はじめてのゲルマーグ語
【王国暦122年3月27日 16:50】
「なに、それでアンタ、便所を作ってたわけ?」
「正確にはその下の貯水槽ね。上屋? は図面を渡して、親方たちに任せることになったよ」
レックスを連れたドロシーが、便所……じゃない、長屋の建設現場に戻ってきた。
なお、便所の独立に伴い、長屋の方には簡易厨房が設けられることになった。
「まあ……待遇の改善になるんならいいわ。行きましょう」
ドロシーはシモの話を回避した。
私は便所に関しては文化的に興味があるなぁ。一年間排便我慢大会とかのマンガを思い出すよ。確かヒロインの名前が……。
「うん。ここではちょっとね。えと、指輪は向こうで作るよ」
「はい!」
レックスは私を見て―――あれ、背が高くなってる?―――から見上げてこない―――頷いた。男の子って、日々男の子になっていくんだなぁ……。
「何も用意してこなかったけど、よかったの?」
「教材は向こうで作りながら説明する……ことになると思う」
ゲルマーグ語についてあんまり知らないんだよね。だからコミュニケーションの一環として言葉の交流から始めてみようかなと。今さら、そんな低レベルから始めるなんて、ドロシーには言えないじゃない?
「――『風走』」
ドロシーとレックスにも魔法を付与して、移動時間を短縮。
「なにこれ!」
「姉さん滑ります!」
「少し前傾して、そのまま足を滑らせる感じで」
「滑るわ!」
「姉さん!」
「滑っていいんだよー」
叫声を背後に浴びながら、収容所へ向かう。
【王国暦122年3月27日 17:05】
「着いた着いた」
「着いた……」
「はぁはぁ」
ドロシーは途中からコツを掴んだみたいで、スムーズに滑っていた。レックスは三回くらい転んで、息を荒くしている。レックスはこういうお約束を外さないからいいよね。
「なに、慣れよ、慣れ」
「アンタね……」
キッと睨むドロシーが可愛い。もっと睨んでもいいんですよ?
ささっ、と『守護の指輪』を作ってレックスに渡して、登録を済ませる。
「まもってって言ってみて?」
「まもって」
「はい、これでいいよ」
「毎回思うけど、アンタ、インチキなくらい手早く作るわね」
視線が痛いけど無視。
「魔術師殿……」
「あ、グスタフさん。また来ました」
門前で待っていたと思われるグスタフに声を掛けられる。
「ああ、はい、どうぞ」
戦争犯罪者を一時的に収容しているだけの施設に、子供三人をホイホイ入れてしまうという、危機管理上の問題行動を憂慮しているのか、グスタフはあまり歓迎の表情ではない。だけど捕虜へのグリテン語の学習は、今後の収容所運営の助けにもなる。その端緒でもあるのだから、目を瞑っておいてほしいところ。
既に奴隷契約をされた面々は、収容所四号棟に集まっていた。大幅に人数が減ってしまったので、少しガラーンとした印象がある。
チラリと雑居房を見ると、中の便所が気になる。各部屋の便所は下に空いた穴が横に繋がっていて、定期的に水を流して便を流している(タイミングが悪いと、している最中に隣の人の便が流れてくる)。すぐ近くに海があるけど、肥料にするために淡水しか流せないのは勿体ない感じもする。でも、カボチャはあんまり窒素肥料を与えない方がいいって話もあるからなぁ。収容所に於いて、肥料としての便所のニーズはどうなんだろうね?
おっと、便所考察はちょっとストップしておこう。
「えっとですね。会話が出来た方が双方に利点があるだろう、と思いまして。皆さんにグリテン語を教えます。それから、この子にゲルマーグ語を教えて下さい」
ズイ、とレックスを差し出す。
「教える、ってもなぁ……」
奴隷の一人が呟くように言った。
「良い機会だから覚えちゃいましょう。将来、奴隷から解放されたり、自分で買い戻したり、なんてことがあり得るかもしれませんよ? その時に言葉は武器になります。損はないと思いますけどね?」
ニッコリ笑って強制する。
「あ、あの、レックスです。皆さん、どうぞよろしく」
小さく、聞き取りづらい声でレックスが挨拶をした。
「…………」
レックスから見れば、(たぶん記憶にはないと思うけど)父親と言ってもおかしくない年齢の男たちを奴隷として扱わなければならない。これはプレッシャーだろう。
奴隷たちは、レックスの震える様を見て、侮る者と、故郷に残してきた息子を思い出したのか、慈愛の目で見る者、二色に分かれた。前者は若い連中、後者は少し年長。わかりやすいな。
「えと、このレックスはいずれ、貴方たちの主人になるかもしれません。でも、見た通りに子供なので、奴隷らしく扱ってくれないかもしれません。それは多分、立場上喜ばしいことではないでしょう。お互いの立ち位置に慣れていないのです。僅かにでも幸せに生きたいなら、このレックスに盲従し、人生の先輩として助言をし、最大限の敬愛を贈るといいでしょう。何故なら―――――」
何言ってんだ、このドワーフのくそ魔女め、幸せだって? ふざけんなこのチンチクリンのポワトリンが。
そんな心の声が顔に大きく書いてある奴隷たちを睥睨してから、一度レックスに視線を移し、再度奴隷たちに視線を戻す。
「―――何故なら、このレックスが、グリテン王国で一番の商会を差配することになるかもしれないからです。その商会の奴隷ともなれば…………」
私の言葉は、主人紋の影響もあって、奴隷たちは見過ごすことができない。
ゴクリ、と唾を飲む音が聞こえる。
「もしかしたら、不可能が可能になるかもしれない」
えっ? と奴隷たちは、一瞬、言葉の意味を考える。
本国に残してきた家族と、もう会うことはない。グリテンに奴隷として生活の基盤を整えてから呼び寄せるのも無理だ。プロセアでは住民は領主の所有物だから。
しかし、その不可能が、可能になるかもしれない|と?
