2 ハルフェイノス・バーンズ侯爵
フェンクローク伯爵家には現在三人の子供がいる。
長女のアリシア、二十二歳。次女のシャルロッテ、十六歳。そして長男で次期伯爵のベルカイン八歳。
アリシアと他の二人の妹弟は母親が違う。アリシアが五歳の時に後添えとして嫁いできたエリアルの産んだ子供達だ。幼かった事もあり、アリシアはすんなりとエリアルを受け入れ、すぐに生まれた妹を猫可愛がりした。エリアルもいきなり五歳の子供の継母になったというのに、体当たりで娘として接してくれた。そして長男のベルカインが誕生した時、次期女伯爵の肩書を返上出来ると少女ながらにほっとしたものだ。
しかしそう上手く行かないのが世の中というもので。
五年前、高齢だった父伯爵が流行病で亡くなった途端、大叔父の子供達が異議を唱え始めた。
曰く、平民の血を引くのではフェンクローク伯爵家の跡取りとしては認められない。一族の中から婿を取り、アリシアの夫となった者に継がせるべきだと云う。
結局のところは自分達の息子の中から、次期伯爵を出したいだけなのだ。
継母エリアルの実家は商家だった。彼女の家の財力によって、伯爵家はさらに繁栄したというのに、その余りの言い草に当時十七歳のアリシアでさえ、呆れかえって言葉も無かった。
ベルカインがまだ三歳と幼かったのも災いして、フェンクローク伯爵家親族内に、彼女の味方は無に等しかった。
貴族の子女としては、婚姻を受け入れるのが正しい選択なのだろう。でもアリシアには正解だなんて、小指の先程も思えなかった。
又従兄弟達の顔を思い浮かべてみると、頼りになりそうな人材がまったく居ないのだ。馬術も剣術もへらへらと遊び半分。次期女伯爵として厳しく教育されていた頃、男だからと言うだけで、自分より遥かに低いハードルで合格点を与えられる又従兄弟達に、いつだってイライラを募らせていた。そんな目から見ても、継いだ途端に家を潰す未来しか想像出来なかった。
領地民の為にも、そしてもちろん可愛い弟と家族達の為にも、近くの親戚を切り捨てて、遠くの他人に賭けることにしたのだ。
変わり者で有名なハルフェイノス・バーンズ侯爵。
亡き両親の知人で年に数度顔を合わせていたのは、彼の父親である先代バーンズ侯爵の方だった。いつも不思議とアリシアが一番欲しいプレゼントをくれる、好々爺然とした面影だけは覚えている。先代が逝去してからは、バーンズ家との交流は途絶えていた。爵位を継いだハルフェイノスは、社交界に顔を出さない変わり者で、アリシアにとっては会った事もない他人。
それでも父からいざという時にはきっと力になってくださる、と聞かされていたバーンズ家を頼ったのは、藁にも縋る思いから。
十七歳のあの日、震える手でアリシアは侯爵家の扉を叩いた。
結果的にハルフェイノスは協力してくれた。しすぎな程に。
アリシアの夫候補たちの醜聞の証拠を次々と公にして、後には雑草さえも残らない程の鮮やかな手並みで全員を片付けた。どれも博打に嵌っていたり、酒に溺れたり、愛人騒ぎで決闘を申し込まれ逃げていたりと、叩けば埃どころか醜聞の大見本市のような有様だった。
一年後にはハルフェイノスを後見人として、見事ベルカインの次期伯爵位発表に漕ぎ着けたのだから、今でもあの選択は間違っていなかったと思っている。
しかし余りにも鮮やか過ぎる醜聞の暴露に、それまで居た他のアリシアの求婚者達は、ぴたりと寄りつかなくなった。
誰もが脛に傷を持っているという事なのか。それともねつ造でもされると恐れたのか。
――ハルフェイノス様はねつ造などしないのに。
ハルフェイノスは、ありとあらゆる情報を収集することに情熱を注ぐ。
街角の新しい仕立屋から、政治の汚職問題。更には他国の醜聞だって収集している。
何がそんなにハルフェイノスを虜にするのか、彼が何を目指しているのか、出会った頃のアリシアには分からなかったが、今は同じ気持ちでいる。
それにフェンクローク伯爵家の未来は、確実に彼によって救われたのだから。
だから彼の手伝いをしたいとアリシアが宣言した時、エリアルもシャルロッテも、幼いベルカインだって、アリシアの家族は誰も反対をしなかった。
もっとも、潜入捜査なんてものを敢行していたりするのは内緒だ。
ハルフェイノスは容赦がない。指示は細かいし、人間業ではないだろうと言いたくなる様な事を、平気で計画に盛り込む。「嫌ならいつでも辞めていいんだよ?」というのが彼の口癖だ。この辺りは噂通りの変わり者だと思う。
