回し蹴りが俺の首目掛けて鋭い弧を描く。

 その性急すぎる戦い方に違和感を覚えつつ、俺はあえて前へ体を踏み込み、最高速に達する前の蹴りを腹筋で受け止めた。

 正直めちゃくちゃ痛いが、これで脚を掴んだ。

 俺はそのまま体を時計回りに回転させ、ラウルの軸足に足払いを仕掛ける。片脚を捕まえられた状態の彼が避けられるはずもなく、砂埃の尾を引いた俺の踵がラウルの脹脛を痛打する。

 空中でひっくり返った狼獣人の胴にとどめの手刀を撃ち込み地面に叩き付けると、ラウルは苦悶の表情で鳩尾を抑えた。


「ぐっ、は……」


「……」


 這い蹲る不恰好な父親を、俺は黙って見下ろす。

 父親は、地面に伏せたまま唸るような呼吸を数度繰り返し、目を閉じ、開けて、曇り始めた空にギロリと鋭い視線を送る。


「………俺、は。リナを、守れなかった」


 冷たく嗄れた声が、食い縛った狼の牙の隙間から漏れた。

 恐ろしいほどに静まり返ったアルトゥンハ村に、その声は不思議なほど遠くまで届いていた。


「守るどころか、傷付けちまった。あの子の心を考えたつもりで、全然分かってなかった」


「……」


「助けようとする度、また傷付けちまうんじゃねえかって思うようになって、何もできなくなっちまった。そんで気付けば、取り返しのつかないとこまで……あいつは離れちまってた」


「……」


「そんな俺だからよぉ。こんなことしかできねえんだよ」


 そう言うと、ラウルは体を起こし、その場で正座して、その額を地面に叩きつけた。

 土でまみれた無様な格好で、大勢の獣人に囲まれた中で。

 父親は俺に向かって、頭を下げていた。


「リナを……救ってくれ」


 己の無力さを呪うかのように、彼はまた顔面を大地に打ち据え、擦り付けて、喉から絞り出すような掠れた声を出した。

 彼の目尻からこぼれ落ちた何かが、地面に黒いシミを作った。


「頼む」


 俺は無言のまま踵を返していた。

 それは正直、俺の期待していた言葉ではなかった。


 だが、俺が___応えるべき言葉だった。



お読みくださり、ありがとうございました。




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