灰色の戦術
偽りのダンジョンは、フィンがこれまで経験したどの洞窟とも異なっていた。
空気が違う。自然発生ダンジョンに満ちている、ただ純粋な魔力の澱みではない。
ここにあるのは、人間の手によって整えられたかのような建築様式と、そこに塗り込められた、歪んだ信仰心とでも言うべき、粘りつくような悪意だった。
一行が最初の広間へと足を踏み入れた瞬間、その「悪意」は牙を剥いた。
「グルォォォオオオッ!」
闇の奥から現れたのは、一体のミノタウロス。
上半身は牛、筋骨隆々の巨体に巨大な戦斧を構える、この世界でも屈指の危険な魔物だ。
しかし、その様子は明らかに異常だった。紫色の皮膚には、まるで刺青のように不気味な魔術紋様がびっしりと刻まれ、両の目は理性のない、禍々しい魔力の光で満ちている。
「なっ…!ミノタウロスだと!? なぜこんな浅い階層に!」
セラフィナが驚愕の声を上げる。彼女の配下である屈強な騎士たちが、即座に陣形を組み、盾を構えた。
「怯むな! 相手は一体だ!」
騎士たちの連携は、王都の精鋭と呼ぶにふさわしいものだった。
しかし、改造されたミノタウロスの動きは、彼らの常識を遥かに超えていた。
その巨体からは考えられないほどの俊敏さで戦斧を振り回し、異常な再生能力で浅い傷は瞬く間に塞がってしまう。
激闘の末、騎士の一人が致命的な一撃を叩き込み、ようやくミノタウロスは巨体を横たえた。
しかし、精鋭であるはずの騎士たちの肩は、一体の敵を相手にしただけで、すでに荒く上下していた。
「信じられない…! 生きたミノタウロスに、これほど高度な改造魔術を幾重にも施すなど…!」
セラフィナ配下の若い魔道士リアンが、その骸を検め、息を飲む。
「自然発生ダンジョンでは、絶対にありえない…!」
このダンジョンの異常性を、一行は身をもって知ることになった。
次に一行が、何もない長い直線通路に差し掛かった時だった。
フィンの足が、突然縫い付けられたように止まる。脳裏に、足元の床が閃光と共に爆発する「妄想」が浮かび上がった。
「ひっ…!」
彼は、すぐ前を歩いていたセラフィナのマントの裾を、思わず掴んで引き止めていた。
「ど、どうされましたか、賢者殿?」
突然のことに驚くセラフィナ。
「だ、だめです…! この先は、だめ…!」
「しかし、斥候からは何の報告も…」
騎士の一人が訝しげに言うが、セラフィナはフィンの必死の形相を信じた。
「…止まれ! 全員、そこから動くな!」
彼女の号令一下、パーティーの動きが止まる。魔道士のリアンが杖をかざし、フィンの怯える床を丹念に調べると、やがて目を見開いた。
「…魔力反応! これは…巧妙に隠蔽された感圧式の魔法地雷です! 我々の探知魔法では、まず見抜けなかった…!」
騎士たちが息を飲む。
「…対人用の炸裂呪詛だ。踏んでいれば、半径10メートルの人間は呪いを帯びた鉄片でミンチになっていた…即死だったぞ…」とリアンが青ざめた顔で付け加えた。
セラフィナは、恐怖で震えるフィンの手をそっと握った。その瞳には、もはや疑いの色などなく、ただ純粋な畏敬の念だけが浮かんでいた。
次に一行を襲ったのは、角を曲がった瞬間の奇襲だった。
通路の両脇の瓦礫の陰から、黒いローブをまとった者たちが、一斉に剣を抜き放ち襲いかかってきた。
「奇襲だ!」
先頭を走っていた護衛騎士の一人が即座に応戦するが、敵の連携は巧みで、一瞬にして前衛が押し込まれる。
「うわあああっ!」
フィンは、剥き出しの刃を前にして、情けない悲鳴を上げながらその場にしりもちをついた。
ただ恐怖に駆られ、後ずさる。その時、彼の足が偶然、床に転がっていた瓦礫を強く蹴り飛ばした。
瓦礫は、放物線を描いて壁に激突した。
その瞬間、壁に隠されていた古びた仕掛けが作動。天井から巨大な鉄格子が轟音と共に落下し、奇襲を仕掛けてきた者たちと、フィンたちの間を完璧に分断した。
「なっ…!?」
閉じ込められた敵が、呆然と鉄格子を掴む。そのフードがはがれ落ち、狂信的な瞳をした人間の男の顔が露わになった。
「人間…!? なぜだ、なぜ人間がこんな場所に!」
騎士の一人が驚愕の声を上げる。別の騎士が、敵が取り落とした剣を検め、息を飲んだ。
「…見てください、奴らの剣。すべてに即効性の毒が塗られています。掠り傷一つで死んでいた…」
セラフィナは、しりもちをついたまま震えるフィンを振り返り、戦慄した。
(すごい…! 敵が人間であることまで見抜き、殺さずに無力化するため、このダンジョンに元からあった古代の罠を利用したというのか…!)
