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幸運で不運な灰色賢者  作者: いちた
第三章 北の国境と、賢者の初陣

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第三章-11:北の英雄



「…この先に、行きましょう。フィン」

その声は、ひどく掠れていた。




絞り出すように、ようやく紡がれたその一言を口にすることが、かろうじて彼女を騎士セラフィナとして繋ぎとめている、最後の綱だった。




銀色の髪は土と血で汚れ、王都でも屈指と謳われたその端麗な顔立ちは、疲労と最悪の事態を想定する恐怖でこわばっていた。




二人は、落盤と鍾乳石が作り出した無慈悲な岩壁に沿って、向こう側へと続く道を探す。

道中、会話はない。




かつて戦闘があったはずの空間は、耳が痛くなるほどの静寂に支配されていた。自分たちのブーツが瓦礫を踏む音と、浅く、不規則な呼吸音だけが、やけに大きく響く。




その静寂が、フィンの心をじわじわと蝕んでいく。

「あとで謝ろう」

あまりにも楽観的で、愚かで、無責任だった、自分の言葉。

彼は、その呪詛を胸に、ただ黙って、地獄の残骸へと歩を進めるしかなかった。




「フィン!…こちらから行けるようです」

セラフィナの声に導かれ、不規則に積み上がった瓦礫の隙間――人ひとりが、ようやく通れるほどの闇へと、二人は身を滑らせた。




その先にあったのは、地獄だった。




『魂の集合体』は、胸部に巨大な風穴を開けられ、もはや微動だにしない。だが、その至る所に存在する顔からは、オオォォォ、と声にならない呻きが、風のように漏れ出ていた。




(…終わったのか?)


フィンとセラフィナの張り詰めていた緊張の糸が、ほんの少しだけ、緩む。



その直後、怪物は、その形を維持できなくなった。無数の人面が絶望の表情のまま、砂のようにさらさらと崩れ始める。



そして、瓦解した魂の寄せ集めは、おびただしい数のスキルオーブとなって、ガシャガシャガシャ、と、まるで大量のガラス玉をぶちまけたかのような、乾いた音を立てて崩れ落ちた。




その音が止んだ後に現れたのは、陰惨たる事実だった。




肉の焼ける、鼻を突く臭い。その先にあったのは、炭化した、人だったもの。エリアスの最後の魔法が、彼自身を焼き尽くした残骸。




そして、その傍ら。スキルオーブの山の中に、赤い水溜まりが広がっている。そこには、肩の位置から、壊れたおもちゃのようにありえない角度で曲がった、斥候の亡骸があった。




「なんで…なんで、ナンデナンデっ!!!!…うえっ」




その光景が、かつての仲間たちの最期だと、脳が理解することを拒絶する。否定したいから、見てしまう。ぐちゃぐちゃな感情が暴れ出し、酸っぱい何かが喉元まで込み上げてきた。



――助けたかった。僕は、どうにかしたかっただけなんだ。



誰に問われるでもなく、彼は、許しを乞うように、その言葉を吐き出した。




そんなフィンの肩を、セラフィナが力強く抱き寄せた。だが、彼女の瞳もまた、どこか遠くを見ているかのように、その焦点は朧気に揺れていた。




「無事か!!」

どれほどの時間が経ったのか。遅れて、ダリウスと砦の兵士たちが駆けつけてきた。




ダリウスは、まず最初に、二人の亡骸へと近づいた。彼はその凄惨な有様を一瞥すると、表情一つ変えずに、炭化したエリアスの胸元から、かろうじて形を留めていた冒険者のタグを拾い上げた。




