1 舞踏会
夜の帳に煌々と灯りをともし、カールストン伯爵家の舞踏会は大盛況を誇っていた。
ホールの中央では楽団の演奏に合わせ、若い紳士淑女が手を取り合う。正装の胸元か、あるいは結いあげた髪の飾りとして、白い生花を飾る彼、彼女達は結婚相手が決まっていない独身者だ。
しかし今夜の主役は彼等ではなく第二王子。
一年程前に国境線の任地から帰還した第一王子への人気が、国民や貴族たちの間で上がっている。元は武の国であった為、王族男子の士官所属が慣例として残っているこのアストーン国でも、国境付近への二年に及ぶ派遣は異例だった。第二王子派による当て付けともいえる配備にも屈せず、無事任期を終えた第一王子に人心が傾くのも道理だ。
その事に焦ったのだろうか、第二王子は普段ならば王族が顔を出したりはしない規模の舞踏会へと出席し、人気取りに躍起の様だ。二人による次期国王争いに、貴族達は慎重になっている。
ホールの一角には彼を囲む輪が出来ていた。第二王子が顔を出すとの噂により、この舞踏会の注目度と警備態勢は、飛躍的に上がってしまった。
煌びやかな舞踏会の片隅でアリシア・フェンクロークは、顔をしかめてしまいそうな所を全神経を集中して抑えていた。
美しく結い上げられた飴色の髪には、瞳と同じラベンダーの飾りが散りばめられている。ドレスは若い淑女達に比べれば慎ましやかだが、身体のラインを引き立てて優美に流れる。
今日のアリシアは、母と妹が納得する完璧な出来だった。
悪目立ちせず、かといって地味すぎもせず、華やかな花達の中に上手く紛れていると思う。
その為に恥を忍んで胸元に白い薔薇を付けているのだから。
二十二歳にもなって、十代の娘のように白い生花を付ける恥ずかしさといったら……堪らない。
シャンパングラスを揺らしながら、周りの不躾な視線には気付かない振りを決め込む。
当初はいつも通り、メイドか侍従の恰好をして夜会に潜入するつもりだったのに、今回の警備の厳重さから正規の招待状を使う羽目になってしまった。どうやらここ数年全く夜会に興味を示さなかった長女が進んで参加したことに、継母エリアルと妹シャルロッテは舞い上がったらしい。特に姉と揃いでの舞踏会参加に対するシャルロッテの喜びぶりは、大げさな程だった。何も知らない妹に、アリシアの良心はじくじくと痛んだ。
しかし二人主催による採寸と着せ替え地獄については、当分は招待状の類は破り捨てて対処しようと、アリシアに固く決心させるには十分だった。
その妹はというと、ダンスの輪の中心でカールストン伯爵家の子息と楽しそうにステップを踏んでいる。
間違いなく夜会の第二の主役はシャルロッテだ。明るいブラウンの髪に紺碧の瞳の彼女は、淡いピンクのふわりとしたドレスを身に付けている。姉の欲目だとしても、十六歳のシャルロッテはこの場のどの令嬢よりも輝いていた。
カールストン家の関心を上手い具合に引きつけてくれているシャルロッテに感謝しながら、懐中時計を確認すれば、針はもうすぐ十時を指すところだ。
幼い弟ならば夢の中の時間だけれど、舞踏会はこれからが本番。
ふわりと華麗なターンを混ぜた妹を見て、これならばあと数曲は踊るだろうと当たりをつけると、そっとホールの扉に向かう。
第二王子と妹に、ホールの人々の気がいっているうちに、やらなければならない事があるのだから。
談話室へ向かう振りをしながら、廊下を折れた先でそっと物陰に隠れ、本来の目的地である目の前の階段をじっと伺う。玄関ホールの正面にある階段ではなく、使用人用の階段だ。灯りのない狭い階段は、地獄の底への入口へと続く様にぽっかりと口を開けて暗闇を滲ませている。
上るのに地獄の底もないか、と自分の思考に呆れながらもアリシアは人気のない階段を上った。
辿り着いた部屋の前で形ばかりのノックをするが、もちろん返事はない。ノブを回すと、当たり前だが鍵がかかっている。
ドレスの間から工具を素早く取り出し鍵穴に差し込む。ものの数秒でかちりと小気味よい音が聞こえた。この瞬間はいつだって、無意識に頬が緩んでしまうほどに心地良い。
扉の隙間から身体を滑り込ませ、急いで鍵を掛ける。
アリシアはホッと息をつくと、執務机の引き出しに手をかけた。
・・・・・・・・・・
「剣を捨てろっ。この娘の命がどうなってもいいのか!」
屋敷の主人はいよいよ追い詰められて、メイドを人質に逃亡を図るつもりらしい。
主に人質とされたメイドの娘は、哀れなまでにひきつけを起こしている。このままでは卒倒するのも時間の問題かもしれない。
「いい加減にしなさいカールストン伯爵。私が踏み込んだ時点で、貴方の罪状は確定しています。更に罪を重くしてどうするんです」
ランクス・ラチェットと名乗った男は、構えた剣を捨てるどころかひたりと伯爵の喉元に向ける。ランクスとカールストンの間には、巨大な執務机と人質のメイド。
男は眉間にしわを寄せた。
――状況を整理してみよう!
