第三章-7:魂の鏡
「それら」は突如として世界に降り立った。
様々な絶望、後悔、生への渇望を滾らせて目の前のものを食らった。「それら」はどんどん大きくなり、比例して力を増していることに気づく。
ああ、この力があれば。
富が、名誉が、守護が。
タイセツナヒトヲ、アイシテイルヒトヲ。
「それら」にもう人として構成している大切な何かは備わっていない。
全ては後悔を、欲を、絶望からの脱却を。
とても原始的な思考である「生きるため」という考えで一歩を踏みしめる。
ああ、目の前にさらなる力が転がっている。
食いたい、食おう、食べよう、食べたいわ。
皮肉にも「それら」の思考はひとつに束ねられた。
ーー地獄が始まった。
フィンの頭の中では、黒い服の男たちに刺されるビジョン、斬られるビジョン、踏みつけられるビジョンが、ひっきりなしに再生され続けている。
鋭く、明確な『殺意』の槍が、彼の精神を串刺しにしていた。
だが、奇妙なことが一つだけあった。
あの、戦場の中心で全てを飲み込もうとしている巨大な肉塊。あの冒涜的な怪物からだけは、何も『見え』なかったのだ。
殺されるビジョンが、ない。
攻撃される妄想が、ない。
そこにあるのは、未来予知などではない、もっと原初的な、ただ「そこに在るだけで、世界が間違っている」と感じる、方向性のない『絶望』の濁流だけだった。
なぜだか分からない。だが、フィンは本能的に理解していた。
黒い服の男たちは、自分を殺しにきた「敵」だ。
だが、あの怪物は違う。あれは、敵ですらない。
あれは、この世の終わりそのものだ、と。
戦場は、混沌を極めていた。
『魂の集合体』は、意思のない災害のように、最も近くにいる『改竄者』や「鉄の爪」のメンバーを無差別に攻撃する。
エリアスが必死に展開した魔法障壁は、肉塊から伸びた無数の腕の一撃で、ガラスのように砕け散った。
斥候のセラは、飛び散った障壁の破片で足を負傷し、持ち味である速さを奪われる。
その混沌の中、『魂の集合体』は、戦場で最も強く、最も歪んだ魂の輝きを放つ存在に「気づいた」。
それは、過去にフィンと共に戦った際に刻まれた『魂の傷』を持つ、ガルムだった。
怪物の、無数にある人面が、一斉にガルムの方を向く。あれほど騒がしかった怨念の合唱が、一瞬だけ、ぴたりと止んだ。
まるで、最高の獲物を見つけたかのように。
「――ッ!?」
ガルムは、自分に向けられた圧倒的なプレッシャーに、本能的な恐怖を感じた。
次の瞬間、『魂の集合体』の肉塊が、ガルムの魂に共鳴し、おぞましい変質を始める。
その醜悪な肉体の一部が、ガルムの記憶にある、最愛の息子の姿に「擬態」していく。
それは綺麗な幻ではない。
タールのような肉塊から、小さな子供の姿が、苦しそうに、引き剥がされるように現れる。
その姿は不安定で、生前の、虫を見つけてはしゃいでいた頃の無垢な笑顔を見せたかと思えば、次の瞬間には、血にまみれた苦悶の表情に歪み、集合体の肉に引きずり込まれるように消えかける。
そして、ガルムの耳にだけ、声が届いた。
幸福だった頃の「父ちゃん、見て! カブトムシ!」という、忘れるはずのない声。
それと同時に、彼の罪悪感そのものである、冷たい声が。
「痛いよ… 父ちゃん… なんで助けてくれなかったの…?」
完全に、動きが止まった。
歴戦の猛者の顔から全ての表情が消え、ただ、目の前の悪夢を見つめていた。大剣が、カラン、と乾いた音を立てて手から滑り落ちる。
攻撃すれば、息子の魂を、自分の手で二度殺すことになる。彼は、自分自身の後悔から生まれた幻影に、心を殺されたのだ。
彼はただ、息子の幻影に向かって、声にならない声で呟き続けることしかできなくなった。
「すまない…すまない…俺が…」
パーティー最大の戦力が、最も無力な存在へと成り下がる。
その一瞬の隙を、ゼノが見逃すはずもなかった。
彼は、何も言わず、ただ無言で顎をしゃくった。それが、総攻撃の合図だった。
ガルムという壁を失ったことで、戦線は完全に崩壊した。
ゼノの部隊が、がら空きになったセラフィナとフィンの元へ殺到する。
同時に、『魂の集合体』から伸びた、おびただしい数の魂の触手が、負傷して動けないエリアスと斥候セラに、まるでご馳走に群がるように迫っていた。
ガルムぅぅううう




