第三章-6:魂の掃き溜め
静寂を破ったのは、臓腑を震わすようなガルムの咆哮だった。
「――オオオオアアアアッ!」
それは勇者の雄叫びではなかった。追い詰められた獣が、己の死を覚悟して放つ、血と鉄の匂いがする絶叫だった。
それを合図に、「鉄の爪」とセラフィナが同時に動く。しかし、それは戦闘と呼ぶにはあまりに一方的な「蹂躙」の始まりに過ぎなかった
「スキル『剛腕Ⅳ』、起動!」
ガルムの右腕が、ありえないほどに膨張する。革のプロテクターが軋み、血管が浮き出た前腕は、もはや人間のそれではなく、オークの丸太のようだった。
その質量を乗せた大剣が、城壁すら砕く轟音と共に、黒装束の男へと叩きつけられる。
だが、男は、まるで子供の腕をいなすかのように、手にした短剣一本でその切っ先を受け流した。
甲高い金属音が響き、ガルムの腕に凄まじい衝撃が走る。最小限の動きで力を逸らされ、体勢を崩したガルムの脇腹に、別の兵士の的確な蹴りがめり込んだ。
「ぐっ…!?」
斥候のセラは、スキル『影渡り』で床の影から影へと無音で移動し、敵の背後に回り込んでいた。
急所である首筋に、スキル『毒牙』を付与した刃を突き立てようとする。だが、敵は振り返ることすらなかった。
ただ、後ろ手に持った籠手が、セラの刃を寸分の狂いもなく弾き返す。まるで、背中に目がついているかのように。
「――集え風よ、敵を穿て! 『三重連風刃』!」
エリアスが放った三連の真空波は、しかし、目標に届く前に霧散した。敵の一人、魔族の男が、指先一つで対抗魔術を瞬時に展開したのだ。詠唱すら必要としない、圧倒的な技量の差。エリアスの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。
彼らは、一つの生き物だった。
一切の無駄口を叩かず、アイコンタクトすらせず、ただ互いの役割を完璧に理解し、連携する。
一人が防御すれば、二人が死角から攻撃する。一人が魔法を妨害すれば、別の一人が致命傷を狙う。
それは、冒険者のそれとは次元が違った。戦場で、ただ敵を殺すためだけに最適化された、殺戮の機構。
彼らの攻撃は、急所を狙うというよりは、関節や腱を破壊し、戦闘能力を奪うことに特化していた。プロの冒険者が、まるで素人のようにあしらわれていく。
その光景は、フィンがこれまで見てきたどんな戦闘よりも、冷たく、そして絶望的だった。
「――スキル『光刃』!」
その中で、唯一拮抗して見えたのがセラフィナだった。聖なる光をまとった彼女の剣技は、かろうじて敵の猛攻を防いでいた。だが、それだけだった。
彼女の目的は敵を倒すことではない。
恐怖で凍りつき、壁際で小さくなっているフィンの前に立ち、決して退かないこと。
彼女という生きた盾がある限り、敵の刃はフィンには届かない。
フィンの脳内では、そのセラフィナが敵の刃に貫かれる「最悪の妄想」が、もはや現実と区別がつかないレベルで再生され続けていた。
「――終わりだ」
『改竄者』の一人が、初めて、感情のない声を発した。
彼はセラフィナの防御の隙を突き、その刃はついに、彼女の背後で震えるフィンの喉元へと迫る。
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ…!
けたたましい地響きと共に、区画の壁が、蜘蛛の巣のような亀裂を走らせ、内側から崩落した。
壁の向こうから現れたのは、新たな通路ではなかった。
おびただしい数の「スキルオーブ」が、濁流のように溢れ出したのだ。
赤く、青く、緑に輝く魂の結晶が、まるで滝のように戦場へと流れ込む。
しかし、その光景に美しさは欠片もなかった。
オーブとオーブの間を、魂の残滓であるエクトプラズムが接着剤のように繋ぎとめ、砕けた武具の残骸を巻き込みながら、それは冒涜的な魂の土石流となって戦場を飲み込んだ。
「たすけて」「なぜだ」「かえりたい」「いたい」
無数の苦悶の声が、一つの合唱となり、ダンジョンに響き渡る。
土石流は、戦場の中央で渦を巻き、一つの醜悪な怪物を形成していく。
スキルオーブが溶け合い、粘着質なタールのような肉塊となる。
その表面から、まるで巨大な腫瘍のように、無数の人間の顔が、苦悶の表情のまま浮き出ては沈んでいく。
肉塊から突き出た腕は、錆びついた剣を握りしめ、胴体からは砕けた盾が骨のように突き出ている。
それは、生命ではなかった。
死にきれなかった魂たちが、互いを喰らい合い、寄り集まっただけの、巨大な墓標。『魂の集合体』が、ついにその姿を現した。
ふいに、その肉塊から浮き出た人面の一つが、隣の人面に、ぐじゅり、と肉が裂けるような音を立てて食らいついた。
それを引き金に、惨劇は呼応するように連鎖した。
隣り合う人面が、そのまた隣の人面へ。
下にある腕が、その上にある胴体へ。互いを喰らい、吸収し、その冒涜的な巨体を、まるで飢えた赤子のように、みるみるうちに膨張させていく。
「な、なんだ…ありゃあ…!?」
ガルムが呆然と呟く。
その混沌の化身は、最も近くにいた『改竄者』の兵士を、その不定形の体で捕らえた。
兵士は抵抗するも、まるで蟻地獄に引きずり込まれるように、その肉体に取り込まれていく。断末魔の悲鳴すら、怨念の合唱にかき消された。
その光景を見て、『改竄者』のリーダー格であるゼノが、初めて忌々しげに舌打ちし、こう呟いた。
「…チッ、観測者の狗が生み出した、忌まわしい魂の掃き溜めめ」
状況は、一瞬にして地獄へと変貌した。
「鉄の爪&セラフィナ」 vs 「改竄者の精鋭部隊」 vs 「ダンジョンボス」。
もはや、敵も味方もない。三つの勢力が互いを滅ぼそうとする、完全な三つ巴の戦場が、この偽装された回廊に完成した。
パーティーは分断され、為すすべもなく立ち尽くす。
その中心で、フィンはただ、目の前の地獄を映し、震えることしかできなかった。




