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十一話

激しい金属音と、魂喰の咆哮が高架下に反響していた。

耳の奥に残る残響が、わずかに遅れて現実をなぞる。

その最前線で、有栖さんは一歩も退かない。


手にした武器を振るい、押し寄せる猛攻を受け流すように、しかし確実に捌いていく。

灰色のコンクリート柱が林立する薄暗い空間の中で、黒い髪が跳ねるたび銀の軌跡が弧を描いた。


刃と爪が噛み合うたびに、青白い火花が弾ける。

その一瞬だけ、闇に沈んでいた輪郭が浮かび上がり、すぐにまた掻き消える。


――速い。


そう思ったときには、もう次の一撃が交わされている。

有栖さんの表情に迷いはない。

息は上がっているはずなのに、その視線だけは微塵も鈍らず常に敵を捉え続けていた。

隙が、生まれない。


いや……生まれているのかもしれない。

そう思った感覚が、次の瞬間にはもう別の動きに塗り替えられていく。

捉えきる前に、すべてが先へ進んでいる。


「凪さん! 左翼側、援護をお願いします!」


鋭い声が、高架下の反響に紛れながらも真っ直ぐに届く。

刹那、有栖さんが重心を崩すように右へ踏み込んだ。

意図的に隙を見せるその動きに叩き潰すかのように、魂喰の巨躯が左へ振りかぶる。

思考が追いつくより先に、意識はすでに一点へと絞られていた。


《――展開》


言葉に応じるように、空間がかすかに歪んだ。虚空からせり上がるようにして半透明の障壁が生成され、有栖さんと魂喰のあいだへ滑り込むように展開される。

直後、硬質な衝突音が空気を裂いた。

振り下ろされた剛腕が叩きつけられる。

受け止めた瞬間、衝撃が足元へと抜け、砕けたコンクリートの粉塵が遅れて舞い上がった。


思ったよりも衝撃は重く感じなかった。

叩きつけられた力が、防壁の表面で逸れるように散っていく。

揺らぎも、軋みもなく、ただそこに在り続けていた。

ただ受け止めるだけで精一杯だった感触がどこにもない。

同じように展開しているはずなのに、返ってくる手応えだけが記憶よりも軽かった。


「そのまま抑えて! 脚部を刈ります!」


有栖さんの声に合わせて、意識をさらに研ぎ澄ます。

盾を維持したまま、足元へと力を落とす。

次の瞬間、黒い紋様が滲むように地面へ広がり枷の形を取って湧き上がった。

絡みつくようにして魂喰の後ろ脚へと食い込む。


深く、入った。

その感覚に、わずかに息を呑む。

押し返されるはずの抵抗が、弱い。

そのまま、枷は一気に硬化する。

巨体を縫い止めるように大地へと固定した。


「ガァアァァッ!!」


魂喰が吼える。

だが、その場から動けずにいる。

暴れる力だけが空回りし、脚は地面に縫い付けられたままだった。


……いける。


その実感が、遅れて胸の奥に落ちてくる。

以前は、抑えるだけで限界だった。

維持することすら、気を抜けば崩れていたはずなのに。

同じように力を流しているだけなのに、返ってくる手応えが違う。


視線の先で、藻掻く巨体。

その動きを押さえ込んでいるのが自分の力だと、静かに理解が追いついてくる。


―― 一緒に、戦える。


有栖さんが魂喰にとどめを刺す光景をぼんやりと視界の端で捉える。

意識の奥で――あの日の光景が、静かに浮かび上がった。




午後の陽が庭の芝生を照らし始めた頃、ひだまり庵の門を後にしていた。

湊くんの元気そうな顔を見られて、胸の奥にあった重さが少しだけ軽くなる。

友達もできたらしい。

そのことに、安堵する自分がいた。


事務所に戻り、扉を開ける。

紫煙の匂いと、紙をめくる乾いた音が迎えてくれた。

二人ともデスクに向かい、山積みの書類に目を落としていた。

所長はいつも通り煙草を燻らせ、有栖さんは赤いペンを走らせている。


「お疲れさまです」


声をかけると、有栖さんが顔を上げた。

所長は灰を落としながら、こちらに一瞬だけ視線を寄越す。


「湊くんはどうでした?」


有栖さんの声には隠し切れない心配がにじんでいた。


「元気そうでしたよ。友達と一緒に、庭で走り回ってました」


そう答えると、有栖さんは小さく息をついた。


「そう、よかった……」


胸を撫で下ろすように目を細める。

その横で、所長が煙草を灰皿に押し付けた。


「タイミングがいいわね。環から連絡が来たの。あなたの再検査、最優先で回してくれるって」


「もう日程が?」


「ええ。これからすぐでも良いって話よ」


所長は立ち上がり、新しい煙草を咥える。


「一応あなたの都合次第だけどね。行くなら今すぐ連絡を入れるけど、どうする?」


「行きます。すぐにお願いします」


所長は短く息を吐き、内線ボタンを押す。

呼び出し音が二度鳴ったところで、相手が出た。

要点だけを手短に伝え、すぐに受話器を戻す。


「決まり。十六時から研究室で待ってるって」




咲良さんの研究室に足を踏み入れると、咲良さんは白衣の袖を捲り計器のディスプレイを覗き込んでいた。

こちらに気づいた瞬間、ぱっと表情が明るくなる。


「やぁ凪くん! 待ってたよ!」


両手を広げるその様子に、思わず笑いそうになる。

少し遅れて、有栖さんが隣に並んだ。


「環さん、今日までのトレーニング結果です」


差し出されたタブレットを、手早く操作する。

数字を追う視線が途中でわずかに止まった。


「へぇ……明らかに変わってるねぇ……」


そのまま顔を上げ、じっとこちらを見る。

大きな目が測るように細められた。


「凪くん、最近で何か特別なことってなかった? 食べ物でも、行った場所でもいいんだけど」


「いや……特には」


首をひねる。

特別と言えばひだまり庵に行ったくらいで、それ以外は普段通りだ。

それ以外は……。


「なんとも。わからないかな」


「ふーむ……」


咲良さんは腕を組み、少しだけ考え込む仕草を見せる。

やがて視線を有栖さんへと向けた。


「有栖ちゃんの意見も聞きたいな」


「そうですね……」


そう言って、タブレットを差し出す。


「ただ、変化自体は確かにあります。データの通り、力を使っていない状態でも純粋な身体能力が上がっています。私の目から見ても、新しい能力が生まれているようには感じませんでした」