まるで本当は辞めさせたいのかと思うくらいに聞いてくるのは、心が折れそうになるのでほんとやめて欲しい。彼なりの気遣いだと分かっていても、アリシアは役に立っていると実感したいのに。
剣術と馬術は嗜んでいたけれど、まさか護身術や水泳を身に付けるようになるなんて、誰が想像しただろう。まだ実行に移す様な場面には遭遇していないのが幸いだけれど。
その上金庫開けはプロ並にまでなった。ハルフェイノスが連れてきた怪しげな鍵開け士から免許皆伝を言い渡され、素質があると褒められた時には、自分は何をやっているのだろうと不覚にもアリシアはちょっと泣いた。感動の涙なのか後悔の涙なのかは、自分でも判断が付いていない。
その後自分で申し出たのだし、と吹っ切ってみたら、鍵開けは結構楽しくなった。
いつの間にかアリシアは二十二歳になっていた。
十六、七での結婚が当たり前の貴族令嬢の中では、売れ残りギリッギリも良い所である。
今からでも運命の相手をっ! と息巻くエリアルとシャルロッテを尻目に、「ずっと姉上といっしょが良いです」なんていう弟の言葉を真に受けた振りをして、嫁き遅れてやろうかと画策している。十年以上学んだ領地管理の手伝いは結構楽しいし、収集員も刺激があって充実した役目なのだ。
これから先もずっと、ハルフェイノスの手伝いが出来たなら。そう密やかに思っている。
きっと彼女の代わりになんて、なれはしないけれど。
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いつもの通り、ハルフェイノスは眠らずに書斎でアリシアの戻りを待っていた。
バーンズ侯爵家で最も遅くまで起きているのは、この侯爵本人で間違いない。
睡眠は三、四時間で足りるというのだから、はた迷惑な当主だ。もっともバーンズ侯爵家の使用人達も慣れたもので、ハルフェイノス用の軽食と茶の保温器を用意したら、さっさと眠ってしまう。
馬車でまずはフェンクローク家に寄ってもらい、シャルロッテとエリアルを降ろしアリシアだけが侯爵家へとやって来た。
「こんな遅くに……」とエリアルは渋ったが、ハルフェイノスが夜行性なのはフェンクローク家の誰もが知る事実なので、引き下がってくれた。
アリシアから書類を受け取り、一通り話を聞いた後でハルフェイノスが口を開く。
「今回の兵士の介入は、賊の侵入の為と公には発表される事になっているようだよ」
相変わらずハルフェイノスの抱える情報屋の素早さには驚かされる。
「明らかに捕まっていたのはカールストン伯爵でしたけど?」
「彼は表向きは被害者で、家に兵士が付いているのは護衛の為ということになっているねえ」
「でもっ」
「焦らない、焦らない」
言いかけるアリシアに、ハルフェイノスは上機嫌でひらひらと書類を振って見せる。
「もちろん収賄と禁制品の密輸入の件で彼には見張りが付けられている。動いていたのは只の兵士じゃなくて、特別局だ。流石に仕事が早くて助かる。証拠も貴族院に引き渡し済みのようだよ」
「良かった。でもじゃあどうして?」
「ふむ。どうやらかなり上の方に、今のタイミングでカールストンが罪に問われると、具合の悪い人間が居るみたいだね」
「第二王子の護衛が邪魔をしていたのと、関係はありますか?」
「……推測は好きじゃない。でもまあ、いい線じゃないかな」
そのままハルフェイノスは思考の海に潜ってしまった。
所在無げに立っていたアリシアは、今夜の事を思い出していた。
ランクス・ラチェットと名乗った男は、中肉中背の優男にしか見えなかったのに、剣の切っ先は揺るぎなかった。カールストンを押さえ付けた時も、ほとんど力を加えてはいない風に見えて、相手はピクリとも動けない様だった。
心底捕まらなくて良かったと思う。
それと同時に、何故かもう少し明るい場所でじっくり彼を見てみたい気がする。あの意志の強そうな瞳は、日の光の下ではどの様に見えるだろう。
あの目が合った瞬間、互いに一言も言葉を交わしてはいないのに、次に取る行動を理解していた。もしかしたら極限の状況で、妙な共感でも得てしまったのかもしれない。
そんな思考を振り払おうと軽く頭を振った時、ハルフェイノスの発した言葉のタイミングに、心底驚いてしまった。
「ランクス・ラチェット、彼の上司に手紙を書こうか」
ハルフェイノスの瞳は、本気だと告げている。もう一度彼に会わなくてはならないらしい。
アリシアの心臓がどくりと跳ねた。それは動き出した物事への興奮なのか、それとも彼に会える期待と不安なのか。
判断なんてつかなくていい、きっと会えばわかるはずだから。