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幸運で不運な灰色賢者  作者: いちた
第三章 北の国境と、賢者の初陣

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第三章-8:英雄の選択



これまでガルムという巨大な防波堤に阻まれていた『改竄者』の兵士たちが、彼の脱落を千載一遇の好機と見て、一斉に、そして無慈悲に、魂の抜けたように立ち尽くすガルムへと殺到した。




「させるか!」

「ガルムさん!」

エリアスと斥候セラが、即座にガルムの前に立ちはだかり、その津波を身を挺して受け止める。



「フィン!離れないで!」

セラフィナも、遠距離からスキル『光の(ライトアロー)』を放ち、敵の注意を引きつけ、二人を援護した。



しかし、パーティーの主軸を失った防衛線は、あまりにも脆かった。三人は、波に洗われる砂の城のように、徐々に、しかし確実に追い詰められていく。



その瞬間、地獄の様相はさらに一変する。

「グオオオオオオッ!」



『魂の集合体』が、エリアスとゼノの部隊が密集する地帯を、区別なく攻撃。


巨大な魂の触手が、戦場を薙ぎ払った。


エリアスは、敵であるはずの『改竄者』の兵士を咄嗟に突き飛ばし、その身代わりとなって濁流に飲まれる。



「ぐ、あああああっ!」

彼の右足に、骨が砕ける鈍い音が響いた。



ゼノの部隊も、数人が魂の濁流に飲み込まれ、悲鳴を上げる間もなく、怪物の肉塊の一部と化した。



「――死ね、化け物が!」

部下を喰われたことに激昂した『改竄者』の一人が、恐怖から、『魂の集合体』へ向けて全力の攻撃魔法、『黒雷』を放つ。



「好機!」

エリアスは、激痛に顔を歪ませながらも、長年の戦闘経験から、その敵の魔法に自らの魔法を、乗せる形で放った。

「――我が魔力、雷光に力を! 『増幅(アンプリファイ)』!」



敵の黒い雷に、エリアスの蒼い魔力が螺旋状に絡みつき、その威力を倍加させる。


増幅された雷撃は『魂の集合体』に直撃し、怪物は苦悶の叫びを上げて、一瞬だけ、その動きを止めた。


戦場にいる全員の注意が、その大爆発と『魂の集合体』の苦悶に一瞬だけ向く。



――ただ一人を除いて。



斥候のセラは、その好機を見逃さなかった。足の怪我の痛みを奥歯で噛み殺し、スキル『影渡り』を発動。



ゼノの部隊の注意が完全に逸れたその背後から、二つの影が、音もなく刈り取られた。



彼女は、プロの仕事を決して忘れていなかった。



だが、敵の数はまだ多い。

セラの奇襲に気づいた残りの兵士たちが、今度こそがら空きになったセラフィナとフィンのラインへと、殺意を倍加させて突撃する。



「しまっ――!」



セラフィナは奮戦する。


だが、たった一人で数人分の殺意を受け止めるのは不可能だった。彼女の目の前で、セラフィナの肩を敵の刃が深く切り裂く。



「――っ!」

激痛に顔を歪ませながらも、セラフィナはフィンの前に立ちふさがり、絞り出すように叫んだ。



「…フィン…逃げて…早く…!」



その言葉が、氷の矢となって、フィンの心臓に突き刺さった。



――逃げて。



その一言が、彼の思考を、彼の世界の全てを、停止させた。

彼は思い出す。



王宮で、馬車の中で、この砦で、自分という存在を唯一「肯定」し、守り続けてくれた彼女の姿を。



初めて、彼の心の中で、天秤が激しく揺らぎ始めた。



「自分の命」と「セラフィナの命」。



これまで、彼の世界では「自分の命」が、他の全てを犠牲にしてでも守るべき、絶対的な最優先事項だった。



しかし、今。目の前で血を流すセラフィナを失うという未来が、「自分が死ぬ」こと以上に耐え難い「痛み」を伴うことに、彼は気づいてしまった。



故郷で、孤児院で、何度も味わった喪失の痛み。その全てがフラッシュバックし、一つの叫びとなる。



「このまま流されて、怯えるのは……もう嫌だっ!」



それは、ほとんど声にならない、魂の叫びだった。



恐怖への「反逆」を告げる、彼の最初の産声。




その魂の叫びが、彼の行動原理を、彼の世界の法則を、根底から覆した。




彼の覚悟に呼応するように、世界の見え方が変わった。




ゼノの部下の一人が、深手を負ったセラフィナにとどめを刺そうと、無慈悲に剣を振りかぶる。




その剣先から、セラフィナの心臓へと、鮮血のように輝く一本の光る糸が、真っ直ぐに伸びているのが、フィンの目にはっきりと見えた。




『死の糸』。




それが、避けられない、死の運命そのものであると、彼は直感的に理解した。




絶望的な未来。死は、もう確定している。




だが、同時に、恐怖に駆られて必死に周囲を見渡した彼の目に、もう一つの糸が見えた。




戦場の隅。これまでの戦闘の衝撃で、根元に無数の亀裂が入った、天井の巨大な鍾乳石。




そこから、今にも切れそうな、か細い光の糸が、まるで助けを求めるように垂れ下がっている。




『綻びの糸』。




彼は、魔法もスキルも持たない。



だが、何をすべきか、初めて明確に「理解」した。

恐怖ではない。妄想でもない。


確かな「意志」として。



彼は、震える手で、足元に転がっていた、ただの石ころを拾い上げた。



その瞳には、もはや怯えるだけの少年の光はなかった。

絶望の闇の底で、初めて見つけた、たった一つの希望を、決して見失わないと誓う、英雄の光が宿っていた。

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