35. 刺繍
朝にルトナーが言った通り、放課後リャナンは学長室に呼ばれた。教室の半分ほどの広さに重厚な机に肘を立て皮張りの一人がけの椅子に座っている学長のが、この大学の学長だ。スタンホール大学では、大学を開いたラルス=スタンホール氏の子孫が代々学長を務めることになっている。貴族でも名家でもないが、国王認定の登竜門ということで、学校を維持しているスタンホール家はこの国ではそれなりの地位がある家だ。
今の学長もスタンホール家人間で、年の頃は40を過ぎた位という話である。リャナンの目の前で椅子に座る学長は、質の良いグレーのスーツに身を包みにこやかにしている。リャナンはめったに会うこともなく、ましてや一対一で話すことなど今まで無かった人物に若干緊張していたが、人の良さそうな学長の顔に緊張は溶けて消えた。学長からカタログにも使われるデメルングのページと許色に染められた糸を渡された。朝にルトナーに見せてもらったものと同じ内容を見る。カタログに乗る前のただの紙とはいえ、自分の作出した花が描かれた物を改めて見て感慨深くなる。
学長の「おめでとう」の言葉を受けて、リャナンは「ありがとうございます」と返すと早々に学長室を辞する。
渡された用紙は認定を取った本人の保存用ということなので、リャナンは紙が折れないようにノートに挟みそのノートを慎重に鞄に仕舞った。さらにそのまま学校も出る。
石畳の道を歩くが、そのまま刺繍屋の幼馴染の家へと向かった。リャナンの家と同じ通り沿いにあるので、帰り道の途中だ。
刺繍屋『アーベル』の扉を開ける。おなじみのドアベルの音に、中から
「いらっしゃいませ」
と声がかかる。中ではカミルの母親が店番をしていた。
「こんにちは。おばさん」
リャナンが店に入りながら挨拶をすると
「あら。リャナンちゃんいらっしゃい。聞いたわよ。国王認定取ったんですって。おめでとう」
とカミルの母親は話し始めた。何故に母親世代というのは話し始めたら止まらないのか。
「ありがとうございます。カミルちゃん居ますか?」
一方的に話し始めたカミルの母親の、言葉の合間を縫ってリャナンは問いかける。
「部屋にいると思うわよ。後でお茶でも持っていくからゆっくりしていってね」
帰ってきた言葉に感謝を言いながら、勝手知ったる他人の家と、リャナンは、店の奥に進ませてもらう。そこからアーベル家の住居部分に入り、カミルの部屋へと向かった。過ミルの部屋の扉をノックすると、中から扉が開けられてカミルが出てくる。
「うわっ。リャナンちゃん。びっくりした。いらっしゃい」
「突然ゴメンね。カミルちゃんにお願いがあってきたの」
部屋に入りながら、リャナンが言うと、
「お願い?改まってどうしたの?」
不思議そうにカミルが問いかける。
「国王認定の糸が今日出来たので襟に刺繍して欲しいデス」
深刻そうなカミルの声に話の持って行き方を間違えたと思いつつリャナンは“お願いを”する。リャナンの言葉に一瞬カミルは固まったが、すぐに笑顔になると「お安い御用です」とチェストに仕舞ってあった裁縫箱を取り出す。それを見てリャナンは付けていた襟と先刻貰ったばかりの糸をカミルに渡す。真っ白な襟に許色の線が入った。たった一刺しだが、貴重な線に二人は笑いあった。
それから少し世間話をしてリャナンはカミルの家を出る。帰りしなにカミルは、
「これからも襟の刺繍は私にやらせてね」
と言った。リャナンは、
「これからもよろしく」
と受けて二人は別れた。リャナンは家に帰る道で、何度も刺繍された線に手をやる。改めて国王認定が取れたのだと実感した。