朱(あか)い空の下で
朱に染まる空の下、一人の姫が舞っていた。
年は二十半ば程、艶やかな黒髪に陶器のようなしみ一つない白い肌、二重ながらに切れ長な瞳が姫に怜悧ながらも凛とした雰囲気を与えている。小さな声で詩を口ずさみながら、ひらりと回った。
腰まで伸ばした黒髪や着ている白い衫の袖も翻る。下には桾と呼ばれる薄紅の下衣を履いていたが。それだけの薄着で真冬の夕暮れ時に姫は歌い、舞い続けていた。
額や首筋には薄っすらと汗が浮かぶ。空は段々と朱から深い藍色に変わっていく。
不意に、茂みにある葉がかさかさと音を立てる。姫こと芳苑は歌い舞うのを中断した。素早く、そちらを睨めつけながら右手に持っていた舞扇を投げつける。
「……何奴!」
鋭く、茂みに潜む何かに誰何の声をあげた。すると、そこから背の高い人影が出て来た。葉や枝をそこかしこに付け、顔など泥やら砂やらで汚れていたが。ボサボサだが、背中まで伸ばした髪を緩やかに纏め、薄黄色の袍や白い下衣を着た若い青年だ。よく見ると皮製の沓を履いていた。
「えっと、申し訳ない。歌声が聞こえたもんでね」
「まあ、あなた。早くここを離れた方が良いわ。後宮の一角だと言う事は理解していて?」
「……分かった、教えてくれてありがとう。確かに離れた方が良さそうだね」
青年は髪についた葉や枝を払いながら、のんびりとした調子で言う。芳苑は青年に近づく。投げつけた舞扇を拾うためだ。
「どうかした?」
「あの、私がいつも使っている舞扇がこの辺にあると思って」
「ああ、たぶん。これの事だろう?」
青年は膝を曲げ、屈みながら地面に落ちた舞扇に手を伸ばす。拾い上げると芳苑に手渡した。
「……はい、あなたの物で間違いないか?」
「え、ええ。ありがとう」
「そろそろ、私も行くよ。じゃあ!」
青年は舞扇を返すと素早く踵を返した。あっという間に、この場を離れていく。芳苑はしばらくぼんやりと佇んでいた。
夜になり、だいぶ冷え込んできた。さすがに芳苑は室内に戻る。夕暮れ時に会った青年に名を訊くのを忘れていた。ふと、今更ながらにその事に気づく。
仕方ない、青年の事は忘れよう。そう思いながらも舞扇を見つめた。
「あ、芳苑様。やっと、戻って来ましたか」
「……佳林」
「んもう、そんな薄着で庭にいらしたんですか?!」
「だって、暇だったし」
「また、そんな事を。誰かに見られたらどうするつもりです!」
芳苑のお付きである女官の佳林はそう言いながら、箪笥の方に行く。佳林は二十歳であるが、芳苑よりは後宮にいる年数は長い。
確か、十二歳の頃には女官であったはずだ。芳苑は今から、五年前に宮妓として後宮に入った。舞や歌が得意な事から王に請われたのだ。
「とにかく、着替えを用意しますから。湯浴みをしましょう!」
「分かったわ」
大人しく頷き、怒りながらも支度をしてくれる佳林に付いて行く。夕暮れ時に会った青年の事は頭の片隅に追いやったのだった。
湯浴みや夕餉を済ませ、芳苑は寝所に行く。今日も王からの呼び出しはない。当然かと思った。芳苑もそんなに若くはない。
二十を幾つも過ぎた自身は後宮から去るべきだ。分かっているが、何故か離れがたい。
ままならぬ気持ちに無理矢理、蓋をする。
ただ、私は陛下のために歌や舞を行うのが役目。それ以外に価値はないと言っても良かった。芳苑は一人寝の寂しさを持て余した。
あれから、七日が経った。いつものように部屋から庭に出ようとしたが。慌てて佳林が入って来た。ぜいぜいと息を上げながら、芳苑に知らせてくる。
「……あ、あの。芳苑様、陛下からお召しがありました。今宵、寝所に来るようにとの仰せです!」
「え、陛下が?!」
「はい、早くお支度をしましょう!」
芳苑は頷いた。佳林は急いで、支度を始めるのだった。
夜が更けゆく中、芳苑は一人の女官や宦官の案内で王の寝所へ急いだ。
速足で歩く。が、やはり一月の中旬のためか吹き付ける風は冷たい。芯から冷えそうな寒さだ。しかも、空は曇って雪が散らつく。
「……芳苑様、こちらにございます」
「はい」
女官や宦官が立ち止まり、ある朱塗りの扉の前に芳苑を連れて行った。あまりの緊張で体は小刻みに震え、歯がかちかちと鳴る。黙って宦官が扉を開けた。
「さ、芳苑様。入られませ」
「分かりました」
頷き、中に入る。二、三歩踏み入ると扉が無慈悲にも閉められた。芳苑は深く息を吸い込み、吐き出した。それでも震えは収まらなかった。
寝所から、一人の男性が出て来た。高い背に立派な体躯、精悍な顔立ちが印象的な美男だ。が、芳苑は不意に先日の青年を思い出した。
何となく、面差しが男性と似ているように感じたからだ。
「……ふむ、そなたが宮妓の芳苑か」
「はい、そうでございます」
「早速で悪いが、舞を一差し所望したい。それをしてくれたら休んで構わぬ」
「……御意に」
芳苑は薄着ながらに床にひざまずく。頭を垂れた。
「立ち上がったら良い、冷えるだろう」
「お気遣いありがとうございます」
再度、頭を垂れる。すっと立ち上がるとおもむろに舞を始めた。
しなやかに芳苑は肩から掛けていた被泊を翻しながら、軽やかに跳ぶ。朱雨と言う曲になる。
