第三章-4:賢者の投石
早朝のダンジョン入り口は、不吉な沈黙に満ちていた。
それは、自然にできた洞窟ではなかった。
岩肌に無理やり穿たれた巨大な顎のように、この地のものとは思えない黒い石材で縁取られている。
その表面に刻まれた幾何学的な文様は、見る者に不快感を与える、異質な魔力の気配を放っていた。
入り口周辺の地面は焼け焦げ、打ち捨てられたバリケードの残骸や、折れた矢が散乱している。
乾いた血と、オゾンに似た魔力の燃えカスの匂いが混じり合い、ここが単なる魔物の巣ではなく、知性ある敵との激しい攻防が、昨日まで繰り広げられていた最前線であることを物語っていた。
一睡もできずに顔面蒼白となったフィンは、もはや自分の意志で立っていることすらできず、セラフィナに腕を引かれるまま、絶望の淵へと歩を進めていた。
「斥候はセラ、お前が先行。エリアスは中衛で魔術警戒。俺が前衛だ」
ガルムは、プロとして淡々と役割分担を説明する。
その声は、意図的にフィンを勘定に入れていない。だが、その視線は何度も、死人のようなフィンの挙動を苛立たしげに追っていた。
「…足手まといにならないでくださいね」
先行するセラが、すれ違いざまに冷たく言い放つ。プロとしての彼女のプライドが、素人、それもこれほど怯えきった少年をパーティーに加えることを許せなかった。
「素晴らしい! 賢者の戦術を、これほど間近で観察できる機会はまたとない!」
ただ一人、エリアスだけが、これから始まる未知の観測に目を輝かせている。
パーティー内の空気は、最悪だった。
ダンジョン浅層部に侵入すると、セラの動きは水を得た魚のようだった。
「待って。ワイヤーです」
彼女は床の僅かな違和感を見抜き、手際良く罠を解除してみせる。そして、チラリとフィンの方を見て、「これがプロの仕事です」とでも言いたげな、侮蔑の視線を向けた。
その頃フィンは、プロの仕事など全く目に入っていなかった。
彼の恐怖のセンサーは、もっと別の、生存には全く関係のないものに反応していた。
(うわ、あの壁のシミ、人の顔に見える…絶対呪われる…)
(床の苔がぬるってしてる…この下、絶対なんかいる…)
彼は、常に何かに怯え、ブツブツと呟きながら、セラフィナのマントを固く握りしめているだけだった。
その常軌を逸した奇行は、「鉄の爪」のメンバーの苛立ちを加速させるだけだった。
一行は、一見すると何でもない、ただの広い通路に差し掛かる。
セラの偵察でも、罠の反応は一切ない。
彼女が「問題ありません、進みましょう」と、パーティーに合図した、まさにその瞬間だった。
フィンの足が、縫い付けられたようにピタリと止まった。
彼の「最悪の妄想」が映し出したのは、天井の崩落などではない。もっと個人的で、彼にとって耐え難い恐怖――天井の隅の暗がりから、拳ほどの大きさの、毛むくじゃらの蜘蛛が、自分の顔めがけて糸を垂らして降りてくるという、鮮明すぎるビジョンだった。
「い、いやああああ!クモ!でっかいクモがあああ!」
淑女もかくやという甲高い悲鳴が、ダンジョンに響き渡った。
フィンは、恐怖のあまり半狂乱になり、足元に転がっていたただの石ころを拾うと、妄想の中の蜘蛛がいるはずの、天井の暗がりに向かって、やけくそで投げつけた。
「いい加減にしろ、このガキ!」
ガルムの怒声が飛ぶ。だが、その声を、セラフィナの鋭い警告が遮った。
「違う! これは彼の神託だ! フィンは、我々には見えない『世界の綻び』を、彼の精神を蝕む『蜘蛛』という形で見ている! 全員、衝撃に備えろ!」
セラフィナは、フィンの錯乱を、彼が巨大な力の代償として正気を失っている悲劇的な姿だと「超解釈」し、即座に剣を抜いて防御態勢を取った。
彼女の、フィン個人への絶対的な信頼からくるあまりの真剣さに、「鉄の爪」のメンバーも戸惑いながら、反射的に身構える。
フィンが投げた石は、大した勢いもなく、天井の一点に「カツン」と虚しく当たった。
もちろん、そこに蜘蛛などいない。
だが、その次の瞬間だった。
石が当たった一点を中心に、天井全体に、まるで蜘蛛の巣のような亀裂が走り始めた。
彼らがいた通路は、巧妙な音響感知式のゴーレムトラップだったのだ。
通常ならパーティー全員の足音や会話の反響で起動するはずの罠が、フィンの石が発した「特定の周波数の衝撃音」という、たった一つの音にだけ反応し、起動してしまったのだ。
しかし、起動は不完全だった。ゴーレムは現れず、動力源である天井の魔法石が連鎖的に暴走。
通路全体が崩落する前に、安全な入り口側だけが先に崩れ落ち、彼らの退路を完全に塞いでしまった。
結果として、「罠は無力化され、退路は断たれ、進む以外の選択肢がなくなった」。
目の前の光景に、全員が絶句する。
静寂の中、二つの、全く異なる「解釈」が同時に生まれた。
「…まさか!」
エリアスが、興奮に震える声で叫んだ。
「彼は罠の存在を読んでいたのではない! 罠の『起動キー』となる音響周波数を、ただの一投で見抜き、最小限の衝撃で暴走させ、無力化したというのか! しかも、我々の退路を断つことで、迷いを断ち切らせる…! これは斥候ではない、軍師の采配だ!」
エリアスは、フィンの行動を「超高度な計算に基づく、冷徹な戦術」と解釈した。
だが、セラフィナは静かに首を振った。
彼女は、崩落の衝撃で本当に蜘蛛が落ちてこなかったか、キョロキョロしているフィンを見つめ、確信を込めて呟いた。
「…エリアス殿、あなたは何も分かっていない。あれは計算などではない…。フィンは、我々の命を救うため、自らの精神が砕け散るほどの『苦痛』をその身に受け、神託を我々に伝えてくれたのだ。あの石は、戦術などではない…彼の魂の悲鳴そのものだ」
セラフィナは、フィンの行動を「自己犠牲を伴う、聖者の奇跡」と解釈した。
ガルムと斥候のセラは、この二人の完璧だが全く食い違う解説を同時に聞き、もはや何が真実なのか、思考が完全に停止する。
ただ、自分たちの常識が通用する存在ではないことだけを、骨の髄まで理解させられた。
妄想の中の蜘蛛は消えた。だがフィンにとって、それはさらなる緊張の始まりに過ぎなかった。
他の虫は? 次は何が来る? 必死に次の脅威を探す彼の瞳には、自らが巻き起こした畏敬と混乱の嵐など、全く映っていなかった。
おっきい虫って全て怖いよねえ。。。




