第三章-2:北の砦と、二度目の絶望
フィンが自らの過去を告白した、あの夜から数日。
彼とセラフィナを乗せた馬車は、王都の華やかさが嘘のような、荒涼とした北の荒野をひた走っていた。
窓の外を流れるのは、痩せた木々と、灰色の大地だけ。時折、遠吠えのような風の音が、馬車の隙間から吹き込んでくる。
フィンは、その音にびくりと肩を震わせながら、膝の上で固く手を握りしめていた。
セラフィナは、そんな彼の隣で、静かに書物を読んでいた。
しかし、その視線は時折、フィンの横顔へと注がれている。
その瞳には、以前のような「賢者」への期待だけでなく、彼の心の傷を気遣うような、温かい色が混じっていた。
彼女は、あの日以来、フィンの「呪い」について、何も尋ねなかった。ただ、時折、フィンの存在を確認するかのように、静かに名前を呼ぶだけだった。
「フィン」
「…はい」
「…いえ、何でもありません」
その短いやり取りだけが、フィンにとって、自分がまだこの世界に「存在している」ことを証明する、唯一の光だった。
やがて、地平線の先に、巨大な壁が見えてきた。
アストリア王国の最北端、グレイロック砦。
何世代にもわたり、北からの脅威から王国を守り続けてきた不落の盾。その石壁は、歴戦の騎士たちの血と、長い冬の厳しさによって、黒く染まっている。
馬車が砦の門をくぐると、フィンは息を飲んだ。
そこは、王都とはまるで違う、剥き出しの戦場の空気が満ちていた。
城壁には、魔物の爪痕が無数に刻まれ、応急処置の木材が痛々しく打ち付けられている。
行き交う兵士たちの鎧はへこみ、その顔には深い疲労の色が浮かんでいた。野戦病院と化した広場には、傷ついた兵士たちのうめき声が響き、死の匂いが、消毒薬の匂いと混じり合って鼻をついた。
(…ひどい)
それは、フィンがかつて経験した、故郷が滅いる日の光景を、嫌でも思い出させるものだった。
「セラフィナ様! よくぞご到着されました!」
一行を出迎えたのは、まるでこの砦の岩壁から削り出されたかのような、一人の老将だった。
その声は、地の底から響くような低い唸りを含み、耳に届くというより、腹に直接響いた。
白髪にこそなっているが、その体躯は老いを感じさせず、分厚い胸板は、長年重ね着たであろう歴戦の鎧の形をしていた。辺境伯ダリウス。
彼の顔に刻まれた深い皺よりも、むしろ鼻や耳に残る無数の凍傷の痕こそが、彼が生き抜いてきた戦場の苛烈さを雄弁に物語っていた。
彼の視線が、セラフィナの後ろに隠れるように立つフィンへと移る。その瞳は、厳しい冬の空のように、冷たく、そして鋭かった。
「…して、そちらの少年が?」
「はい。国王陛下の命により、この度の危機を解決すべく、ご助力いただくことになりました。最高顧問、『灰色の賢者』フィン殿です」
ダリウスは、フィンの頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように、じろりと見た。その視線に、フィンは蛇に睨まれた蛙のように硬直する。
(怖い…)
「…ふん」
ダリウスは、鼻で笑った。
その声には、隠しきれない失望と、冷え冷えとした侮蔑の色が滲んでいた。
「噂の『賢者』殿が、これほど頼りない少年だったとはな。王都の連中は、この北の惨状を、おとぎ話か何かと勘違いしておるらしい」
彼の侮辱は、フィン個人にというよりも、戦場の現実を理解せず『最高顧問』などという無責任な役職を与えて少年を送り込んできた王室そのものに向けられているのが、その声色から明らかだった。
「お待ちください、伯爵閣下!」
セラフィナが、無礼を承知で、ダリウスの言葉を遮った。しかし、ダリウスはそれを手で制した。
「セラフィナ様。あなたの気持ちは分かる。だが、ここは戦場だ。俺の背中には、ここで死んでいった兵士たちと、その家族の人生がかかっている。王都のままごと遊びに付き合っている暇はない」
