十四話
「じゃあ、改めて検査を始めようか」
空木が壁のタッチパネルを操作すると、微かな電子音に続いて正面の防音扉が静かに持ち上がった。
現れたのは、先ほどの応接室がいくつも収まるほど広大な実験場だった。
床も壁も清潔な白で統一されている。高い天井からはいくつもの機械アームが吊り下がり、その先端でレンズやセンサーの群れが静かにこちらを見下ろしていた。中央の床面に描かれた円形のマーキング。その周囲を、精密な計測機器が整然と取り囲んでいる。
「こちらへ」
促されるまま、白線で区切られた円の中心へと足を進めた。
有栖は少し離れた壁際のメインモニター前へ移動し、腕を組んでこちらを見つめる。
じっと向けられるその視線には、気遣うようなどこか心配そうな色が浮かんでいた。
「まずは基本数値から測定させてもらうよ。痛いものではないから、リラックスしていてくれ」
空木が白衣のポケットから取り出したのは、複数の手のひらに収まるほど小さな樹脂製パッドだった。
表面の小さなランプが、彼の指先が触れるたびに淡い青色に明滅する。
それが空木の手によって凪の手首、胸元、そして横腹へと迷いのない手際で貼り付けられていく。
嫌なベタつきはなく、肌にしっとりと吸い付くような不思議な感触が残った。
「……結構、大がかりなんですね」
静寂に耐えかねて零した声は、吸音性の高い壁に遮られているからか、いつもより少し低く響いた。
空木は手を止めず眼鏡の奥の目を優しく細める。
「以前、環が行ったのは簡易的な検査だからね。今回は出力の方向性まで詳しく調べるから、少し仰々しく見えるかもしれない。あ、それから——これを使ってくれるかい?」
空木が手渡してきたのは、検査用の小さな金属製のデバイスだった。
「それに君の力を少しずつ流し込んでみてほしい。それで障壁を半径三メートルを目安に出してもらえるかい」
小さく頷き、深く息を吸い込んだ。
薬品の匂いがかすかに混じった、実験場の冷たい空気が肺を満たす。
受け取ったデバイスを握り、そこへ意識を向けた。
じわりと手のひらから熱を移すように、デバイスの奥へと自分の力を染み込ませていく。
優しく、急がず、少しずつ、少しずつ。
応じるように冷たい金属の塊が小さな脈動を始め、その微かな振動が自分の境界線を外側へと押し広げていく感覚がした。
ゆっくりと満ちていく力に伴って、足元から青みを帯びた淡い光が広がる。
光は自分の正面を覆うようにして滑らかな半球体の障壁となっていった。
外気を完全に遮断するほどの厚みはない。
けれど、あの魂喰との死闘で容赦ない攻撃を防ぎきってくれた確かな記憶がある。
目の前に展開されたいつもの障壁に、張り詰めていた心が自然と落ち着いていった。
「ほう……」
空木は手元の端末に表示される数値を確認しながら、低く声を漏らした。
「力の流れ……通常の放出量より三十パーセント以上増加している。けれど、決して不均衡じゃない。むしろ驚くほど安定しているよ」
壁際のモニターでは複数の波形が複雑に交差し、鮮やかな色彩が忙しなく変化していた。
そこに映し出されている情報の意味までは分からなかったが、二人の表情からしてこれが普通の数値ではないことだけは確かだった。
「感覚的にはどうだい? 何か変化は感じるかな?」
空木の問いかけに、正面の障壁を見つめながらそっと意識を内側に向けた。
無理に力を絞り出しているような、嫌な疲労感や反動はない。
むしろ、自分の内側から淀みのないエネルギーが滑らかに循環している感覚さえある。
そして何より、目の前の盾から伝わってくる感覚が以前よりもずっと力強かった。
「強度が上がったのもそうですが……感覚的には、以前よりずっと力強く、頼もしくなった感じがあります。これなら、どんな攻撃が来ても跳ね返せるんじゃないかって思えます」
有栖がモニターを見つめたまま静かに言葉を重ねる。
「あの魂喰の猛攻を防いだときもそうでしたが、歪むこともなく受け止め切れていました。ただの硬い壁というだけではないのでしょうか」
「なるほど」
空木は端末の画面を叩きながら呟いた。
「単純に強く、硬くなっただけではなさそうだね。もしかしたら、ただの出力の上昇ではなくて、君の持つ固有の力が現れ始めているのかもしれない。……まだ何とも言えないけれど、もしそうなら実に興味深いよ」
その言葉には、隠しきれない研究者としての純粋な好奇心が混ざっていた。
手の中のデバイスからそっと意識を離し、流し込んでいた力を引いていく。
展開されていた青い薄膜が、静かに空気に融けるようにして消えていった。
床の上に残っていたかすかな光の揺らぎも、やがて視界から完全に消え去っていく。
「そういえば、環は何か言っていたかい?」
