1章 【 忘れられた英雄と、王都からの来訪者 】
短編というか前回の話はプロローグでしたね。。
1章までいきますm(_ _)m
ギルドの酒場は、エールと羊肉の匂い、そして冒険者たちの自慢話と笑い声で満ちていた。
この街に流れ着いて数週間。フィンは日雇いの荷物運びや皿洗いといった、誰の記憶にも残らない仕事だけを選び、嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜めて生きていた。それでよかった。
それが、よかった。
あの日――ゴブリンともオークともつかない、おぞましい化け物が蠢くダンジョンから生還して以来、彼は「鉄の爪」の三人と顔を合わせていない。それでいい、とフィンは自分に言い聞かせた。彼らはあまりに眩しく、あまりに危険だった。
その日も、フィンはギルドの隅で、冷めたスープを啜っていた。
彼の灰色の髪は、周囲の熱気の中ではひどく色褪せて見えた。ふと、聞き覚えのある快活な笑い声が耳に届く。視線を上げると、そこには酒杯を交わす「鉄の爪」――ガルム、セラ、エリアスの姿があった。
フィンの心臓が、小さく跳ねる。恐怖と、ほんのわずかな懐かしさ。
(関わってはいけない。彼らはもう、僕のことなど忘れているだろう。その方がいいんだ)
頭ではそう思うのに、足は勝手に立ち上がっていた。あの凄惨なダンジョンで、最後には彼を信じてくれた。無事に帰ってこられたのは、間違いなく彼らのおかげだ。礼の一言くらい、言ってもいいのではないか。
「……あの」
意を決して絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
談笑の輪の中心にいたガルムが、億劫そうに振り返る。
その屈強な戦士の瞳が、フィンの姿を捉えた。
一瞬、フィンの心に淡い期待がよぎる。
あの日の驚愕、畏怖、そして尊敬の眼差し。その欠片くらいは、残っているはずだ、と。
しかし、ガルムの瞳に浮かんだのは、見知らぬ人間に話しかけられた、ただの怪訝な色だった。
「誰だ、お前? 悪いが今、仲間と話してるんだが」
その声には、あの日の熱量は欠片もなかった。
隣のセラも、エリアスも、フィンを一瞥すると、興味を失ったように視線を自分たちのテーブルに戻す。そこには、フィンという人間が存在した痕跡など、どこにも残っていなかった。
淡い期待を抱いていた心臓が、ガルムの冷たい一言で鷲掴みにされた。セラとエリアスの、まるで道端の石でも見るかのような無関心な視線が、それを容赦なく握り潰す。
「……あ、いえ…。人違い、でした。すみません」
フィンは、壊れた人形のようにぎこちなく頭を下げると、その場から逃げるように踵を返した。
壁に手をついて、ようやく呼吸の仕方を思い出す。
(まただ。また、忘れられた。でも、仕方ないのかもしれない。思い出されるより、ずっといい)
脳裏に、過去の光景が蘇る。
以前いた街では、こうじゃなかった。あの時は、パーティーが壊滅して、僕だけが生き残った。彼らは僕のことを忘れなかった。そして、僕を指差して言ったんだ。「あいつは仲間を見捨てた卑怯者だ」「あいつがいると人が死ぬ。疫病神だ」と。
僕は、あの視線から逃げて、この街に来たんだ。
(忘れられるのは、寂しい。でも、憎まれるより、ずっといい……)
そう、頭では理解しているのに、胸の中心に空いた穴は、どうしようもなく冷たい風が吹き抜けていく。
フィンは、ギルドの壁に額を押し付け、静かに目を閉じた。
喧騒は、いつだってフィンの天敵だった。
耳の奥で遠ざかっていく冒険者たちの笑い声。それはもう、彼の存在を塗りつぶす活気ですらない。
フィンという個人を、なにもない、誰からも忘れられた、孤独という名の世界に、ただ静かに溶かしていく、空虚な響きだった。
その頃、ギルドの酒場では、「鉄の爪」のテーブルが再び笑い声に包まれていた。
ガルムが新しいエールを豪快に飲み干し、満足げに息をつく。
「しかし、今日のダンジョンは楽だったな。オークもゴブリンも、面白いように自滅していきやがった」
「ええ。まるで、何か大きな力に守られているかのようでしたね」
エリアスの言葉に、セラも静かに頷く。
ガルムは、ふと何かを思い出したように、遠い目をした。
「…そういや、あの『灰色の賢者』がいた時も、こんな感じだったな」
三人の脳裏に、顔も名前も思い出せない、だが確かに存在したはずの、伝説の幻影がよぎった。