その言葉に、セラフィナは唇を噛んだ。
彼女の正義も、フィンへの献身も、歴戦の指揮官が持つ「現実」という名の壁の前では、あまりに無力だった。
この軍事拠点において、彼女には彼を庇うための政治力も権限も、何一つないのだった。
ダリウスは、再びフィンを睨みつけた。
「少年。お前が本当に『賢者』であるならば、その力を、この俺に見せてみろ。できなければ、お前はただの飾りだ。すぐに王都へ送り返してやる」
その絶望的な言葉に、フィンは何も言い返せず、ただセラフィナのマントの後ろで、
小さく震えることしかできなかった。
その哀れな姿を見て、ダリウスは決定的な溜息をついた。
「…まあ、良い。王都が飾りを寄越したというのなら、こちらもそれ相応の『実』を用意するまでだ。セラフィナ様、お前の顔を立てて、その少年はここに置こう。だが、戦の指揮に口出しはさせん。ただの客として、大人しくしているがいい」
「伯爵閣下、それは…!」
「口答えは許さん、と言ったはずだ」
ダリウスは、セラフィナの抗議を再び冷たく遮ると、傍らに控えていた副官に顎でしゃくった。
「呼んでこい。俺が『保険』として雇った、腕利きの冒険者たちを」
副官が駆け足で去っていく。砦に、再び重い沈黙が落ちた。フィンにとっては、まるで処刑台の上で、次なる斬首を待っているかのような時間だった。
(冒険者…?)
その言葉に、フィンの脳裏に、かつて共に旅をした者たちの顔が浮かんだ。忘れたくても忘れられない、彼に最初の絶望を教えた、あの人たちの顔が。
(まさか…そんなはずは…)
やがて、重い足音が近づいてきた。
現れたのは、歴戦の風格を漂わせる、三人の冒険者だった。
先頭を歩くのは、大剣を背負った、屈強な体つきの男。
その後ろには、常に周囲を警戒する軽装の女。
そして最後尾には、知的な瞳のローブ姿の若い男。
その三人の姿を認識した瞬間、フィンの心臓が、氷の爪で鷲掴みにされたかのように軋んだ。
「紹介しよう。Bランクパーティー、『鉄の爪』の諸君だ」
ダリウスの声が、やけに遠くに聞こえる。
フィンの視線は、先頭の男に釘付けになっていた。
(…ガ、ルム…さん…)
声にならない声が、喉の奥で悲鳴を上げた。
そうだ。彼らこそ、ゴブリンキングとの戦いの後、フィンのことを綺麗さっぱり忘れて、去っていった冒険者パーティー「鉄の爪」本人だった。
「彼らこそ、この北の国境を守る、本物の力だ」
ダリウスが、これ見よがしにそう言った。
フィンは、何も聞こえなかった。何も、見えなかった。ただ、目の前に立つガルムの姿だけが、彼の世界を埋め尽くす。
どうして。なぜ、ここに。
神様、あんまりじゃないか。
忘れてくれたから、やっと前に進めると思ったのに。どうして、また僕の前に現れるんだ。
フィンの心が、音を立てて砕けていく。
その時だった。
「…ん?」
ガルムが、眉をひそめてフィンの方を見た。
ダリウスとセラフィナの間に立つ、怯えきった灰色の髪の少年。その姿を見た瞬間、ガルムの胸に、説明のつかない奇妙な感覚が突き上げた。
(なんだ…? このガキ…)
初めて見るはずの顔。だが、なぜか、ひどく懐かしいような、それでいて、胸の奥が締め付けられるような、疼くような痛みを感じる。
音のない映像が、脳裏を過った。何かの宝石に亀裂が走る、一瞬の幻。
それはあまりに唐突で、意味不明なビジョンだった。
「どうした、ガルム?」
隣に立つ、魔術師のエリアスが小声で尋ねる。
「…いや。なんでもねえ」
ガルムは、首を振りながら、フィンから視線を逸した。
だが、一度生まれた違和感は、まるで魂に刻まれた傷のように、消えることはなかった。
こうして、フィンにとって「二度目」の絶望となる、気まずい再会が、最悪の形で果たされたのだった。
ガルムさんたちお久しぶりです。。( '-' )




