第三章-3:賢者の『待機』
ガルムさんが言ってるのはプロローグのことです。。
グレイロック砦の一室は、凍てついた墓場のような沈黙に支配されていた。
作戦立案に使われるであろうその部屋には、フィン、セラフィナ、そして「鉄の爪」の三人が、辺境伯ダリウスの命令で待機させられていた。
フィンは、部屋の隅で壁のシミになりきろうと必死だった。
息を殺し、気配を消し、石のように動かない。彼の全神経は、ただ一つ、部屋の中央に立つ三人の冒険者――特に、リーダーであるガルムから、いかにして意識を逸らすかという点にのみ注がれていた。
(かえりたーい…かえりたーい…かえりたーい…)
心の中で念仏のように繰り返すが、その願いが届くはずもなかった。
「……」
ガルムは、腕を組み、忌々しげな顔でフィンの姿を観察していた。
(なんだってんだ、このガキは…)
先ほどから脳裏をちらつく「砕ける宝石」の幻。
その意味不明なビジョンと、目の前で小動物のように震える少年が、どうしても頭の中で結びついて離れない。
その苛立ちが、ガルムの思考を鈍らせる。
常識的に考えれば、ただの臆病風に吹かれた少年だ。だが、その常識で片付けるには、魂の疼きがうるさすぎた。
(…何かを隠してやがる。この異常な怯え方は、俺たちを欺くための芝居…だとしたら、とんでもねえ役者だぜ)
斥候のセラは、また別の角度からフィンを分析していた。プロの「眼」は、フィンの怯え方が、単なる恐怖心からくるものではないことを見抜いていた。
筋肉の硬直、呼吸の浅さ、瞳孔の動き。それはまるで、過去に私たちに殺されかけたことがある、とでもいうような、原初的な恐怖だった。
だが、それもおかしい。私たちは彼と会うのは今日が初めてのはずだ。ならば、彼は一体何者なのだ?
王都から来た『灰色の賢者』。
あのセラフィナ様が、あれほどまでに信奉する謎の英雄。その『伝説』と、目の前で震えているだけの哀れな『現実』が、彼女の頭の中で激しく衝突する。
どちらかが、嘘だ。
彼が、我々の想像を絶する大物で、この怯えすらも計算された演技なのか。それとも――王家とセラフィナ様が、ただの少年を英雄に仕立て上げているのか。
どちらにせよ、常軌を逸している。
目の前の少年は、彼女がこれまで培ってきた経験則という名の物差しでは、決して測ることのできない存在だった。
「――なるほど、理解した」
不意に、魔術師のエリアスが、一人納得したように小さく頷いた。
「ガルム、セラ。君たちの直感的な反応は、時に有効だが、本質を見誤る危険も孕んでいる。彼のこの状態は、心理的錯乱などではない。これは、高度な情報戦における『待機』という戦術だ」
「あぁ? 待機だぁ?」
「そうだ。彼は今、自らの気配を完全に遮断し、この場の空気の流れ、魔力の淀み、我々の視線の動きや呼吸のリズムといった、あらゆる情報を肌で読み取っているのだ。次に起こるべき事態に備え、膨大な情報を処理しているが故の、一種の瞑想状態と見るべきだ」
エリアスは、自らの導き出した(全くもって見当違いの)結論に、知的な興奮を覚えていた。
未知の戦術体系を解明する。
それこそが、探求者としての彼の本能を最も強く刺激するのだった。
三者三様の、全く噛み合わない分析が交錯する中、部屋の重い扉が軋みながら開いた。
ダリウスが入室し、その場の空気がさらに張り詰める。
「集まっているな」
ダリウスは、部屋の隅で石化しているフィンを一瞥すると、興味を失ったように鼻を鳴らし、中央のテーブルに広げられていた大きな地図を広げた。
「現状を説明する。敵の攻勢は苛烈だ。こちらの動きは、まるで全て読まれているかのように、的確に裏をかかれ続けている。敵の指揮官は、相当な手練れだ」
その言葉に、フィン以外の全員が息をのんだ。ダリウスが「手練れ」と評する相手。その脅威は計り知れない。
「特に厄介なのが、この『嘆きの渓谷』と呼ばれる地点だ。ここを突破できれば、敵の補給路を断つことができる。だが…」
ダリウスは、地図上の一点を、太い指でトン、と叩いた。
その瞬間だった。
フィンの脳内で、限界まで張り詰めていた恐怖の糸が、ぷつりと切れた。
(もう、だめだ…!)
彼の「最悪の妄想(未来視)」が、この部屋から脱出するためのあらゆるルートを、同時に、超高速でシミュレーションし始めたのだ。
扉から出れば、廊下で待ち構えていた兵士の槍に心臓を貫かれる。
窓から飛び降りれば、着地に失敗して足を折り、動けなくなったところを魔物に食われる。
セラフィナの後ろは? ダメだ、彼女ごとダリウスに斬り捨てられるビジョンが見える…!
安全な場所はどこだ。どこなら生き延びられる!?
そして、彼の生存本能が、たった一つの最適解を弾き出した。
――ここだ。この、分厚いオーク材でできた、重厚なテーブルの「下」ならば!
ダリウスが「だが、この一点こそが、我らにとっての死地であり、同時に…」と、最も重要な言葉を続けようとした、まさにその刹那。
フィンは、誰の目にも止まらぬほどの速度で、部屋の隅から駆け出し、テーブルの下へと滑り込んだ。
彼の切羽詰まった行動は、一つの奇跡的な勘違いを生む。
彼が床に手をつき、滑り込んだその右手が、ダリウスが指し示していた『嘆きの渓谷』のド真ん中を、ピタリと、寸分の狂いもなく押さえていたのだ。
「――っ!?」
部屋にいた全員が、息をのんだ。
ダリウスの言葉が、驚愕と共に途切れる。
まるで、神の啓示を受けたかのように。
まるで、指揮官の言葉の続きを「ここだ」と示すかのように。
フィンの手が、完璧すぎるタイミングで、地図上の最重要攻略地点を指し示していたからだ。
「……貴様」
ダリウスの、絞り出すような声が響いた。
「なぜ…なぜ、ここが重要だと分かった…?」
テーブルの下で、両手で頭を抱えて震えながら、フィンは途切れ途切れに答えた。
「い、いえ…その…ここが…いちばん、あんぜん、かなって…」
「――ッハ! そういうことか!」
その言葉の意味を、エリアスだけが天啓を得たかのように叫んだ。
「なるほど! まさに逆転の発想! 最も危険な一点、敵も味方も最も警戒する死地こそが、全ての戦術が一点に集中するが故に、逆に、世界の理から見れば最も動きのない『安全』な場所となる! 灯台下暗し…! 敵の思考の裏の、さらにその裏をかくというのか! なんという深遠な戦術眼だ…!」
ガルムとセラは、もはや言葉もなかった。
目の前で起きている超常現象が、自分たちの理解の範疇を遥かに超えていた。
ダリウスは、テーブルの下で震える少年と、地図上の自分の指を交互に見比べ、しばし絶句していたが、やがて、獰猛な笑みを浮かべた。
「…面白い。実に、面白い」
彼は、フィンの力を半信半疑ながらも、その「結果」を認めざるを得なかった。
「よかろう。次の斥候任務、貴様も『鉄の爪』に同行させろ。その『賢者』の力が、本物かどうか、この目で見極めてやる」
それは、フィンにとって、死刑宣告に等しい命令だった。
テーブルの下で、彼の声なき絶叫が、誰にも届かずに響き渡っていた。




