6 花束
邸へと戻るなり、シャルロッテは外出着を脱ぐ間も惜しんで部屋のベッドへ飛び込んだ。
「ああんっ! リングネル様ってば、どうしてあんなに素敵なのかしらっ」
アリシアは隣にある自分の部屋へと向かおうとしていた歩を止めて、苦笑いをする。
じたばたとベッドの上で暴れるシャルロッテに、声を掛けられずおろおろとするメイドを下がらせて、部屋の扉をパタンと閉めた。
ぽふんと弾んだシャルロッテのベッドからは、お日様の匂いと微かなハーブの香りがする。
この香りが好きだ。
父伯爵が亡くなり、親族たちが好き勝手なことを言い始めた時も、使用人たちは以前と変わらずに邸を整えてこの香りを保ってくれた。
どんな時でも落ち着ける、そんな風に生活の中に溶け込んでいる大好きな香り。
「『僕だけの薔薇の蕾』とかって、寒気がしない?」
「しませんっ! 姉様はもっと、愛の詩をお読みになるべきよ。効率の良い二毛作なんて本よりずっと為になるわ」
植物園でリングネルはこんな歯の浮くようなセリフを連発していた。
アリシアは寒気がして思わず腕を擦ってしまいそうになったけれど、隣のシャルロッテはうっとりとしていたので、やはり自分の方がおかしいのかと思った。
でも反対隣に居たランクスも両腕を擦っていたので、自分の感性はおかしくはないはずだ。
「でも二毛作、大事だし」
「それはカインの役目! 事務家の方も付いているのだから、何でもかんでも姉様が先回りしてはカインの為にならないわ」
「うう、仰る通りです」
ついついアリシアは手伝ってしまうが、次期伯爵はベルカインなのだ。シャルロッテの言う通り、幼いとはいえ何でもアリシアが整えては本人の為にならない。
こういう部分は、アリシアよりもシャルロッテの方がずっとしっかりしている。いずれ女である自分達は嫁ぎ、ベルカインは伴侶と二人で伯爵家を切り盛りするのだから、余計な手出しは甘える癖を付けることになる。いざという時一人では何も出来ない事ほど不幸なものはない、と。
父伯爵の死とその後の親族の起こした騒動は、まだ少女だったシャルロッテの意識を大人にさせるには十分すぎる出来事だった。
それでも結婚にも、相手にも夢を失わずにぶつかって行けるシャルロッテは、自分などより遥かに強いとアリシアは思う。
アリシアだって分かってはいるのだけれど、本音はこのまま変わらない事を望んでいるから、行動にも出てしまうのかもしれない。ハルフェイノスの手伝いをして、優しい家族に囲まれて。
時はどんどん進んでいるのに、アリシアだけが何年も同じ事をしている。
二人の着替えが遅いことを心配したエリアルが、ノックと共に顔を出した。
「あらあら、ロッテってばまた靴のままでベッドに上がって」
「大丈夫だもん、靴はベッドに上げてませんー。ぎりぎり外に出しておいたんだから」
「そんな気遣いするくらいなら、十六にもなってベッドに飛び込まないのよ」
腰に手を当てたエリアルと、ぷくりとリスのように頬を膨らませてみせるシャルロッテを見て、アリシアは思わず笑ってしまった。
すると三人顔を見合わせて、くすくす笑いが止まらなくなった。
「ああっ、どうしよう!? 服、皺になっちゃうかな」
自分の外出着の惨状に漸く気付いたシャルロッテがガバリと起き上がる。
「大丈夫よ、早く脱いでシルルに任せてみましょ」
シルルはこの邸のメイド頭だ。アリシアが物心ついた時から居る古参の使用人で、フェンクローク家の人間からの信頼が最も厚い女性。
「ほらアリーも着替えてらっしゃい」
「はあい」
アリシアも返事を一つして、着替えるために自分の部屋へと戻る。
エリアルのこの愛称呼びが好きだ。彼女は子供達を分け隔てなくアリー、ロッテ、カインと愛称で呼ぶ。商家出だからと中にはあからさまに蔑んだ目をする貴族もいるけれど、父伯爵が彼女という女性を後添えに選んでくれたことは、アリシアにとって幸運な事だったと思う。
幼少の記憶は既に朧げだけれど、病気がちだった前伯爵夫人の母も優しかった。
父伯爵だって厳しい人だったけれど、褒める時にはいつだって大きな手でアリシアの頭を撫でてくれた。自分は本当に家族に恵まれている。
ちなみにこの場合、アリシアの家族枠に親族(特に大叔父の系統)は含まれない。まあハルフェイノスが恐ろしくて、今では彼等の方が全く近づいては来ないのだけれど。