空木が手元の端末をスリープ状態にしながら、ふと思いついたように尋ねた。
机の上に置かれていたペットボトルに手を伸ばし、お茶を一口飲んで喉を潤す。
その何気ない仕草が、張り詰めていた実験場の空気をわずかに緩めていた。
有栖が壁際からゆっくりと歩み寄り、凪の様子を窺うようにして答える。
「展開された障壁の仕組みにすっかり興奮してしまって、それどころではなかったようです。あの子らしいと言えば、その通りなのですが……」
「まったく、困ったものだね」
空木は小さく苦笑した。
けれど、眼鏡の奥にある瞳はどこか冷徹な光を湛えている。
「後で、少しお話をしないといけないかな」
冗談めかした口調ではあったけれど、言葉の奥にある本気の気配が静かな部屋の空気をかすかにぴりっと引き締めた気がした。
有栖も小さく視線を逸らし、困ったように眉の端を寄せている。
空木が本気で怒ったら、きっと——かなり恐ろしいに違いない。
有栖と目が合うと彼女も同じことを考えていたのか、どこか苦笑いを交わすような微かな目配せが返ってきた。
その時、静かな部屋に電子音が響き入り口の重い防音ドアが滑らかに開いた。
「お邪魔するよ」
低く落ち着いた、それでいて確固たる自信と威厳に満ちた声だった。
入り口に立っていたのは、廊下の白い明かりを背にした男性。
仕立ての良さが一目で分かる細身のスーツに、シンプルなネクタイ。
年齢は四十代の前半くらいだろうか。
百八十センチは優に超えているであろう長身が、部屋の入り口を塞ぐようにして静かにこちらへ視線を向けている。
ただそこに立っているだけなのに、巨大な組織のトップに立つ者だけが持つ圧倒的なオーラのようなものが部屋中を満たしていく。
けれど、不思議と嫌な威圧感はなかった。
むしろ、その佇まいを見つめていると胸の奥が温かくなるような奇妙な感覚に包まれる。
初めて会うはずなのに、どこかずっと前からこの気配を知っていたかのような不思議と馴染む温もり。
理由は分からない。
けれど、自分の根底にある何かが彼の存在を受け入れているような感覚だった。
内心の戸惑いを隠しながら、隣の有栖へと視線を巡らせる。
彼女もまた微かに眉の端を寄せ、どこか緊張した面持ちでその人物を見つめていた。
しかし、すぐに空木が椅子を鳴らして立ち上がり親しげな口調で声を掛けた。
「社長、珍しいですね。今日はどうされたんですか」
「……っ」
社長、という言葉に反射的に背筋が伸びた。
どうやらこの男性が、神楽カンパニーのトップらしい。
慌てて姿勢を正し、深く一礼する。
有栖も静かに姿勢を正し、慌てた様子で会釈を返していた。
男性は穏やかな笑みを浮かべながら、片手を軽く挙げてそれを制する。
「いやいや、そんなにかしこまらなくて結構だよ。初めまして、だね。私がこの会社の代表を務めている、潮見渉だ。よろしく」
低く深みのある、心地よく耳に響く声だった。
潮見はゆったりとした足取りで室内に進みながら穏やかに言葉を続ける。
「ちょっと耳に挟んでね。期待の新人君がいるというから、どんな人物か気になって挨拶がてら立ち寄らせてもらったよ」
期待の新人。
まさか自分のことだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥の鼓動が少しだけ速くなった。
空木はどこか面白がるような笑みを深め、潮見の方へと向き直る。
「なかなか面白いですよ、彼。せっかくですしどうです? これからが本番みたいなところもあるので、少しご覧になっていきますか?」
「ほう」
空木の提案に、潮見の目尻が微かに上がった。
眼鏡の奥で鋭い光が一瞬だけまたたき、すぐに元の柔和な色へと戻る。
潮見は静かに視線を巡らせ、穏やかながらもどこか深く見通してくるような声で問いかけてきた。
「邪魔にならないようなら見学させてもらおうと思うが……構わないかね?」
「はい、もちろんです」
突然声を掛けられ、一瞬だけ喉が詰まりそうになった。
けれど、会社のトップを前にしていつまでも狼狽えているわけにはいかない。
可能な限り平静を装い静かに言葉を返した。
「さて、と」
空木がパンと小さく手を叩き、実験場の中央へと足を運んだ。
床に描かれた円形のマーキングの縁に立ち、こちらを振り返る。
デスクの陰からは、潮見が腕を組んでその様子を見守っていた。
威圧するようなものではなく、純粋に興味深そうな視線だった。
「凪くん、環の資料に書いてあった、夜空みたいな結界を見せてくれないかな」
「分かりました」
空木の言葉に頷き、懐から小さな金属のキューブを取り出す。
「あれから自分でも結界は張ってみたかい?」
空木の問いかけに、小さく首を振った。
「効果がよく分からないので、2回目の検査以降は結界を張っていません」
