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幸運で不運な灰色賢者  作者: いちた
第二章 王宮の影と、最初の“神託”

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最高顧問の憂鬱


アストリア王宮の一室。


天蓋付きの豪奢なベッドに掛けられたシーツは、触れるのがためらわれるほど滑らかなシルクで織られていた。


窓を飾るベルベットのカーテンは陽光を柔らかく遮り、部屋の中は常に穏やかな光で満たされている。


壁には精緻な風景画が飾られ、机の上には金の装飾が施された羽根ペンが置かれている。


誰が見ても、それは王侯貴族に与えられる最高級の部屋だった。



その部屋の主であるフィンは、ベッドの隅で体育座りをし、膝に顔を埋めていた。

「……かえりたーい……」


彼の口から漏れたのは、およそこの部屋の豪華さには似つかわしくない、情けない呟きだった。



最高顧問。



それが、今の彼の役職だった。

あの日、セラフィナによってその地位を押し付けられてから、一週間が経つ。


彼の生活は一変した。

日に三度、豪華な食事が運ばれ、風呂の世話までされ、夜はフカフカのベッドで眠る。

しかし、フィンにとって、そこは金色の鳥籠以外の何物でもなかった。



コンコン、と控えめなノックの音がした。

「し、失礼いたします、フィン様。朝食をお持ちいたしました」


入ってきたのは、まだ年若い、新米らしき侍女だった。彼女は緊張で手元を震わせながら、食事の乗ったワゴンを押してくる。そして、テーブルに食器を並べる途中で、ガチャン、と音を立ててシルバーのフォークを床に落としてしまった。



「ひっ…! も、申し訳ありません!」

顔を真っ青にして、彼女は慌ててそれを拾おうとする。

その必死な様子に、フィンはかつての自分を重ねた。



「…あ、あの、大丈夫。気にしないで」

フィンがおずおずと声をかけると、侍女はびくりと肩を震わせた。フィンはベッドから降り、彼女が拾うより先に、そっとフォークを拾い上げた。



「ほら」


「あ…ありがとうございます…。私、本日よりフィン様のお世話係を拝命いたしました、エリーゼと申します。何分、不慣れなもので…」


「う、うん。よろしく、エリーゼさん」


エリーゼは、伝説の賢者と聞いて身構えていたが、目の前にいるのが、ただの気弱で優しそうな青年にしか見えず、少しだけ緊張が解けたようだった。



「フィン様は、朝はお紅茶でよろしかったでしょうか? それとも、お目覚めのジュースを…」


「あ、ううん、水でいいよ。ただの水で」


「えっ? しかし、そのような…」


「お願い。その方が、落ち着くから」


フィンのあまりに普通で、少し困ったような笑顔に、エリーゼは戸惑いながらも頷いた。


そのはにかんだ笑顔に、フィンの心にも、ほんの少しだけ温かいものが灯った。




その日の午後、セラフィナが会議で席を外している隙を狙って、フィンは決死の脱走を試みていた。


衛兵の交代時間、巡回ルートの死角。この一週間、彼が全力で考え続けたのは、この王宮から抜け出す方法だけだった。


(よし、今だ…!)


彼は庭師のふりをして中庭を横切り、通用門へと向かう。あと少しで、外の空気が吸える。


その時、彼の足元を、一匹の猫がさっと横切った。


「わっ!」


猫を踏むまいとして、フィンは大きく体勢を崩す。


彼の「幸運」が、無関係な命を守るために、最小限の力で発動した。


彼は無様に転倒し、手入れの行き届いた薔薇の植え込みに頭から突っ込んだ。


「――おお、これは見事な薔薇だ。手入れが行き届いておるな」



すぐそばから聞こえた声に、フィンは顔を上げた。そこには、数人の側近を連れた、壮年の威厳ある男性――アストリア国王が立っていた。



国王は、薔薇の茂みから顔を出したフィンを見ると、にこやかに言った。



「おお、フィン殿か。休日まで、王宮の植生の研究とは、実に熱心だな。その探究心、さすがは賢者殿だ」


「あ、いえ、これは、その…!」



フィンは、弁解もできぬまま、国王からの予期せぬ賞賛を浴びる羽目になった。

当然、脱走は失敗に終わった。



とぼとぼと自室への廊下を歩いていると、前方から朝の侍女、エリーゼがリネンを抱えてやってくるのが見えた。



(…少し、気まずいな)


フィンは、彼女に小さな、そして少し疲れた笑みを向け、軽く会釈をした。


しかし、エリーゼは彼に気づくと、ピタリと足を止め、その場で慌てて深々と頭を下げた。


完璧な、しかし全く心のこもっていない、ただ役職への敬意だけを示すお辞儀だった。


彼女が顔を上げた時、その瞳には、朝に見せた親しげな色はなく、ただ見知らぬ高官に対するような緊張と無関心だけが浮かんでいた。


(ああ…まただ。やっぱり、僕は人に覚えてもらえないんだ。せっかく、少しだけ普通に話せたと思ったのに。仕方ない。影が薄いのは、昔からだから…)



せっかく灯った小さな温もりは、あっけなく吹き消されていた。



フィンの部屋に戻ると、そこには普段の冷静さを失い、血の気の引いた顔をしたセラフィナが待ち構えていた。


そのただならぬ雰囲気に、フィンの心臓が跳ねる。


「賢者殿ッ!」


彼女は、絶望に打ちひしがれたような顔でフィンの両肩を掴むと、信じられない力で前後に揺さぶり始めた。



「き、緊急事態です! 昨夜、オルドリン公爵が、ご自身の寝室で…! 何者かに暗殺されました!」

「な…に…を…いって…るか…わか…りませ…」


激しく揺さぶられ、フィンの思考は完全に停止した。目が回り、セラフィナの言葉は断片的にしか耳に入ってこない。


ただ、目の前の少女が必死な形相で何かを訴えていることだけは分かった。


(な、なんだかよく分からないけど、すごく大変なことらしい…。こういう時は、とりあえず頷いておけば…)


フィンは、激しく揺れる頭で、ただこくこくと頷くことしかできなかった。


その反応を見たセラフィナの瞳に、一瞬だけ、強い光が戻った。


彼女はフィンの肩を揺さぶるのをやめ、彼の両手を固く握りしめた。


「…さすがです、賢者殿。この一大事に、少しも動揺せず、冷静に状況を分析されていたのですね。そして、私の報告を聞き、即座に協力すると頷いてくださるとは…!」



フィンの内心とは裏腹に、セラフィナの勘違いは、またしても完璧に成立していた。



(…覚えて、いる)


フィンは、自分の手を固く握るセラフィナの瞳を見つめた。



(さっきのエリーゼさんのように、僕のことを見知らぬ誰かのように扱ったりしない。この人の目には、ちゃんと『フィン』という人間が映っている)



無茶苦茶で、怖くて、今すぐにでも逃げ出したい。


でも。


(この世界で、たった一人だけ。僕のことを覚えていてくれる人が、いる)



その事実に、凍てついていた心の奥底で、小さな、小さな灯火がともるのを、フィンは感じていた。



王宮を揺るがす大事件。



それは、フィンが望んだ平穏とは、最もかけ離れた現実だった。そして、その絶望的な現実の中で、初めて見つけた、ちっぽけな希望でもあった。

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