アリシアが階下の応接室へと入ると、相変わらずの光景が広がっていた。
「まあ! 素敵っ」
少し遅れてやって来たシャルロッテが入口から歓声を上げる。
テーブルの上には色とりどりの花束と菓子、そして小ぶりな箱が一つ乗っていた。
シャルロッテがそっとリボンを解き箱を開けると、今日雑貨屋で彼女が迷った挙句に買うのを諦めた陶器の小物入れが入っていた。
シャルロッテは大喜びでエリアルとベルカインに小物入れの説明をしている。アリシアはそんなシャルロッテに気付かれないように、そっと溜息を吐いた。
毎日毎日リングネルからシャルロッテ宛で、菓子や花や小物やらが届くのだ。
律儀なシャルロッテは、全ての菓子に口を付けるものだから、アリシア達家族も付き合わない訳にはいかない。弟のベルカインは好き嫌いをしない子だったのに、最近は甘い物が苦手になってしまったようだし、アリシアとエリアルはドレスの腰回りを真剣に心配している。恋する乙女のシャルロッテは、今日のようにベッドでジタバタするせいか気にならないらしく、心底羨ましい。おそらく栄養はまずあの胸中心に注がれるのだろう。まったくもって羨ましい。
集めた情報の中のリングネルは、女性との付き合いに慣れた遊び人だった筈。なのにイメージとは違う過剰気味の攻勢に、家族がこっそり引いているのはシャルロッテには内緒だ。
今日アリシアが同行している最中に何か贈ろうとしたならば、全力で止めて釘の一つでも刺そうと決めていたのに、そんな素振りを見せなかったため不発に終わってしまった。
野生の勘でも働いたのだろうか、それとも遊び人の勘? 帰ってすぐに届けさせるなんて、敵もなかなかやるものだ。と心の中で唸っていると、ベルカインが一つの花束を持ってアリシアのところへ来た。
「この花束はアリー姉様宛ですよ」
「ありがとう、カイン」
アリシアが花束を受け取ると、ベルカインは天使のように微笑んだ。
母譲りの金の髪に、父譲りの紺碧の瞳のベルカインは天使のような可愛らしさだ。最近特に可愛らしさに磨きがかかり、ご婦人たちからはうっとりと見つめられ、一部の紳士からも熱い視線を注がれるベルカイン。そろそろ彼に自分の習った護身術を教え始めるべきかもしれないと考えている。剣術は騎士や兵士でなければ活用する場所など限られているけれど、護身術は身近な危険にこそ効力を発揮するはず。
花束は王都でよく見かける季節の花々だった。
珍しい花々の様な華やかさは無いものの、白でまとまった配色とフレッシュハーブを取り入れた緑の香りが優しい。アリシアの大好きな香りを連想させた。
「あら、少し地味すぎない?」
「そうね、今日頂いた他の花とは趣が違うわね」
「そんな事ないわ。私にピッタリ」
シャルロッテとエリアルの言葉に、花束に挟まれたメッセージカードを読んでいたアリシアは、満面の笑みで答えた。
『我が相棒に、日頃の感謝を込めて』
花束はランクスからだった。
きっとけしかけたのはリングネルだろうけれど、花を選んだのはランクスだ。今日二人で待ち合わせをした季節の草花のコーナーに咲いていたものと同じ花々。
この花を一緒に見たのはランクスだけ。
そして自分を『相棒』と呼んでくれるのも一人だけ。
社交界にデビューしたての頃はアリシアにも求婚者がいて、花束や贈り物を受け取ったこともある。でもそれらはこんなにも舞い上がるような気持ちを与えてはくれなかった。
きっと役目を与えられ、それを他人から認めて貰えたことが大きいのだ。そう自分の気持ちを分析してみる。
最近は言い知れない不安に襲われる時がある。
書類仕事の手伝いばかりで、潜入や鍵開けの指示をハルフェイノスが下さないのも一因だ。相手の厄介さを考えればそれも道理と分かってはいるものの、自分の存在意義が揺らぐ気がして。
そしてこの件が解決したならば、アリシアには居場所が無くなってしまうのではないだろうかと。
いつかはベルカインの手伝いだって必要なくなる。
それでも自分はまだ必要とされている。
こんな口喧しい自分を認めてくれたランクスに感謝しながら、アリシアはそっと花束を抱きしめた。
薄っすら頬を染めて嬉しそうに花束の香りを楽しむアリシアを、まるで恋する乙女のようだと、家族がびっくりした眼差しで見つめていることに彼女は気付いていなかった。