アリシアは窓際の分厚いカーテンの中に隠れながら、自身に言い聞かせる。
ここはカールストン伯爵の執務室。
アリシアが執務室に忍び込み目的の物を手に入れた時、丁度階下で大捕り物が始まってしまった。追い詰められたカールストンは、証拠を処分する為だろう、メイドの娘を人質に取りながら、大急ぎで秘密の階段から執務室へと上ってきた。本棚から螺旋階段が現れた時、アリシアは咄嗟に窓際のカーテンの陰に隠れた。
――ベタ過ぎる螺旋階段に、声を上げなくて良かった!
そこへ扉を蹴破ってランクスが踏み込んだ為、書類を暖炉へと放りこんだ所で処分は間に合わず、恐慌をきたしたカールストンはメイドにナイフを向けるという暴挙に出た。書類を燃やす手伝いをさせられていたメイドは、碌な抵抗もせずに捕まってしまった。
そして現在アリシアは、目と鼻の先にあるカールストンの禿げあがった頭頂部を見つめながら、息を殺していた。
「そのまま動くな! 動くと娘の首にナイフが刺さるぞっ」
「っ!! ひいぃっ」
カールストンがナイフをメイドの首元に押し付け、その感触にメイドはか細い悲鳴をあげる。ナイフでメイドを押えこみ、もう片方の手にはランプを持ちながら、何とか書類に火を移そうとしている。
剣を構えたランクスは青筋でも浮かべそうな顔で、カールストンを睨みつけていた。
彼の茶色の瞳は静かに怒りを湛えた色をしているが、その思考は冷静なようだ。この執務室は二階だから出口は扉と螺旋階段だけなのに、窓際に追い詰められている事にカールストンはまだ気づいていない。暖炉からも上手く引き離されている。
ランプの灯りに照らされた禿げ頭を視界に入れながら、アリシアは慎重にカーテンから滑り出た。カーテン横に飾られた凝った作りの壺を、そっと手に取る。舶来製の壺はずしりと重い。
か弱き者を盾にするなんて、許せない行為だ。
覚悟を決めたアリシアとランクスの目が合う。
驚いてはいないようだから、隠れている事は察していたのだろう。
「剣を下ろしますから、まずは彼女の首元からナイフを遠ざけてください」
「そっちが先だ! 早く捨てろっ」
ランクスが床にゆっくりと剣を置くと、カールストンは明らかに緊張を緩めて、ナイフを握った右手をメイドからほんの少し遠ざける。おそらく書類を燃やす事に気が向いているのだろう。
「話せる程度の怪我にしておいてくれ」
「加減なんてした事がないので分かりません」
男の言葉と共に、カールストンの禿げ頭めがけてアリシアは思いきり壺を振り下ろした。
後頭部に衝撃を受けて、カールストンの意識は一瞬暗転した。
気づいた時には、ナイフを握っていた手は既に捻り上げられ、絨毯に顔を擦りつける様な形で倒れていた。頭が酷く痛み、さらに鼻付近も生ぬるい何かで湿っていることを察して、カールストンは取り乱した。
「ああっ私の鼻がっ! きさま!! 貴族の私にこんな事をしてただで済むと思うなよ!?」
「心配するのはそこですか。か弱い娘にナイフを向けた瞬間から、あなたは貴族などではありません。収賄と密輸入に、殺人未遂も追加ですね」
そこまで言われて自分の差し迫った状況を思い出したのか、カールストンは抑えつけられた状態で精一杯首を動かし、メイドの姿を探す。
「あ、主の命令だ! その書類を燃やせっ! さもなければ即刻邸から追い出すぞっ」
その声にメイドの娘の肩がびくりと跳ねる。腰が抜けてしまったのか、這うようにしてその場から離れようとしていた娘は、悲痛な顔で固まっている。
口から泡を飛ばし必死で叫ぶカールストンの背中を、ランクスは膝に力を入れて押さえる。肺の空気が一気に押し出されたカールストンが喘ぐ。
捕縛されてなお傲慢なその姿に、壺を握ったままだったアリシアの手に思わず力が入る。もっと強く振り下ろしておくべきだったか。
「それは私の役目だ」
静かな声と決意を湛えた視線に、アリシアは肩をすくめて壺を元の位置に戻した。
苦しみながらも動こうとしたカールストンを、ランクスが更に強く押え込む。
少し力が入り過ぎたようで、思わず肩を脱臼させてしまった。伯爵の悲鳴を聞きながら、自分も随分この男の行動に腹を立てていたのだと、ランクスは息を吐く。
ランクスがカールストンを押さえ付け、その手を縛り上げている間に、アリシアは部屋の隅で小さくなるメイドに近づいた。
「ひっ……」
部屋の隅に這って移動していたメイドは、足早に近づくアリシアに身構える。
