7 メールナード侯爵令嬢
メールナード侯爵家の大夜会。
『呼ばれぬ者は貴族にあらず』と言われる程の出席者の多さを誇る、王都でも一、二の規模の夜会だ。
現侯爵は貴族院の議長を務める。その実妹のミレルヴァはアストーン国王の第二王妃であり、第二王子の母でもある。
アストーンには第一王妃と第二王妃が存在する。しかし第一王子の母である第一王妃は既に亡くなっており、彼女が隣国から輿入れした王女だった為にその名が残っているだけで、実質的に王妃といえばミレルヴァを差す。
貴族院議長が主催し、王妃の生家で行われる夜会は豪華絢爛。ここで披露された様式こそがそのシーズンの最先端になると位置づけられていた。後ろ盾のない第一王子を退け第二王子を王位に就けようとするあからさまな手法に、陰で眉を顰める者はいても表立っては皆恭順を示していた。
今回は特に人が多い。
これで配置が一階だったなら、人いきれに気分が悪くなりそうだったとミングは胸をなでおろした。今日の警備に駆り出された彼は、一階の警備ではなく二階の巡回に配置された事に心底感謝していた。一階では酔っ払ってメイドや令嬢を薄暗い部屋に連れ込もうとする貴族を慇懃に足止めせねばならないし、常に注がれる視線に気を抜かずに立ち尽くさねばならない。
しかしこの二階の巡回は、時々休憩室の場所を間違えて階段を上って来てしまった貴族達をやんわり追い返したりする程度で、のんびりしたものだ。常に動いているのでこっそり壁際で休憩してもばれない。そもそも腰に下げた剣の出番など今まで一度としてないのだ。
ミングが角を曲がると、長い廊下の中程、ちょうど三階への上り口の陰で正装した男を発見した。
身体の線に沿った正装は決して安くはない仕立てのようだが、彼の警戒度は二段階ほど跳ね上がった。こちらに背を向けた上半身の筋肉の付き方から、鍛えている人間だと分かる。
足早に近づこうと歩を進め、念のために鞘に手を添えた所で男が一人ではないと気付く。階段の陰の部分になって見えなかったが、男は女を囲うようにして壁際に追い詰めていた。
砂色の髪の男は、頬が触れてしまいそうなほど女に近づき、その耳元で何事かを囁いているようだ。
女の方は陰になって顔を伺う事は出来ないが、男の胸元に手を置き白い肌を首筋まで赤く染めている。飴色の髪を複雑怪奇に編み上げ、女の服に詳しくはない彼でも分かる、丁寧に誂えられたドレスを着ている。そして添えられた白い生花。明らかに貴族令嬢だ。
ふと砂色の髪の男が顔を上げ、こちらを見てにっこりと笑った。明らかに令嬢に対してこれから良からぬ事をしようと企んでいる様な笑みだ。それを勤務中のミングに見せつけている。
令嬢にまた顔を近づけ何事かを告げると、彼女は焦ったように暴れ、逃れられないと観念したのか、今度は男の胸元に顔を埋めてしまった。耳まで真っ赤に染まり、羞恥に震えているようだ。砂色の髪の男はその様子に満足したのか、抱きしめるように腰に手を回し、思わずにやけてしまう、という締まらない顔をしている。
当初の警戒度など霧散してゆっくりと歩を進めながら、男をじっくりと観察する。歳の頃は自分と変わらなそうだから、三十手前くらいだろうか。姿勢の良い立ち姿と体重のかけ方から、やはり軍経験者だと推測する。現役ならばこんな所に客として呼ばれる筈がない。貴族の次男あたりが箔付けの為に士官に所属でもして、帰って来たという所だろう。国境以外の内地勤務ではよくある事だ。ここ数十年幸いな事に戦争は起きていないから、貴族たちは気楽なものだ。
「申し訳ありませんが、二階は立ち入りをお断りしております。お探しの部屋がございましたら、下階の者に取り次ぎますが」
「いや必要ない。もっと落ち着ける場所に行こうか、愛しい人」
「……そちらのご令嬢は気分が優れないようでしたら、私がご案内しますが」
自分とそう歳の変わらない男が、若い令嬢を誑かしていると思うと面白くなく、ついつい口を挟む。
「大丈夫だ。少し風にでも当たりに行こうか……ね?」
「っ……はい、愛しいあなた」
令嬢はやっとという風に言葉を発しながら、男に縋りつくようにして手を回している。
