嵐の前触れ
夕暮れが浮かぶ。まだ四月だというのに、ずいぶんと日が沈むのが早くなった。
チャイムが鳴り、教卓の前にいる女教師が一言帰りの挨拶をすると、生徒達は意気揚々とバッグを抱え、教室を駆け出した。
「気をつけて帰れよ。こら、廊下は走るな」
まったくいつまでも小学生みたいに。
遠藤優香は体だけ大きくなった高校生達に向かって注意を飛ばした。
優香は今年になって二年目の高校教師。担当は国語。主に現代文を教えている。
生徒からは口うるさい教師として赴任初年度から有名になってしまった。ついたあだ名は「黙ってりゃイイ女」。略して黙イイ。なんじゃそりゃ。
確かに自分は今まで活発で運動の好きな子だった。おかげでよくモテたし、体育会系の連中に人気があった。でも、私には隠れた趣味がある。
優香は教室を後にすると、ショートカットの髪を少し触れて、鼻歌交じりに職員室へと向かった。
さて、始めますか。
山本太朗は誰もいない総合学習室で長机を開いていた。
この作業もずいぶん慣れた。去年までは先輩が一緒に脚を組み立ててくれたけど、引退されてからはすべて自分一人でやっていた。実質この部は高二の僕一人。 いやあこれ辛いんですよ結構。
太朗は長机を一つだけ置くと、教室の隅に隠してあった作業椅子を転がしてちょこんと座った。そして、運動会の小道具の中に紛れてあった百貨店の袋の中を覗く。うん、誰にも盗られてないですね。太朗はメガネに指をあて、ホッとしたような顔になった。
袋の中にあるのはお菓子でも勉強道具でもない。太朗の唯一の趣味である山積みにされたライトノベルだった。
「お疲れさま」
職員室に入ると真っ先に声をかけてくれたのが校長だった。
一礼だけして優香は自分の席に着く。さて、小テストの採点をまずやらないと。そんでクラス便りも書いて、それから……
「遠藤先生、固いよ固い」
校長が優香の肩先の辺りまで来ていた。
「まさかまだ緊張してるわけじゃないよね。もっとリラックスしていいんだよ」
優香ははにかむ。そういうことじゃない。早く仕事を終わらせたいだけなのだ。
「何か御用でしょうか校長」
いけない、また刺々しくなってしまったわ。
「あっ、忙しいなら終わってからでいいんだ。ちょっとね」
校長のもったいぶる態度に優香は苛立った。
「先に教えてくれませんか」
「えっ、仕事はいいの?」
「ええ」
そうかと一つ咳払いをして校長は手を後ろで組んだ。
「遠藤先生、我が校に文芸部があることはご存知ですかな?」
文芸部。確か去年はそこそこ賑わっていたような気がするけど。
「今、そこの部員数が卒業によって大量に減ってしまったんですよ。そこで遠藤先生」
次に続く言葉はなんとなくわかっていた。
「ちょっと寂しくなってしまっている文芸部の活動を見に行ってもらえないですかね」
優香は部活の顧問に就いていなかった。文芸部も確かに候補の一つにはあったのだが、年配の先生に取られた。どうせ楽したいだけなんでしょ。その先生は今も自分の席で口を開けて寝ている。
「ね、あんなんだから遠藤先生に見に行ってもらいたいのよ。ちょっと様子を覗いたり、話し相手になるだけでいいからさ」
優香は渋々首を振って、その場をやり過ごした。
だが、本心は嬉しかった。文芸部には興味があったのだ。
今日、早く仕事を終わらせようとしたのはこれを買ったから。優香はバッグの淵を開いた。たくさんの化粧品の奥にあったのは文庫本。
早く見たいのよね、これ。
表紙には尾崎紅葉とあった。