王都からの来訪者
ギルドの片隅、冷たい壁に額を押し付けていたフィンは、やがて顔を上げた。
胸の奥で、空虚な風がまだ吹き荒れている。自分が忘れられることは、過去の悪夢に比べればマシだと、頭では理解している。
しかし、それでもなお、心の奥底で僅かに期待していた「絆」の残滓が、完全に打ち砕かれた痛みに、フィンは呼吸を詰ませていた。
(僕は、独りだ。これからもずっと、このまま……)
そんな諦念が、彼の全身を覆っていく。
ふと、彼のすぐそばで、ギルドの喧騒とは明らかに異なる、凛とした足音が止まった。
フィンは、無意識のうちに身を縮める。誰かの視線を感じる。それは、侮蔑や無関心とは違う、熱を帯びた、まるで何かを試すかのような、鋭い視線だった。
おそるおそる顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れない人物だった。
輝くような銀の長髪をポニーテールに結い上げ、王都の貴族が身につけるような上質な騎士の鎧をまとった若い女だ。青い瞳には強い意志が宿り、細身ながらもその立ち姿には、ただならぬ風格が漂っている。
この街の冒険者とは一線を画す、気品と威厳。
女騎士は、フィンの灰色の髪を一瞥すると、その瞳に確信の色を宿らせた。
そして、まっすぐフィンを見据え、その凛とした声で問いかけた。
「あなたですね? どんな罠も見抜き、オークの群れを魔法一つで消し去ったという、伝説の『灰色の賢者』は」
フィンの心臓が、今度は恐怖で跳ね上がった。
「は、はい!? い、人違いです! 僕はただの荷物持ちで、臆病者で…!」
必死に首を横に振る。そんな大それた二つ名、聞いたこともない。それに、自分がオークをどうにかしたという事実も、何かの間違いだろう。あの時はただ、死にたくなくて、石を投げただけだ。
しかし、女騎士はフィンの狼狽ぶりを、冷静な視線で分析する。その瞳には、侮蔑でも同情でもなく、まるで高みに立つ存在を測るかのような、探究心が宿っていた。
「なるほど。自身の力をひけらかさず、謙遜するとは。噂通りですね」
彼女の言葉は、フィンの必死の否定を、完全に「高潔な人物の謙遜」だと盛大に勘違いしているようだった。
女騎士は、ゆっくりと片膝をつくと、フィンの目線まで身をかがめた。
「私はセラフィナ・フォン・ルミナス。アストリア王国の特務騎士です。そして、我がルミナス公爵領は今、未曾有の危機に瀕しています。王国の騎士団さえも退けた、謎のダンジョン。その解決の最後の望みとして、私はあなたの力を借りに来ました」
彼女の言葉には、一片の迷いも嘘もなかった。
フィンは、絶句した。王国の特務騎士。公爵令嬢。そして、彼が最も恐れる「ダンジョン」という言葉。
「ま、待ってください! 僕はそんな大それた者じゃありません! 本当に、ただの荷物持ちなんです! ダンジョンなんて、死ぬのは嫌だ、帰りた……」
恐怖に支配され、半泣きになりながら絞り出すフィンの言葉は、しかし、セラフィナの耳には届かなかった。
セラフィナは、フィンの言葉を最後まで聞かず、ゆっくりと立ち上がった。その銀色の髪が、ギルドの薄暗い光を反射して輝く。
「噂は二つあります、『灰色の賢者』について。一つは、どんな難局も覆す『救世主』であるという、輝かしい功績(白)」
彼女はそこで一度言葉を切り、続ける。
「もう一つは、目的のためなら仲間さえも囮に使う、非情な『策略家』であるという、残酷な功績(黒)」
(仲間を、囮に…?)
その言葉が、フィンの鼓膜を突き刺した。脳裏に、過去の光景が蘇る。燃え盛る村、死んでいった仲間たち、そして、たった一人だけ生き残った自分に向けられる、憎悪と軽蔑の視線。
『疫病神』『卑怯者』。
彼を責め立てた声が、幻聴のように響く。目の前の騎士が語る『英雄譚』は、フィンにとっては、ただの悪夢の繰り返しでしかなかった。
セラフィナは、フィンの顔色がさらに青ざめたことにも気づかず、あるいはそれすらも計算の内だと解釈し、内心で深く頷いていた。
(……そうか。これが、『賢者』の背負う痛みか)
彼女は、フィンの反応をトラウマの発露だとは微塵も思わなかった。
(凡俗な人々は、結果だけを見て、その采配を『残酷』と呼ぶ。しかし、彼は違う。その一手一手の裏にあったであろう、数えきれないほどの犠牲と、切り捨てなければならなかった命の重みを、今この瞬間も、たった一人で背負っているのだ)
その青ざめた顔は、私に責められたからではない。私の言葉が、彼の古傷に触れてしまったのだ。なんという……なんという孤高。
彼女は確信を深め、言葉を続けた。
「人々は、あなたのことを純粋な白でも、完全な黒でもない…だからこそ『灰色』の賢者と呼ぶ。私は、私の目で、あなたが何者なのかを確かめたいのです」
その声には、一切の妥協がなかった。
「あなたに、我がアストリア王国の命運を託します」
王国の命運。
その重すぎる言葉が、フィンの頭上で雷鳴のように響いた。
彼は、逃げ場を失った小動物のように、ただ震えることしかできなかった。
絶望と、抗いがたい運命の気配が、彼の全身を絡め取る。
(どうして……どうして、こんなことに……)
フィンは、王都からの来訪者であるセラフィナ・フォン・ルミナスによって、その小さな手で、望まぬ大きな舞台へと引きずり出されていくのだった。