男はまるで我がものだと主張するように、そんな彼女の腰を引き寄せ、二人は共に階段を下りて行った。
その姿を砂を吐く気分で見送り、オイシイ思いしやがって、どうせこの後休憩室にでもしけ込むんだろう! と、心の中で男の方に罵倒を浴びせる。今日の仕事が終わったら、行きつけの酒場の看板娘をからかって、独り身の寂しさを紛わそう。着飾りお高くとまった貴族の娘なんかより、ずっとあの子の方が魅力的だ。
酒場のつまみと酒、看板娘の屈託ない笑顔を思い出しながら巡回に戻ったミングは、当初砂色の髪の男を警戒した事も、令嬢が結局一度もその顔を晒していないという事も、頭からすっかり吹き飛んでしまっていた。
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「ち、近すぎますっ」
「もう少し。あの男が二階の階段の上からまだ見てる」
本当にっ!? と多少疑問に思いながらも、アリシアはランクスにしがみ付くようにして危機からの脱出を図っていた。
今回は絶対に失敗出来ない。
そんな覚悟でアリシアは今回のメールナード侯爵家への鍵開けに挑んだ。
当初一人だけで行う予定でハルフェイノスも了承していたのに、途中でランクスから横槍が入った。一人だけでは直接的な暴力には対応できないかもしれないし、自分も同行するべきだと。
今迄では考えられない事に、ハルフェイノスも同行をあっさりと許可した。
そしてアリシア自身も心強いと思ってしまったのだ。
これまで一人で出来ていた事を、二人でなければ出来ないなんて、理不尽だと過去のアリシアならば落ち込んでいるはずなのに。あのメッセージカードを受け取って、『相棒』なんて呼ばれた日から、彼女の心はふわふわと舞い上がって一向に降りてこない。
そう呼ばれると大抵の事を許してしまう。ランクスも分かっているのかいないのか、ここぞと言う要所で使ってくるから、悔しいのに、それでもついつい丸め込まれてしまうのだ。
「もう良いのではないでしょうか!」
ごく小さい声ながら、語気を強めてアリシアは主張してみた。廊下を中ほどまで進み、階段上から自分達の姿は見えはしない。
先程の「愛しの~」辺りの応酬で、既に精神力は限界値突破だ。その上ずっと腰に添えられた手が、歩く度に自然に擦れて、撫でられているようでむずむずするのだ。
「ははっ、耳の先まで真っ赤だな。じゃあせいの、で一緒に離そうか」
そこまで言われて、自身もランクスにしがみ付いたままだという事に気付いた。
掛け声を待たずに大慌てで腕を外したアリシアに、ランクスが苦笑いする。
「二人の方が応用が利く証明になって良かった」
「うう……今回は助かりました」
メールナード侯爵家の一室から、目的の品を手に入れるまでは至極順調に運んでいた。
部屋から引き揚げたところで警備の男と鉢合わせてしまったのだ。隠れるにも時間がなく、ランクスの提案で一芝居打つことになった。
曰く、警備の男を最もイラつかせてやる気を下げる得策らしい。
作戦は見事成功したものの、あまりの手慣れた仕草に実はリングネルと同じ種類の人間なのではと、面白くない。
そんなアリシアのじとっとした視線に気づいたのか、ランクスが咳払いを一つする。
「別にああいう場面に俺自身が慣れてる訳じゃない。身近でよく見かけたから覚えていただけというか。その場合俺はあの警備側だった訳だが」
軍に配置されて間もなくは、下働きの様に色々な事をさせられたらしい。それこそどんな癒着があったのか、地方領主の開いたパーティーの警備なんてものもあったというのだから、兵士も中々に大変だ。ランクスは、兵士といっても王都のエリートとは扱いが違うから、などと笑っている。
つられてアリシアが微笑んだ時、廊下の先から甲高い女性の声が聞こえた。
「まあっ! アリシア様。一体どちらにいらっしゃるのかと思っておりましたわ」
前門の虎、後門の狼とはこの事か。でも彼女はよく喋るためこっそり陰で『小鳥』と呼ばれている。じゃあ前門の小鳥だろうなどと思い付き、アリシアは笑いを噛み殺した。