「だから、良い子ちゃんでいてくださいね。悪い子には何も残りません」
ざわ……と奴隷たちに動揺が広がる。
「じゃあ、始めましょうか。まずはアルファベットから教えて下さい」
と、ここまでゲルマーグ語を意識して喋った。
奴隷の一人が進み出てきて、説明を始めた。トーマス商店所有奴隷・元プロセア準男爵の四男、フェルテン・ポルツ。奴隷に家名があるのはおかしいと言えばおかしいんだけど、出自を示すものでもあるので、そのままみたいだ。ああ、この奴隷、兄弟で買った、兄の方だ。ちなみに弟はウルリヒっていう。
「紙に書いてみて下さいな」
「わかった。……わかりました」
フェルテンは渡した紙にも軽く驚きつつ、アルファベットを書いていった。
「ふむふむ」
書けないけど、読める。という状況が喜ばしいのかどうか、評価が微妙なところだけど、グリテン語には無い要素として、大母音がある。これが六種類増えるので、アルファベットは全部で三十六文字。大母音があると、綴りと発音に乖離が増える。二重母音になるから。
「姉さん、これ、難しそうです」
泣きそうな顔のレックスが愛らしい。
「最初は文字だけ覚えちゃうといいね。その後、物の単語を一つ一つ覚えていこう?」
「はい……」
いいね、レックス、その表情。文法はこの際どうでもいい。聞いた感じでは、文法そのものはグリテン語の親戚みたいなものだし。私は言語学者じゃないけど、この二つの言語は根っ子が近いような気がする。
だからって習得が容易だとかじゃないと思うけどね!
【王国暦122年3月27日 18:28】
「それじゃ、筆記用具と紙束は置いておくので。一人最低五枚はアルファベットを繰り返し書いて覚えること。三日後にまた来ます。レックスはその間にも来るかも知れませんので、アルファベット以外の―――簡単な単語を教え合って下さい」
バサッと教会印の紙を四号棟の端に置く。筆記用具はインクとペン。普通、こういうのって、地面に書いたり、黒板みたいのでやるんだよね。作るヒマがなかったんだよね。学校が立ち上がる前に作っておきたいなぁ。
グスタフ所長に挨拶をして、収容所を出る。
「私たちは一度お店に戻るわ。閉店作業しないと。さっきの付与魔法、かけてくれる?」
「うん。―――『風走』―――『風走』。私から一定距離離れたら、付与は切れるからね」
「わかったわ。あと、サリーの守護の指輪もお願いね。心配なの」
「あ、うん、夕食後にやるよ。お婆ちゃんの家にサリーも連れてきてくれる?」
「はい、姉さん」
「わかったわ」
二人の了解を得て、滑るように走るトーマス商店従業員が三人。
「慣れると面白いわね!」
「はい、ドロシー姉さん!」
「ははははは」
夕陽を背中に、走り抜ける黒い三連星みたいだなぁ。
【王国暦122年3月27日 18:40】
「そう、遅かったわね。お帰りなさい」
「ただいまです。ドロシーたちと途中まで一緒で……。お店を閉めてから、レックスとサリーを連れてくるそうです」
「そう。わかったわ。大丈夫、そんなこともあろうかと準備しておいたわ」
フフフフ、と不敵に笑うアーサお婆ちゃんは、色んな表情を見せてくれるからキュートだなぁ、と思う。
「おー、おかえり、嬢ちゃん」
カレンが台所から顔を出す。カレンとシェミーの護衛任務も、今後はどうなるんだろうか。ダグラス宰相絡みの部隊が実質死んでいる現状、レックスとサリーにまで防御グッズを提供することで、護衛の重要度はさらに下がる。
その辺りをカレンに訊いてみると、
「あー、フェイ支部長からはさ、もう一月ぐらいを目処に見てくれないか、って言われてるさ。あたしらも自由に動けるようになるし」
「そう、もちろん、ウチで暮らすわよね?」
「もちろんさ!」
ニカッとカレンがとても良い笑顔を向けたので、アーサお婆ちゃんもウィンクを返した。
【王国暦122年3月27日 20:59】
何でも、ドロシーが、春のお野菜を食べたい! とリクエストしていたようで、夕食はポトフだった。