ぺたりと床に座り込むメイドに目線を合わせて膝をつくと、カールストンに背を向ける形でアリシアはそっとメイドの首筋にハンカチを当てた。
「怖い思いをしましたね。でも大丈夫、もう怖いことは起こらないし、新しい仕事も見つかります。きっとこのお屋敷より好条件で、腐った主の居ない所をそちらの紳士が見つけてくださいますから」
そう言ってメイドににっこりとほほ笑む。
今彼女が言った全てを叶えろと勝手に託されたランクスは、自分でもそうするだろうと思いながらも、行う事務処理の多さに頭を抱えたくなった。
机仕事は苦手なのだ。
「これは約束のしるし」そう言って、アリシアは胸元の薔薇をメイドに渡す。この季節には高価すぎる白の薔薇だ。メイドの娘は頬を赤く染め、アリシアの顔を見つめたままこくりと頷く。
「彼女には暖かいお茶とブランデーが必要です」と高らかに宣言したアリシアは、ランクスに一度だけ視線を送ると、素早い動きで螺旋階段へと飛び込んだ。
「っ!! 待てっ」
ランクスはそのまま追いかける訳にもいかず、うっかり膝下のカールストンにさらに圧を掛けてしまった。更に一オクターブ高い悲鳴が上がった。
――まあいいさ、今宵の舞踏会の名簿は入手済みだ。
絶対に見つけてみせようと、ランクスは彼女の姿を己の脳裏に刻みつけた。
・・・・・・・・・・
玄関は我先にとこの場から立ち去ろうとする、貴族たちの馬車でごった返していた。
ランクス・ラチェットと名乗った男の部下達も、この混乱の中で伯爵邸の用心棒と、仕事を邪魔される事を嫌う第二王子の護衛に阻まれて、随分と足止めを食らっていたのだろう。彼一人があの速さで辿り着けたことの方が奇跡かもしれない。
アリシアは首を巡らし、漸く動き出した馬車列の中ほどで、バーンズ侯爵家の紋章を見つけて素早く近づいた。彼女に気付いた御者が、隙のない所作で馬車の扉を開けて頭を下げる。
馬車の中に身体を滑り込ませ、空いている席へとどさりと腰を下ろすと、隣からはいつもの明るい声がする。
「ああもう! 姉様ってば全然戻って来ないのだもの。賊とでも鉢合わせてしまったのじゃないかと心配していたのよ」
「賊?」
いきなり抱きついてきたシャルロッテを受け止めたアリシアは、首を傾げてエリアルに顔を向ける。御者に出発の合図を送ってから、エリアルは頷いて見せる。
「何でもカールストン家の家宝を狙った賊が侵入して、兵士が呼ばれたそうよ。第二王子殿下の護衛の方々も協力して、賊を捕まえたのですって」
おかしな方向に噂が広まっているようで、アリシアは眉を寄せた。
これは急いで報告した方が良さそうだ。
「それよりロッテ。あのカールストン伯爵のご子息と踊っていたみたいだけど、まさか気に入ったなんて言わないわよね?」
父親のカールストン伯爵の悪行を知っているだけに、アリシアにとってはこちらも一大事だ。
「まさかっ。主催家のご子息だし断る訳にもいかないから踊ったけど、二度と会いたくないわ。あの人ダンスの間中、私の胸元ばっかり見ているんですものっ」
シャルロッテは心底嫌そうに顔を顰める。正面のエリアルも頷いている。
なるほど……確かにシャルロッテの胸はふんわりとマシュマロの様に柔らかそうで、ドレスの縁から綺麗に盛り上がり存在を主張している。十六歳にして姉を遥か彼方にぶっちぎったその胸に、若干の嫉妬を感じながらも背中にギュッと手を回し抱きしめる。
「ロッテはこんなに魅力的なんだもの、きっと素敵な方がすぐに見つかるわ」
「ふふ。姉様だってきっと素敵な方が見つかるわっ!」
すかさずシャルロッテもアリシアを抱きしめ返し、ぎゅうぎゅうと頭を肩口に押し付けてきた。
「う~ん。当分夜会は遠慮の方向で……」
「「駄目よっ!」」
シャルロッテとエリアル両方から力強く否定され、アリシアはずるずると背もたれに身を預けた。
「次はもっと大きめの舞踏会に……」などと、打ち合わせを始めてしまった妹と継母の横で、アリシアは必死に眠ったふりを決め込むのだった。
収賄と密輸入を行っていたカールストン伯爵。
尻尾が中々掴めず、今夜の伯爵主催の舞踏会に潜入し、目的の物を手に入れるまでは良かった。
しかしアリシアは、ランクス・ラチェットという男に姿を晒す大失態を演じてしまった。
今から彼に報告するのが怖い。
彼をがっかりさせる事が、アリシアの一番恐れることだ。
眠ったふりをしながら、アリシアは隣の温もりへと寄りかかった。