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幸運で不運な灰色賢者  作者: いちた
第四章 魂の嵐と、三つの戦場

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第四章-2:盤上の警鐘



夜が、静かに深まっていく

ヴァレリウスの執務室を満たすのは、机上の魔導ランプが放つ、青白い光だけだった。


彼は、窓の外に広がる王都の夜景に背を向け、巨大な机に広げられた一枚の羊皮紙


――王都近郊、セリア地区の詳細な地下水路図――


に視線を落としていた。



報告書の分析は、既に終わっている。



決断は、下された。



彼の指先が、地図上の一点、貧民街と貴族街を隔てる古い壁の真下あたりを、ゆっくりと、しかし確信をもってなぞる。



そこは、古の時代に封印されたとされる、不安定な魔力の『歪み』が存在する場所。



彼が長年、密かに調査を進めてきた、計画の要。


(あの小僧が、私の手を動かさせた…)


フィンという、盤上のイレギュラー。



彼の予測不能な成長が、ヴァレリウスの完璧なタイムテーブルを狂わせた。


だが、それはもはや、分析すべき対象ではない。ただ、対処すべき『現実』だ。



計画の前倒し。



それは、リスクを伴う。



準備は万全とは言えない。


犠牲者の数も、当初の想定を上回るだろう。



だが、構わない。


彼は、地図上の『歪み』の位置を、爪先でトン、と軽く叩いた。


その仕草には、まるで熟練の職人が、次の工程を確認するかのような、揺るぎない確信だけがあった。


目的地へと至る道筋が、より険しく、より血塗られたものになったという、ただそれだけの認識。




彼は、ゆっくりと机の引き出しを開け


中から一つの古びたロケットペンダントを取り出した。


銀細工は黒ずみ、長年触れられてきたことを示している。




慣れた手つきで開くと、そこには柔らかな笑顔を浮かべる女性と、その腕に抱かれた、まだ幼い少女の姿があった。



彼の口元が、ほんの一瞬だけ、微かに緩んだ。


だが、次の瞬間には、その痕跡すら消え去り、彼は能面のような無表情でロケットを閉じた。


そして、まるでゴミでも捨てるかのように、引き出しの奥へと放り込んだ。


過去は燃料だ。


感傷は不要だ。



彼は、執務室の隅に控えていた側近――影のように気配のない男――へと、静かに視線を向けた。



その声には、一切の感情の温度がなく、まるで遠い世界の法則を語るかのように響いた。



「セリア地区地下A-7ポイントの『歪み』だ。封印を強制解除し、臨界点まで魔力を注入せよ。手順は、理解しているな?」



側近の肩が、びくりと震えた。


その恐怖は、命令の内容へのものか、それとも命令を下す主の、底知れない非情さへのものか。



「…閣下、しかし、それは市街地に…予期せずとも『ブレイク』の余波が及んだ場合、私の…いえ、市民への被害は…」


「案ずるな」


ヴァレリウスは、側近の言葉を、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで遮った。



「彼らも、大義の一部となるのだ」


その瞳には、人間的な感情の色は欠片もなかった。


ただ、自らの悲願へと続く道筋だけが、絶対的な真実として映し出されている。




「壁となる貧民街の住人は、速やかに『避難』させろ。…もちろん、表向きは、な」


それは、避難ではなく、見殺しと同義だった。



「急げ。時は、もはや待ってはくれん」


「…御意」



側近は、もはや反論する気力もなく、深く頭を下げると、音もなく部屋を退出していった。



一人残されたヴァレリウスは、再び窓の外へと視線を向けた。



眠りについた王都の、無数の灯り。



彼は、眼下に広がるその光を、まるで神が自らの創造物を眺めるかのように、静かに見下ろしていた。


その瞳の奥に、決して消えることのない、昏い炎が揺らめいていた。



「計画を、前倒しする」




「これより、王都の黄昏を始めよう」




その言葉が、静かに、しかし決定的に、王都の運命を告げていた。


本当の嵐が、今、始まろうとしていた。

お読みいただきありがとうございます。

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