16. 約束の時
ちょっと長めです。
スタンホール大学三年の教室。午後四時を回り、この時期すでに太陽は西に傾いており、大きくとった西向きである教室の窓から直射日光が当たっていた。すでに授業が終了した教室に人はまばらであるが、そんな中でもリャナンは授業を受けていた体勢のまま静止している。
「リャナンちゃん。もう授業、終わったよ?」
そんなリャナン見てさすがに心配になったリトルアがリャナンの顔を覗き込み、声をかける。
「ひゃっ。って、リトルアちゃん。びっくりさせないでよ」
妙な叫び声をあげながら意識を目の前のリトルアに向けながらちょっとむくれて見せた。
「びっくりしてるのはこっちだよ。今日一日うわの空でさ」
リトルアは心底呆れたように言う。
「別にうわの空なんかじゃないよ。確かにちょっと落ち着かなかったかもしれないけど」
リャナンはささやかな反論を試みる。しかし、リトルアに声をかけられるまで授業が終わったことに気付けていなかったのだから、リャナン自身説得力がないことは分かっていた。
「じゃあ。今日のお昼ご飯何だったか言える?」
「えっと。白身魚の香草焼きとライ麦パン」
唐突なリトルアの質問に少し考えて、リャナンが答えるとリトルアは心の底から呆れた顔をして、
「それ、昨日の献立だから。今日は、羊肉のホワイトソース煮込みだったよ」
と言った。リャナンは返す言葉を無くした。完敗である。すっかり大人しくなったリャナンにリトルアは心配そうに、
「ねぇ。本当に大丈夫?昨日のことまだ気にしてるの?そうじゃなくても何か気になることがあるならいつでも相談に乗るよ?」
と言った。
「いや大丈夫。本当にダメそうだったら一番に相談するからその時はよろしくね?」
そういって改めて教室を見回すとすでに人があまりいないことに気が付く。最後に教室にある時計を見ると四時を少し過ぎ所だった。リャナンは思わず時計を二度見する。
「えっ。授業が終わったって、今日の授業が終わったの!?まずい。ごめん、今日約束あるんだ。先に帰るね。お疲れ様!」
リャナンは広げたままだった教科書とノートを閉じ、乱暴に鞄に突っ込むと、あわただしく席を立つ。教室に取り残されたままのリトルアからあっという間に足音が遠ざかって行った。
リャナンは猛ダッシュで校舎を出るとまず資材置き場に向かった。資材置き場は植物を育てるのに必要なものがまとめて置いてあり生徒なら誰もが何を使っても自由なことになっている。数ある資材の中から移植ゴテと5号鉢を持ち出す。
リャナンは自分の畑に向かうと、朝ローンが褒めてくれた花を鉢に移していく。黙々と作業をしながら、朝の会話を思い出していた。ローンは「僕が取らせる」と言ったのだ。確かにニエル家なら国王陛下に最も近い家として陛下につながるのかもしれないが、あの自信がそんな単純な理由ではないような気がしてならなかった。
鉢に花を移し、井戸で手を洗う。ハンカチで手を拭こうとしてふと、持っていた鞄をなでる。そこには今朝渡された懐中時計が入っていた。渡された直後には気が付かなかったが、この時計の裏面には王家のエンブレムが入っていた。それがますますローン=ニエルという人物を分からなくさせていた。本来ならこれは王家の人間の持ち物のはずだ。
しかし、出会った人が国王だったとはそれなりに想像力が逞しいリャナンでも思い至らず、エンブレムが王家の物だということの疑問は解けずにいた。
リャナンは鉢を脇に抱え、学校を出ると道路を横切り、跳ね上げ橋を渡って大きな門の前に辿り着いた。
門の前には二人の近衛兵が立っている。リャナンはローンに言われたとおりに近衛兵の一人に時計を差し出すと、
「私は、リャナン=エルスターと申します。ローン=ニエル様にお取次ぎ頂きたいのですが」
と言った。こんな時の正式な文句など知らないが精一杯丁寧に告げたつもりだ。近衛兵はリャナンが差し出した時計と、リャナン自身そして抱えられた花を順繰りに見た後、特に怪しむこともなく、リャナンの差し出した時計を受け取り、この場で待つように言い奥へと消えていった。
リャナンともう一人の近衛兵の間に気まずい沈黙が落ちた。特に会話をする必要などないだろうが、抱えた鉢の重さが倍になったように感じ、必要以上に持ち替えたりしていると、程無く先ほどの近衛兵が戻ってきてリャナンについてくるように告げた。
花の咲き誇る前庭を歩き城の前まで来る。城の入り口を開けてもらうと扉の向こうには四十過ぎと思われる濃紺色のフロックコートを着た男性が立っていた。
「お初にお目にかかります。リャナン=エルスターさん。ローン=ニエルと申します」
と言った。昨日と今日の朝に会った人物ではないことに、リャナンはあまりの衝撃に返す言葉に何も思いつかず目の前の男性を凝視してしまう。そんなリャナンの様子を気遣わしげに見つつローンは「こちらへどうぞ」とリャナンを奥へと案内し始め
る。どうにかリャナンは正気に戻りローンの後をついていく。数歩進んだところで、
「そうだ、この時計は私のものではないので、持ち主にはあなたからお返しください」
と先ほど近衛兵に渡した時計を再びリャナンに渡した。
「この時計の持ち主は何者なのでしょうか?」
ローン=ニエルが偽名だったことに軽いショックを受けつつ立ち直り切れていない頭でどうにか言葉を発する。リャナンは頭と口が自分のものではないような錯覚さえ感じていた。
「それは今からご自分の目でお確かめください」
それだけ言うとローンは一際豪華な扉の前で足を止め、ついてきていた近衛兵に扉を開けさせるとリャナンに中へ入るように促した。