第四章-5:蘇りし亡霊
セリア地区の防衛線は、既に地獄の様相を呈していた。
ダンジョンブレイクによって溢れ出した魔物の津波は、騎士団が築いた貧弱な防衛ラインを、嘲笑うかのように蹂躏し続けている。
家屋は燃え、石畳は血と泥でぬかるみ、空には絶えず悲鳴と咆哮がこだましていた。
その混沌の中心で、ガルムは、まるで怒れる熊のように戦っていた。
大剣が唸りを上げ、一体また一体と、異形の魔物を肉塊へと変えていく。
彼は、魔物を斬り伏せるたびに、眉間の皺を深く刻んだ。
その瞳には、勝利の喜びではなく、ただ終わりのない消耗の色だけが浮かんでいた。
彼は、若い兵士が傷つくのを見るたびに、まるで自分の体が傷つけられたかのように、一瞬だけ動きを止めた。
蘇った記憶は、彼に力ではなく、深い罪悪感だけを与えていた。
「ガルムさん! 右翼から数が!」
若い兵士の悲鳴のような声が飛ぶ。
ガルムは即座に反応し、その方向へと駆けつけようとした。
その時だった。
空気が、変わった。
戦場の喧騒が、一瞬だけ、遠のいたように感じた。
本能が、警鐘を鳴らす。尋常ではない「何か」が近づいている、と。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
魔物の群れが、まるでモーゼの海のように、左右に割れていく。
その中心を、一体の、異様な存在が、ゆっくりと歩いてきていた。
それは、人の形を保ってはいたが、全身の皮膚が紫黒く変色し、まるで熟しすぎた果実のように、ぶよぶよと膨張と収縮を繰り返していた。
腐臭と、甘ったるい死の匂いが混じり合った、吐き気を催すような異臭が、オーラのように立ち昇っていた。
手には、かつてガルム自身が愛用していたものと酷似した、しかし歪にねじくれた戦斧が握られていた。
そして、その顔。
兜の隙間から覗くその顔を見た瞬間、ガルムの全身の血が、凍りついた。
握りしめた大剣の柄が、ギシリ、と音を立てて軋む。
息が、できない。
カチカチと、自分の奥歯が鳴る音だけが、やけに大きく聞こえた。
その顔は、かつて、彼が最も信頼し、そして、最も残酷な形で裏切られた、元パーティーメンバー
ーー彼の妻と息子を、その手で惨殺した男ーー
ライナス、そのものだった。
「……よぉ、ガルム。久しぶり、だな」
歪んだ口元が、嘲るような笑みを形作る。
その声は、生前の快活さなど微塵もなく、墓場の底から響いてくるような、不快な響きを伴っていた。
ガルムの頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。
蘇った記憶。
妻の最後の笑顔。
息子の、助けを求める小さな手。
そして、血の海の中で嗤っていた、この男の顔。
全てが、灼熱の奔流となって、彼の思考を焼き尽くす。
「………ライナァァァァァァァァァァァスッ!!!!」
ガルムは、防御も、連携も、全てを放棄した。
ただ、目の前の憎悪の対象へと、一直線に突進した。
大剣が、憎悪の色に染まり、紫色のオーラを纏った戦斧と激突する。
凄まじい衝撃波が、周囲の魔物や兵士たちを吹き飛ばした。
だが、ガルムの剣は、戦斧によって容易く受け止められていた。
「…変わらねえな、お前は。力任せなだけだ」
ライナスと同一人物なのかいまだわからないが『それ』は、嘲るように呟くと、戦斧を捻り、ガルムの体勢を崩す。
そして、がら空きになった胴体へ、容赦のない蹴りを叩き込んだ。
「がはっ…!?」
鎧ごと、内臓が揺さぶられる衝撃。ガルムは、砂埃を上げて地面を転がった。
「…なぜだ。なぜ、てめえが、ここにいる…! 俺が、確かに、あの時…!」
ガルムは、血反吐を吐きながら、信じられないものを見る目で、かつての『それ』を見上げた。
「ああ、殺したさ。お前はな」
『それ』は、楽しげに肩をすくめた。
「だが、俺を『ここ』に呼び戻したのは、お前じゃない。…もっと、『上』の、お方だ」
その言葉が意味するもの。
ガルムには、まだ理解できなかった。
だが、それが、自分への、そしておそらくはフィンへの、悪意に満ちた『何か』によって仕組まれたことだけは、本能で感じ取っていた。
「…あの方の、邪魔になる『駒』は、排除しろ、とさ。お前のことだよ、ガルム」
怪物は、再び戦斧を構える。
その動きは、生前のライナスよりも、遥かに洗練され、そして 身震いするかのような殺意に満ちていた。
「さあ、始めようぜ。あの日の、続きを」
ガルムは、震える足で立ち上がった。
憎悪が、心を焼く。
だが、それ以上に、深い絶望が、彼の全身を支配していた。
過去は、終わっていなかった。
いやほじくり返されたと言うべきか。
そして、それは今、最悪の形で、彼の前に蘇ったのだ。