「お招きありがとうございます、ステファニア様」
「私はあなたを呼ぶ事には反対したのです。その理由は勿論ご存じでしょ? でもお父様がフェンクローク家を名簿から外す訳にもいかないっておっしゃるから」
ステファニア・メールナード侯爵令嬢。
メールナード侯爵家の次女にして、王妃の姪。金の巻き毛に青い瞳の人形のように愛らしい娘。その容姿も相まって、甘やかされた彼女は我儘な小鳥として社交界でも有名だ。
「そうですか。それでは遅ればせながら侯爵様にもご挨拶をさせて頂きますので、失礼致します」
既に主催である侯爵夫人に挨拶は済ませている。混雑している時を選んだので特に声を掛けられる事もなかった。その事は伏せて侯爵をだしに、さっさとその場を辞そうとするが、ステファニアは喋り足りないようだ。
「あらいいのよ。いつもは決して出席なさらないハルフェイノス様がいらして、お父様は上機嫌ですもの。ベッタリと張り付いている貴女がいらっしゃらないから、きっと私への求婚を決意してくださったのだろうって」
ステファニアは胸の前で手を組んで、うっとりとしている。その様子はまさに恋に恋する物語のお姫様だ。
口さえ開かなければこんなに可憐なのに、とアリシアは完璧な微笑みを浮かべながら残念に思っていた。美しい物は嫌いではない。もちろん妹のシャルロッテの方が比べるべくもなく中も外も素敵なのだけれど。
ステファニアの目下の標的はハルフェイノスだ。
侯爵令嬢ともなれば、釣り合う結婚相手も限られてくる。
第二王子は従兄にあたるため血が近すぎる。第一王子は派閥違いの政敵関係だから論外。国内でステファニアの好みを満たす侯爵位以上の独身者など、片手で数えられる程しかいない。
結果、婚約者がなかなか決まらない。
そこで白羽の矢が立てられたのがハルフェイノス・バーンズ侯爵。彼は四十に手が届きそうな年齢には見えない程、整った顔をしている。銀に近いプラチナブロンドの髪も、その紫の瞳も彼女の好みに合致するのだろう。
「おめでとうございます」
それが今回限りの、メールナード家の気を引く為の作戦だとも知らずに舞い上がるステファニアに、ほんの少しだけ同情しながら祝いの言葉を口にする。相手の瞳が冷めきっている事に気付かない彼女も、そして気付いても忠言出来ない周りの環境も、哀れだと思う。
「ありがとう、貴女にもお礼を言わなければならないかしら? ハルフェイノス様の愛人を今まで勤めてくださってありがとうって。もちろんこれからは私という正妻が出来るのですから、そちらの紳士と結婚してくださって構わないのよ。随分と親密のようですし」
くすくすとステファニアの言葉に合わせて、侍女たちがさざ波のように笑う。
彼女付きの侍女達は相変わらず仕事が完璧だ。一糸乱れず絶妙のタイミングの笑いは、まさに職人芸の域に達していると、アリシアは思う。
まるで合図でも出ているかの様な間合いで笑うから、以前ハルフェイノスが、実は北西大陸で作られた魔法人形説を何処かの噂で拾ったと言っていた事を思い出した。
こんな場面で思い出してしまって、不謹慎にも口元がむずむずするのを隠そうと俯いたら、ランクスに勘違いをさせてしまった。
「彼女は愛人などではありません」
あまりに低い声で告げられて、聴き取り損ねたステファニア達がきょとんとしていると、ランクスがもう一度口を開く。明らかに不穏な空気を放っている。
アリシアが慌てて裾を引くものの、彼は無視して続けた。
「彼女は愛人などと呼ばれ、名誉を傷付けられていいような女性ではありません」
それだけ言うとアリシアの腕を取りさっさと歩き出してしまった。
廊下の角を曲がった辺りで、ようやく我に返ったステファニアが癇癪を起す声が聞こえる。
アリシアの中では、せっかく途中まで如才なく躱せそうだったのに、と文句を口にしたい気持ちと、侯爵令嬢から自分を守ろうとしてくれた事へのざわめきが混ざり合っていた。そしてあんな場面で呑気に笑っていた事への罪悪感がちょっぴり。
自分の腕をしっかりと掴み足早に歩く彼の背中に、何故だか無性に頭突きをして、そのままグリグリと頭を押し付けてやりたい衝動にかられた。