「それは面白いなぁ」


環は軽く目を瞬かせる。

そして、もう一度こちらへ視線を戻した。

その瞳は、興味を隠そうともせずに細まる。


「凪くん、とりあえず力の再測定から始めてみよう。あれからデバイスはまだ使っていないんだよね?」


「はい、何があるか分からなかったので」


「おっけー! それじゃ、いつもの別室に行こうか。そこで改めて道具を起動させてみよう」


白衣の裾を揺らしながら、咲良さんは部屋の測定機器を操作し始めた。

計器のランプが順に灯り、室内の空気がわずかに引き締まる。


「前と同じようにとりあえず起動させたらいいですか?」


「んー、とりあえずはそれでいいかな。……あ、でもこっちの力も上がってるかもしれないから、込め過ぎないように気を付けてね!」


安全第一だよー!と話す咲良さんから検査用の道具を受け取り、部屋の中央へ移動した。

配置を一通り確認し、最後に有栖さんへ視線を向ける。


「有栖ちゃんは助手役ね、よろしく!」


「了解です」


有栖さんが静かに頷く。

咲良さんは端末に目を落とし、準備が整ったのを確認してから顔を上げた。


「それじゃあ――始めようか」


計測機器の緑色のランプが規則正しく明滅する中、以前と同じように意識を集中させる。

掌に収まる金属のキューブが、かすかな温もりを返してきた。


手順は変わらない。

軽く――ほんの少しだけ力を流し込むつもりで、意識を乗せる。


「ちょっと待って! ストップ! 凪くん、それ込めすぎ!」


咲良さんの声が鋭く割って入る。

反射的に力を緩め、顔を上げた。


「え? いや、ほんの少しにしたつもりなんだけど……」


首を傾げる中、咲良さんは眉を寄せたまま計測パネルを覗き込んでいる。


「その“ほんの少し”が……ちょっと……洒落になってないんだよねぇ」


苦笑を浮かべながらも、視線は画面に釘付けのままだ。

メーターは上限を振り切り、警告表示が静かに点滅している。

咲良さんは白衣の袖を軽く捲り直し、小さく息を整える。


「凪くん。専用に調整した結界を張る道具を使ってみてもらえる? ほら、前に渡してたヤツ。抑えめにね、本当に抑えめに!」


念を押す咲良さんに頷き、ケースから小型の結界発動具を取り出した。

手の中の金属はひやりとしていて、指に馴染む。


――軽く、抑えて。


次の瞬間だった。

手の中のキューブから、薄い光の幕が降りるように広がる。

空気がすっと張り詰めた。

蛍光灯の光がわずかにくすみ、音が遠のく。

静まり返る中、結界が展開された。

広がるそれは黒ではなく、深い藍。

冷えた夜空のような色が、視界を覆っていった。


以前と同じ――のはずだった。

広がり方は変わらない。

結界は滑らかに立ち上がり、淀みなく空間を覆っていく。

けれど、そこに在る密度がまるで別物だった。

視界に浮かぶ藍の奥に、ひとつだけ大きな星が瞬いている。

前にはなかったはずの光だ。


それだけじゃない。

細かな星の数も、わずかに増えていた。

手が届きそうなほど、すぐ近くに夜空がある。


力を込めている感覚はほとんどなかった。

それでもつながりは途絶えない。

結界は揺らがず、静かに空間を塗り替えていった。


「これは……」


思わず漏れた有栖さんの声さえ、吸い込まれるようだった。

彼女の目が驚愕に見開かれている。


空間そのものが歪み、壁や天井が夜に侵されていく。

光を失った室内は、一転して深い闇に沈んだ。

星座めいた粒子が、静かに瞬きはじめる。


「凪くん! ストップ、ストップ!」


咲良さんが悲鳴に近い声で制止する。

その声を聴き、咄嗟に力を断ち切った。