「…重い代償だ」




その声には、為政者としての冷徹さと、同じ戦場に生きてきた者としての、わずかな敬意が滲んでいた。



その声で、魂が抜けたように立ち尽くしていたガルムの瞳に、ふっと光が戻った。



彼は、目の前の惨状に、一瞬、理解が追いつかないという顔をした。だが、血の海に沈むセラと、炭化したエリアスの姿を認識した瞬間、彼の顔から、全ての感情が抜け落ちた。




「…あ?」




彼は、まるで夢遊病者のように、エリアスの炭化した亡骸へと歩み寄った。彼はその前に膝をつき、震える手で、かろうじて原形を留めていた魔術師の杖に触れる。




「…おい、エリアス…。嘘だろ…? セラ…? なんなの間違いだろ........お前らまで、そうだよな...嘘だろぉぉぉぉ!!!!」




彼の声は、嗚咽に変わる。



パーティーのリーダーとしての威厳など、どこにもなかった。ただ、家族を失った男の、どうしようもない悲しみが、そこにあった。




「ガルム! 一体、何が起きた!」




ダリウスが問い詰める。その時、フィンの『幸運』が、静かに「代償」の執行を開始した。




ガルムの瞳から、悲しみは消えない。



だが、その原因となった「過程」の記憶だけが、急速に薄れていく。



「…俺たちは、あの化け物に追い詰められて…それで…」




彼の頭の中では、「正体不明の、偉大なる何者か(灰色の賢者)の介入によって、我々は救われた」という、曖昧で、都合の良い伝説が再構築され始めていた。




ガルムは何も答えられない。フィンは罪悪感で口を開けない。



セラフィナが静かに立ち上がった。



彼女は一度だけ、亡骸へと視線を落とし、唇を強く噛んだ。そして、顔を上げた時、その瞳には騎士としての、鉄のような意志が宿っていた。声は、わずかに震えていたが、言葉は淀みなかった。



「――『灰色の賢者』が、奇跡を起こしました。彼が、この者たちの礎の上に、我らに勝利をもたらしたのです」



ダリウスは、結果だけを見て、深く頷いた。



だが、その視線は、セラフィナの報告と、目の前で震える見すぼらしい少年との間の、埋めようのないギャップを、訝しげに見つめていた。



しかし、彼は為政者だった。

過程はどうあれ、結果こそが全てだ。



「聞け! この少年こそが、我らの窮地を救った、北の英雄だ!」



兵士たちから、半信半疑ながらも、歓声が上がる。



歓声が、まるで水の中にいるかのように、くぐもって聞こえる。



兵士たちの笑顔が、自分を責める亡者の顔に見えた。英雄などではない。僕は仲間殺しだと自分を責める。



その罪悪感と孤独の中、そっと、セラフィナが彼の手を握った。その温かさだけが、唯一の現実だった。



ガルムは、仲間の亡骸を前に、ただ泣き崩れていた。歓声も、英雄の誕生も、彼の耳には届いていなかった。



彼は、無意識に、お守りのように懐に入れていた、硬い何かを強く握りしめた。


それは、ゴブリンキングの戦斧から砕け散った、魔法の宝石の破片だった。



彼は、涙に濡れた顔を上げ、歓声の中心にいる、あの見すぼらしい少年――フィンを、憎しみに近い感情で睨みつけた。



(なぜだ…なぜ、俺の仲間たちが死んで、あんなガキが英雄に…)



その、憎悪に満ちた視線が、フィンに突き刺さった、まさにその瞬間。



握りしめた宝石の破片が、フィンの存在に共鳴し、彼の魂に刻まれた傷が、灼けるように疼いた。



ガルムの脳裏に、断片的な映像が、ノイズ混じりにフラッシュバックする。



ーーーゴブリンキング。



ーーー振り下ろされる戦斧。



ーーーーーそして、それが内側から砕け散る、ありえない光景。



「……っ!?」



彼は、息を呑んだ。


記憶は、まだ戻らない。


だが、今見た幻の中、あの奇跡の中心に立っていた、灰色の髪の少年の、小さな背中を、確かに見てしまった。



ガルムの瞳から、悲しみと憎しみが消える。その代わりに宿ったのは、目の前の「英雄」に対する、明確な『疑念』と、底知れない『恐怖』だった。



彼は、震える声で、誰にも聞こえないほど小さく、呟いた。



「……お前は…一体、誰だ…?」

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