69. 沈黙
「ルトナー様!こんなところでどうかしましたか?」
思わぬ人物の登場にリャナンは驚き声をかけながら近づく。
「ごめん」
リャナンの呼びかけに鈍い反応しか示さないルトナーに、リャナンは違和感を覚え、月明かりに浮かび上がるルトナーにさらに近づいた。ルトナー自身が友達と公言していても、リャナンは不躾に友達の距離を取れるほど慣れ親しんでいたわけではないため、かつてないほどの近い距離だが、いつもの威厳や余裕などが一切感じられないという、明らかに様子のおかしいルトナーにリャナンもただ事ではないことを感じ取ったからこその距離だった。
「ごめん」
もう一度ルトナーは謝るとそのままうつむいてしまう。本格的なただならぬ事態にリャナンは思わずルトナーの手を引いて
「ここで立ち話もあれですからこちらへどうぞ」
と言って先頭切って歩き出した。勢いで取ったルトナーの手がものすごく冷たくていつからいたのかとか、ものすごく不敬なことをしているとかが頭の中を巡ったが、何となく手を離すことができずそのまま二人で狭い路地を通った。
流石に家に連れ込むことはでき無いので工房に案内する。数年前に兄が取り付けた木の鎧戸を閉める。取り付けたときは何のためかと思ったが、夜に一人でカルブンクルスを染める練習をしていたのだろう。と今なら予測がついた。今は兄の行動にただ感謝だ。部屋の中は真っ暗になるが、仕方がない。工房の釜に火を入れてロウソクにも火をつける。明かりと暖を確保してから、入口のところで立ち尽くしたままのルトナーを工房の椅子に座らせた。
「ごめんなさい。家に案内したいところなのですが、家族に事情を説明することが出来ないので…」
リャナンが謝ると、ルトナーは少し笑い、
「急に来たのはこっちだから気にしないで。というか謝らなくてはいけないのはこっちだから」
と言った。リャナンにしてみたらお茶の一つも出したいところだが、あいにくここには日用品の類は一切置いていない。手持ち無沙汰になり、様子のおかしいルトナーとでは会話は弾まない。そもそも何しに来たのかは、話の核心になりそうで、切り出しにくかった。沈黙が広がったが、
「でも、よく家がわかりましたね。メインストリートの糸屋としか言ってなかったはずですが。」
無理やり会話の糸口を引きずり出した。
この国の産業である糸屋と刺繍屋はメインストリートだけでも随分の数がある。それぞれが職人のため扱っている色や糸の状態が違うため、それぞれの店で商売が成り立っているというのが実情だ。だからこそ祖父の時代の売りだったカルブンクルスの糸を父が容易に復活させられなかった気持ちもわかるし、兄が隠れて努力していたことも相当な覚悟だったのだろうと思う。
「この前ヤーデに連れられてきたからね。橙色の糸は今度使わせてもらうよ」
ルトナーの言葉にリャナンは目を丸くする。その反応にルトナーが再び少し笑った。
「ここのところ忙しくて、遊びに来てくれたのに門前払いでごめんね。それに明日からも忙しくなると思うから当分は会えないんだ」
それでも声に力がなくいつものルトナーとは思えない声色にリャナンはだんだん不安になってきた。
「何かあったんですか?」
ついに耐え切れなくなったリャナンが話の確信に触れる。そもそも既に勅命がでた状態でまた忙しくなるとは、新たな何かが起きたとしか思えなかった。
「うん…。ローンが死んだよ」
ルトナーの呆然とした声にリャナンは息を飲んだ。再び工房に沈黙が落ちる。