夜空は巻き戻るように閉じていき、数秒後には元の研究室へと戻る。

残ったのは、わずかな残滓。

蒼白い星の余韻だけが漂っていた。


「……はぁ」


有栖さんが小さく息を吐く。

しかし次の瞬間、計器が甲高い警報音を鳴らし始めた。

橙色の非常灯が点滅し、画面いっぱいに赤い警告が走る。


「やばい……」


咲良さんが低く呟く。


「ちょ、ちょっと待ってね! えっと……まずい、まずい!」


白衣のポケットからスマートフォンを取り出した瞬間、画面いっぱいに着信履歴が並んだ。


「第二研究チーム」

「監視システム担当」

「セキュリティ本部」

「桂木 葵」


名前を見るだけで、ただ事ではないと分かる。

咲良さんは深く息を吐き、震えるスマホをじっと見下ろした。


「はぁ……当然だよねぇ」


一方で、有栖さんは周囲を素早く見回す。

設備の状態を確認し、破損の有無を冷静に洗い出していく。

やがて、その視線がこちらへと向いた。

警報の余韻が、まだ空気に微かな震えを残している。

咲良さんは端末を操作しながら、眉間に皺を寄せた。

どうやら、先ほどの結界は単なる数値の乱れでは済んでいないらしい。


「うーん、これ以上はちょっと厳しいかも」


咲良さんは計測パネルを見つめたまま言った。

画面には複数のエラーコードが点滅し回復の気配はない。


「ここの設備だと、凪くんの……あれ、正確に測るのは難しいね。数値が飛びすぎて、基準自体がズレちゃってる」


そう言いながら、白衣のポケットから別の端末を取り出す。

短いコールの後、すぐに通話が繋がった。


「あ、もしもし空木さん? 環だけど――うん、例の黒須凪くん。精密検査なんだけど、こっちじゃ無理そう。神楽坂の本社でお願いできる? ……そう、機器フル稼働で。オッケー、ありがと。じゃあその流れでお願い」


通話を終えると、咲良さんは予定を確認する。


「来週の水曜、朝イチなら空いてるって。こっちで手配しておくから、少し待ってもらえる?」


「もちろんです」


迷いなく頷く。

咲良さんは満足げに笑い、手をひらひらと振る。


「じゃ、詳細決まったら連絡するね!」







魂喰の断末魔が高架下に響き渡った。

巨体が大きく仰け反り、そのまま崩れ落ちる。

鈍い衝撃音。

――その音で、現実に引き戻された。


「状況……完了です」


視線を巡らせる。


崩れたコンクリート。

抉れた地面。

戦闘の痕跡はそこかしこに残っていた。


だが――


巻き込まれた人は皆無だった。


「……被害も無しですね」


有栖さんが小さく息を吐く。

その声に、張り詰めていたものがわずかに緩んだ。


「ええ。問題なく終わりましたね」


自然と、そう言葉が出る。

有栖さんは頷き、端末を取り出した。


「では、報告を上げましょう。一度事務所へ戻ります」


「了解です」


サイレンの音が近づいてくる。

後処理班に引き継ぐには、ちょうどいいタイミングだった。

高架下を抜け、現場を後にする。

戦闘の余韻が、ゆっくりと遠ざかっていく。


「そういえば、凪さん」


有栖さんがふと思い出したように口を開いた。


「引っ越し、明日でしたよね?」


「その予定ですよ」


頷くと、有栖さんはわずかに表情を和らげる。


「でしたら、お手伝いします。社宅に着いたら声をかけてください」


「助かります」


戦闘の緊張とは違う、柔らかな空気が流れる。

遠ざかる現場を背に歩き出す。

残ったのは、静かな達成感と――

次へ向かう、わずかな余熱だった。

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