これなら、楽器や歌が無くても舞えるはず。芳苑はそう思いながらも一挙手一投足に神経を張り巡らせた。王はそれを眩しげに眺めていた。
舞も終わり、芳苑は王と共に寝所にて休んだ。と言っても、王は指一本も彼女に触れてはいないが。
「芳苑、見事な舞だった」
「はあ」
「時にそなた、後宮を出たくはないか?」
「え?!」
「そなたをここに閉じ込めておくのは真に惜しいと思ってな、何なら我が弟に下賜をしようかと考えておる」
芳苑は王弟に下賜と聞いて、茫然となる。たった一度、会った青年をまた思い出す。
「……陛下、私を嫁がせても。弟君がどうお思いかは分かりませんが」
「そなたも言うなあ、けど。このままでいるよりは良いだろう」
「分かりました、陛下の仰せのままに」
芳苑は青年への育ち始めた淡い想いと王への罪悪感に息が詰まりそうになった。やはり、体の震えが止まらない。深く息を吸ったり吐いたりしてやり過ごすのだった。
半月が過ぎた。季節は二月になり、梅が綻び始める時期だ。常よりは暖かく、ぽかぽかとした陽気になったある日に。
芳苑は後宮を去る事になった。佳林や他の女官達と共に荷造りをしていた。
「芳苑様、簪を全て売るとおっしゃっていましたけど。よろしいのですか?」
「いいの、私には過分な物だから」
「分かりました、荷造りを急ぎましょう」
佳林は頷き、止めていた手を再度動かす。芳苑も再開したのだった。
半日もしない内に荷造りは済んだ。馬車に芳苑と佳林の二人が乗り込む。
「佳林、あなたも一緒に来るの?」
「はい、あたしはどこまでも芳苑様に付いて行こうと仕え始めた頃から決めていましたので」
「そう、何というか。心強いわね」
芳苑が言うと佳林は顔を薄っすらと赤らめた。それに笑いながら、胸に温かなものが湧いてくるのだった。
馬車で一刻近く走り、芳苑は先に降りた佳林に助けられながら降りる。
立派な屋敷が聳え立ち、門前にて三人程の男性が待ち構えていた。芳苑は真ん中に立つ背が高い男性を見て、僅かに目を見張る。
何となく、見覚えがあったからだ。けど、男性は芳苑に気づかずに声を掛ける。
「よくぞ、来てくださった。陛下から話は聞いている」
「不束者ではありますが、よろしくお願いします」
「うん、まずはゆっくりと休んでください。中に案内しよう」
芳苑は自身を見知らぬ者として扱う男性に不可思議さを感じたが。素知らぬ振りで敷地内へと入った。
芳苑が通されたのは後宮のよりは広々とした部屋だ。佳林も一緒だが。
「必要な物はこちらの家人の周顗に申し付けていただきたい、また芳苑殿付きとして侍女も後で寄越すから。そのつもりでいてほしい」
「分かりました、何から何までありがとうございます」
「では、失礼する」
男性はそう言って、家人を連れて去って行く。芳苑と佳林は目を見合わせた。
芳苑の部屋に三人の侍女がやって来た。
「奥様、初めてお目にかかります。主の諒蘭様の命で参りました、名を六花と申します。私めの左側が蘭香、右側は光華と申します故。以後、お見知り置きを」
「初めまして、芳苑と申します。こちらにやって来て間がないから、色々と教えてもらえると嬉しいわね」
「分かりました、では。もう夜も遅いですから、休んでください」
六花の言葉に芳苑は頷いた。早速、侍女達は素早く動いて準備を始めたのだった。
夕餉を軽く済ませ、湯浴みも手早くする。寝間着を着て寝所に入った。
布団に潜り込み、瞼を閉じたが。人の気配に気づき、芳苑は起き上がる。
「……あ、起こしてしまったね」
「……旦那様」
「ふむ、よく見たら。あなたはあの夕暮れ時に会った舞姫だね?」
「え、今お気づきになったのですか?」
「うん、その。あの時とは髪型や衣服が違うから、同じ人だとは気づかなかった。すまないね」
そう男性もとい、諒蘭は苦笑いする。芳苑に静かに近づく。
「名も名乗らずにいたから、あなたを探すのに苦労した。やっと、半月前に兄上に訊く事が出来てね。あなたを下賜していただける運びになったよ」
「そうだったのね、私の方こそ失礼しました」
「……あの、芳苑。私の名を呼んでくれないだろうか」
「はあ」
「やはり、駄目か」
諒蘭はそう言って、眉を八の字に下げた。芳苑はまた深く息を吸っては吐き出す。
「……分かりました、あの。諒蘭様」
「うん、芳苑。寒いからそちらに行って良いかな?」
「いいですけど」
芳苑が頷くといそいそと諒蘭はこちらにやって来た。近くで見ると、彼は寝間着に薄い上衣を羽織っただけの薄着だ。気づくと慌てて、布団の中に入らせる。
「あ、手もすっかり冷えきっているわ!」
「別にこれくらいは何て事ないよ」
「それでも、風邪をひくわよ」
諒蘭は芳苑に注意をされると、嬉しそうに笑う。
「諒蘭様?」
「いや、あの時もあなたは私の心配をしていたなと思い出してね」
「……あの時はまだ、諒蘭様の身分も分からなかったから」
「別に今は気にしなくていいよ、あなたは既に私の細君だからね」
「それはそうね」
芳苑が頷くと諒蘭はそうっと抱き締めてきた。王とは違い、諒蘭は額に口付けてくる。この後、芳苑は真の意味で夫婦になったのだった。
――完――




