番外編:ある侍女の、奇妙な一日
番外編を投稿しました。
あの日フィンと関わったとある侍女の視点から書いて見ました。
エリーゼさん。。
私の名前はエリーゼ。北の田舎村で、病気の母と、たくさんの弟妹たちのために、この王都へ働きに出てきた。
必死に働いて、安酒場の皿洗いから、下級貴族の屋敷の下働きへ。
そして、幸運にも、その真面目さを買われて、憧れの王宮に侍女として上がることができたのは、半年前のこと。私の給金が、家族の命綱だった。
そんな私の元に、先日、侍女長から直々に辞令が下った。
「エリーゼ、あなたには明日から、新しく最高顧問になられた『灰色の賢者』様のお世話係を命じます」
その瞬間、私の頭は真っ白になった。
『灰色の賢者』様。
今、王宮でその名を知らない者はいない。オルドリン公爵暗殺という、王国を揺るがす大事件を、たった一人で解決に導いたという、謎の英雄。
しかし、侍女たちの間で囁かれる彼の噂は、どれも恐ろしいものばかりだった。
「その智謀は、悪魔のごとし。人の心を見透かし、駒のように操る」
「彼に逆らった者は、皆、不幸に見舞われるらしい」
「その瞳に見つめられると、魂を吸い取られるようだ」
私に与えられたのは、侍女としての出世の道などではない。
それは、失敗すれば即刻解雇され、家族への仕送りが途絶えることを意味する、あまりにも過酷で、危険な一番大きな仕事だった。
前の晩は、不安で一睡もできなかった。
しかし、同時に、私の心の中にはほんの少しだけ、淡い期待も芽生えていた。
もし、もしこの大役を無事に、そして完璧にやり遂げることができたなら。侍女長様のお目に留まり、侍女としての地位も上がるかもしれない。
そうすれば、母にもっと良い薬を、弟妹たちにもっと温かい服を買ってあげられる。この仕事を成功させることは、私の全てだった。
そして、運命の朝。
私は、震える手で朝食のワゴンを押し、賢者様の部屋の扉をノックした。
「し、失礼いたします、フィン様。朝食をお持ちいたしました」
中に入ると、部屋の主は、噂とは全く違う姿でそこにいた。
豪華なベッドの隅で、体育座りをしている、一人の青年。年の頃は、私とそう変わらないかもしれない。
嵐の空のような灰色の髪をした彼は、私の姿を認めると、びくりと肩を震わせた。その瞳は、まるで怯えた小動物のように、潤んでいた。
(この人が…灰色の賢者様…?)
緊張のあまり、私はガチャン、と音を立ててシルバーのフォークを床に落としてしまった。
「ひっ…! も、申し訳ありません!」
顔を真っ青にして、私が慌ててそれを拾おうとすると、彼はベッドから降りて、私より先に、そっとフォークを拾い上げてくれた。
「ほら」
「あ…ありがとうございます…」
彼は、とても静かで、優しい声で言った。「う、うん。よろしく、エリーゼさん」
噂にあったような、魂を吸い取られるような瞳ではなかった。むしろ、深い悲しみを湛えた、寂しそうな瞳だった。
彼にただの水をお願いされ、運んできた時、彼は「ありがとう」と言って、少しだけ、はにかむように笑った。
その瞬間、私の心の中から、彼への恐怖はすっかり消え失せていた。
(なんだ…。ただの、すごく優しくて、少し寂しがりな人じゃないか)
彼の怯えた瞳が、故郷に残してきた、一番下の弟の姿と重なって見えた。
私は、この人の力になってあげたい、と、心の底からそう思った。
その日の午後。
私は、洗濯室から乾いたリネンを運んでいた。心は、朝の出来事で、ぽかぽかと温かかった。
(フィン様、お昼はちゃんと召し上がったかしら。午後は、少しでもリラックスできるように、故郷の村で母が淹れてくれた、ハーブティーをお持ちしてみようかな…)
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、前方から、そのフィン様が、とぼとぼと歩いてくるのが見えた。
(あ、フィン様。お疲れなのかな…)
何か温かい言葉をかけよう。そう思って、私は彼ににこやかに微笑み、声をかけようとした。
しかし、彼が私に気づき、小さな、親しげな会釈を返してくれた、まさにその瞬間。
―――キィン。
まるで、頭蓋骨の内側で、一本の細い針が脳を貫いたかのような、鋭い痛みが走った。
「…っ!」
私は、思わずその場に立ち止まり、こめかみを押さえた。めまいがする。視界が、一瞬だけ、ぐにゃりと歪んだ。
(…? 今、私、何を考えていた…?)
胸の中にあった、あの温かい気持ちが、まるで冷たい水で洗い流されたかのように、すうっと消えていく。
何かを考えていたはずなのに、その「何か」が、思い出せない。まるで、記憶の一部が、乱暴に引きちぎられてしまったかのような、不気味な欠落感。
ふと顔を上げると、目の前に、例の『灰色の賢者』様が、少し困ったような顔で立っていた。
(しまった…! 賢者様の前で、立ち止まってしまうなんて…!)
私の背筋を、恐怖が駆け上がった。なぜ、私は、この方に、馴れ馴れしく微笑みかけようとしていたんだ?
朝の、彼と話したはずの、あの温かい記憶は、もうどこにもない。ただ、「この方は、とても偉い、恐れ多いお方だ」という、事実だけが、冷たく頭に残っていた。
私は、自分の無礼に驚き、慌ててその場で深々と頭を下げた。
完璧な、しかし全く心のこもっていない、ただ役職への敬意だけを示すお辞儀。
顔を上げると、賢者様は、なぜか、とても傷ついたような、この世の終わりのような悲しい顔で私を見ていた。
そして、何も言わずに、静かに私の横を通り過ぎていった。
私は、その場にしばらく立ち尽くした。
胸の奥に、何か、とても大切なものを失ってしまったかのような、奇妙な喪失感が残っている。
でも、それが何なのか、私にはどうしても、思い出せなかった。
ただ、彼のあの寂しそうな瞳だけが、そして、頭の奥で微かに響く、幻のような頭痛だけが、なぜか、私の心に焼き付いて離れなかった。
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