隣にいた有栖が、補足するように言葉を継ぐ。
「先日の魂喰との戦闘でも、結界自体は別部隊の方に張ってもらっていました」
空木は軽く頷き、指先で顎のあたりを撫でた。
その視線が再び壁側のディスプレイへと向けられる。
「環のデータによれば、専用に調整した道具を使っても出るようになったんだよね?」
「そうなんです。調整してもらったものだったら大丈夫だったのですが……」
「その調整した道具も見てみるから、あとで一度貸してもらえるかな。ひとまずはそのまま結界を張ってみてくれ。力を込めすぎないようにね」
深く息を吸い込み、手の中のキューブを包み込むように握り締めた。
手の中の冷たい立方体から、自分の内側へと力が吸い込まれていくような奇妙な感覚が伝わってきた。
引きずられるその感覚に重ねるようにして、こちらからも静かに力を流し込んでいく。
応じるようにキューブがかすかに震え、その内側に淡い光を孕み始めた。
空気をそっとなぞるような微かな抵抗。
そして――夜が降りた。
先ほどの無機質な実験場に、濃藍色の天蓋が滑らかに広がっていく。
清潔な白で満ちていた床が一転して星の光を映す暗闇へと沈み、無数の星々が優しく瞬き始めた。
室内の明かりは消えていないはずなのに、その光はすべて夜空に吸い込まれ、まるで最初から存在していなかったかのように錯覚してしまう。
「これは……」
空木の声が、かすかに上擦った。
端末を操作する指が完全に止まり、目を見開いて頭上を見上げている。
研究者としての冷静さを保とうとしているのだろうが、驚きを隠しきれない様子が背後からの柔らかな星明かりに照らされて浮かび上がっていた。
「……美しいな」
潮見がぽつりと言葉を零した。
低い声だったけれど、そこには明らかな驚きが混ざっている。
腕を組んだ指先がわずかにピクリと動いたのは、無意識のリアクションだったのだろう。
「これじゃあ、環に何も言えないな」
空木が自嘲するように息を吐き出した。
だがその声には、隠しきれない高揚感が滲んでいる。
「見たまえ、この波形を……様々な力が多数混ざり合っている。しかも信じられないくらいバランスが良く、互いの干渉もゼロだ。まるで――」
その姿を見て、環に似ている、と思った。
科学者としての探究心が剥き出しになった瞬間に、不思議な親近感を覚えてしまうのは少し皮肉かもしれない。
けれど、目の前で起きている不可解な現象に対して根源を見出そうとする情熱は本物なのだと伝ってきた。
空木は小さく咳払いをひとつして、いつもの落ち着きを取り戻す。
「データをしっかり取っておきたいから、もう少し維持してもらえるかい? 身体に負担はないかな?」
小さく首を振って答える。
「ええ、まったく」
「――本当かい?報告書にも同じことが書いてあったけれど」
空木は信じられないといった顔で目を丸くした。
手元の端末に視線を落とし、画面に踊る波形を食い入るように見つめながら独り言のように呟く。
「結界が独立しているということか……?だが、それだと結界を閉じるときの繋がりを切る感覚ということに違和感が生まれる。とういうことは少なからず凪くんの力の供給によって保たれているはず。込められている力の方向性や属性の問題か?それとも……」
ひとしきり思考の海に沈んでいた空木だったが、ふと顔を上げこちらに真っ直ぐな視線を向けた。
「——そういえば、この空間の中にいると落ち着く感じがあるというのは今もあるのかい? 今のところ、私じはその感覚がないんだ。データを見ても、精神を安定させるような特殊な波形が出ているようには見えなくてね」
空木のその言葉に、有栖が一歩前に出て口を開いた。
「そうですね……。むしろ、最初よりも感覚が明瞭になってきた気がします。なぜか異様なほどの安心感があるんです。自分の家というか、慣れ親しんだ場所に帰ってきたときのような……」
空木は端末の画面と自分たちの顔を交互に見やりながら、無言でメモを書き込んでいく。
そのとき、それまで静観していた潮見がゆっくりと口を開いた。
「この場所は確かに、ただ落ち着くだけではないね。初めて経験するはずなのに、不思議と馴染むような……不思議な感覚に包まれる」
直接的な言葉ではない。
けれど、それはどこか静かな核心を突くような言葉だった。
潮見はゆっくりとこちらへ視線を移す。
だが、その穏やかな瞳は、自分個人というよりもっとその向こう側にある何かを見つめているような気がした。
深い霧の奥にある、輪郭の見えない何かを探るように。
「葵くんからも報告を受けていたが……君は面白いね」
静かな賞賛。
けれどその心地よい声音の裏には、底知れない別の感情が静かに潜んでいるような気がしてならなかった。