ベーコンじゃなくて、単なる塩漬け肉、しかも防衛戦後に塩漬けを始めた肉だったから漬かりは浅かったけれど、それでも十分に旨みは出ていて、ネギに染みこんだスープが絶品だった。究極の素朴とはこのことか、と思い知った。
おイモは貯蔵品だったけど、十分に春の味と言えた。
夕食後、いつものように地下工房に集まる面々に多少辟易しながらも、水晶を削り出していく。
一辺三センチほどの板状にした後、周囲を丸く削る。
「どうなってるの? アンタの指って……」
ドロシーが呆れ顔で見ている。サリーは真剣な顔で見ている。
「サリー、一緒にやってごらん?」
私が板を渡すと、サリーはキラーンと目を光らせて受け取る。やってみたかったんだね。
「土系魔法でね、『その形に切り落とす』ことを想像しながら、指先に魔力を集中させて……」
「はい………」
土系魔法は最も習得が難しいらしい。火や水は身近にあって想像しやすい。風もまあ、想像しやすい。だけど、土を想像する、っていうのは難しいみたい。
「土にも色々な―――硬いのや柔らかいのや、泥みたいのや砂みたいのや――ものがあるよね。それぞれの硬さを想像してみて?」
「色々な土……」
サリーはブツブツ言いながら、私の真似をして水晶の板を削りだしていく。
「むう……」
「そう……」
「…………」
皆の視線がサリーに集中する。
うん。
サリー、もしかして君は……ぶきっちょで、かつ美的センスが皆無なのでは……。
思わぬところで弱点を発見したということか。
指定した形は丸だったのだけど、サリーが削った水晶板は、ところどころがボコボコしていて尖っている。
「いやしかし、これはこれで……芸術性が高い気がしなくもない……。ん、ちょ、ちょっとサリー、それ貸して。閃いた」
黄昏れているサリーから奪うように水晶板を引き取ると、細部を修正していく。七つの頂点を持つ図形……良く言えば七芒星になった(悪く言うと足の多いヒトデ)。
いやあ、別に七芒星が特別な意味を持っているってわけじゃないんだけど……。フォローはしておこう。
「えと。この七つの頂点は、四属性と光と闇、それに空間魔法……を表しているかも。魔術師としては七つの要素を身近に感じられる七芒星っていうのは良い事かもしれないね!」
とっさに思いついた苦しいフォローだったけれど、驚いたことに全員が目を丸くして、
「流石サリー!」
と連呼されて、サリーは少し戸惑っていたけれど、しばらくすると一転ドヤ顔になった。嘘も方便の実例を見た。
ふう。
私が元々削っていた方は中央をくり抜いてドーナツ型に。七芒星の方も中央に穴を空けて、紐を通せるようにした。
各々に『障壁』の極小魔法陣を彫り上げると完成。
「いつも指輪だったから、今回はペンダントにしてみました。七芒星の方はサリーが持つことにしようか。魔術師っぽいし」
「はい! すごくうれしい!」
サリーが満面の笑みを見せた。
「あ―――」
その反面、レックスがあからさまに不満そうな顔をした。君にはさっき指輪をあげたじゃろ。まあ、途中までサリーが作っていた物だから、欲しいんだろうけどさ。
レックスは口を開けたまま呆けている。あとでこっちもフォローしておくかなぁ。サリー謹製の何かならいいんだよね。
レックスの方はサリーに恋愛感情があるのは確かなんだけど、サリーの方は恋愛方面には茫洋としていて興味を示していない感じ。まあ、レックスだって、女性の好みは変わっていくだろうし、今のウチに苦い経験をさせておいてもいいか。
なんか将来のプレイボーイ(死語)を産み出してしまうかもしれないけど、それは私の責任じゃない……と思う……。
革紐を通してサリーに渡す。
「普段は服の下に隠していればいいよ。美術品としても価値がありそうだから、指輪よりも財産にはなるよね」
「え、貰っていいんですか? 貸すとかじゃなくて?」
「あげます。大事にして下さい」
可愛い妹ですもの。来年辺りには背も抜かれそうだけどね。
――――サリーにも弱点があるか。私よりもずっと人間らしくていいじゃない?




