第三章-9:臆病者の初陣
時間は、引き伸ばされたゴムのように、不快な緊張感をはらんでゆっくりと流れていた。
フィンの目の前で、セラフィナに振り下ろされる執行人の刃。
その切っ先から彼女の心臓へと伸びる、鮮血のように輝く『死の糸』が、彼の網膜を焼いた。
それは、いつもの「最悪の妄想」とは、違った。
未来を「理解」したのではない。
胃の腑から、冷たい鉄の棒がせり上がってくるような感覚。
世界の音が、一枚の分厚いガラスを隔てたかのように遠くに聞こえ
目の前の光景だけが、嫌というほど鮮明になる。
セラフィナの心臓が、まるで自分の心臓であるかのように、どくん、と大きく脈打ち、その直後に訪れるであろう「終わり」の感覚が、彼の全身を支配する。
それは予知ではなく、死の追体験だった。
――昔までのフィンならば、そこで終わっていただろう。
絶望に呑まれ、目を閉じ、次に訪れるであろう自らの死を待つ。それが、彼という人間の限界だったはずだ。
だが、今のフィンは、違った。
故郷で、孤児院で、何度も味わった喪失の痛み。その全てがフラッシュバックする。
(........神様は、僕から、セラフィナまで奪うのか)
理不尽な怒りが、絶望を焼き尽くす。
「このまま流されて、怯えるのは……もう嫌だっ!」
彼の視線は、もはや目の前の執行人にはない。
戦場の隅、巨大な鍾乳石から垂れ下がる、か細い『綻びの糸』、ただ一点に注がれていた。
彼は、震える手で、足元に転がっていた石ころを拾い上げる。
その鋭利な部分が、指先の皮を裂き、血が滲んだ。
彼は、震える腕を、必死に振りかぶった。
意志に呼応した力が、彼の限界を超えて肉体を動かす。
肩の筋が、ブチリ、と悲鳴を上げた。
「――っ!」
痛みすら感じる余裕もなく、石が手から離れる。
弱々しく、頼りない山なりの軌道を描く、ただの一投だった。
いままで沈黙していた重要人物が動く。
敵味方問わず目を離すことを許さない。吸い込まれる。
その石はさらに奇妙な結果を生み出す。
エリアスたちの戦闘の影響により崩れかかっている壁から『たまたま』落ちてきた岩に弾かれるように、石は軌道を変える。
――まず1つ目の『幸運』。
弾かれた石は『魂の集合体』目掛けて飛び、自らに飛んできた異質なものを、怪物は鬱陶しげにかき消すように弾いた。
あまりの光景に、敵の部隊の一人までもが「っ.......おしい」と反応する。
――そして2つ目の『幸運』。
そうして複数の『偶然』と、それを見守る不思議な時間を経て、石は終着点へと辿り着いた。
カツン。
頼りない音が響く。
思わず耳を澄ませてしまうほど、戦場の全員の視線が、その一点に吸い込まれていた。
――『綻びの糸』が切れた。
天井に、ビキビキビキっ!!と大きな亀裂が走る。石が与えた衝撃を、余すことなく、そして加速させるように。
フィンの想いが、伝わるように。
次の瞬間には、巨大な鍾乳石が、地響きを立てて天井から剥がれ落ちてきた。
その鍾乳石は、最初からそこを狙っていたかのように、セラフィナを蝕もうとする執行人の剣に、完璧なタイミングで激突した。
――『死の糸』が、ちぎれた。
轟音。
鍾乳石の激突は、予想を遥かに超える連鎖崩壊を引き起こし、フィンとセラフィナ、そして負傷した仲間たちとの間に、守るように分厚い岩の壁を作り上げていく。彼らは、完全に分断された。
◇
ーーゼノは、ただ見ていた。
なんてことはない投石。
その様に、失笑すら生ぬるいほどの落胆。人間などこんなものか、という侮蔑的な感情。
そこから始まったことを、かろうじて覚えている。
しかし、目の前に広がっていく光景に、もはや思考が追いつかない。
彼は優秀だった。
優秀であるが故に、目の前の理解できないことを、最大の脅威として瞬時に計算し、絞り出すように、言葉を紡いだ。
「........撤退しろ」
それは、ゼノの、初めての失敗だった。
◇
やがて、粉塵が晴れていく。
セラフィナは、目の前にそびえ立つ絶望的な岩壁と、その向こう側で息を切り、呆然と立ち尽くすフィンを、信じられないものを見る目で見ていた。
(........何が起きているの?)
フィンの頭は、妙に冴えていた。
自らの意志で、誰かを守ったという、初めての感覚。
自らの意志が、仲間の危機を導いたという、その代償。
様々な気持ちが、目の前の光景を前に、フィンの頭を加速させる。
お腹空いた。
かえりたーい。
エリアスさんたち、大丈夫かな。
........あとで、謝ろう。
運命の歯車は、フィンによって、あらぬ方向へと回り始めていた。