彼女の中で、「灰色の賢者」の伝説が、また一つ強固なものになる。
そして、一行はついに、分厚い石壁で行き止まりに突き当たった。
「くそっ、行き止まりか! このダンジョン、まるで侵入者の精神を削り殺すための迷宮だ…!」
騎士の一人が悪態をつく。
絶望する騎士たちを前に、フィンも「もう終わりだ…。ここで袋の鼠だ…」と壁に手をついてうなだれた。
その時、彼の手が偶然触れたレンガが、わずかに内側へと沈み込む。
ゴゴゴゴゴ……。
重々しい音と共に、石壁の一部がゆっくりとスライドし、その奥に続く、闇に閉ざされた新たな通路が現れた。
「隠し通路…!」
騎士たちが絶句する中、セラフィナだけは静かに頷いていた。
(…これも、計算通りだと?)
その瞬間、ぞわり、と肌を粟立たせるような、冷たく禍々しい魔力の奔流が、通路の奥から吹き付けてきた。
そして、その風に乗って、微かに、しかし鼓膜にこびりつくような不気味な音が聞こえてくる。
――……L̷u̷m̶i̷n̷a̶.̷.̵.̷s̶h̷a̴d̷o̷w̴.̵.̷.̷g̷r̸a̸c̵e̷……――
複数の男女が、低い声で何かを繰り返し唱えている。それは祈りにも、呪いにも聞こえた。
「…なんだ、この音は。それに、この禍々しい魔力…」
騎士の一人が、思わず剣を握りしめる。
セラフィナは、声を出さずにフィンを背後にかばうと、騎士たちに手信号で「前進」を命じた。
一行は息を殺し、壁伝いに、音のする方へと慎重に進んでいく。
やがて通路が終わり、巨大な空洞へと繋がった。
セラフィナたちが物陰からそっと中を覗き込むと、その光景に息を飲んだ。
広大な空間の中央には、血のような赤い液体で巨大な魔法陣が描かれ、その周囲を黒ローブの者たちが囲み、例の詠唱を続けている。
魔法陣の中心にある祭壇からは、世界そのものに亀裂を入れるかのような、邪悪なエネルギーが立ち昇っていた。
捕らえられた黒ローブの男のローブに刺繍されていた紋章。それと同じ紋章を、彼ら全員が身につけていた。
それを見た魔道士のリアンが、顔面を蒼白にさせて囁いた。
「この紋章は…禁書に記されていたカルト教団…! そして、あの魔法陣の構成…古代禁呪文献でしか見たことがない…。あれは、魂を喰らい、異界の門を開くための召喚儀式だ…!」
セラフィナが全ての点と線を繋ぎ、結論を口にする。
「改造された魔物…人間的な罠…そして、武装した教団員…。そうか、ここはダンジョンなどではない。この儀式を執り行うための…『要塞』なのだ」
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