第8話:直江状──挑まれし天下人
慶長五年──新春の大坂城。
天下は一見、家康のもとに平穏を装っていたが、その裏で、北方の雲が次第に濃さを増していた。
堀秀治──越後に入封されたこの新興の大名が、大坂の家康のもとに密書を届けた。
「上杉景勝、謀反の兆しあり──」
その文には、会津における急速な城郭整備、兵糧集積、人員再配置など、
明らかに戦支度と見える動きが列記されていた。
家康は即座に動いた。まず、老臣・伊奈昭綱を問罪使として会津へ派遣。
「謀心無きこと、上坂にて自ら示されよ」
だが、景勝は応じなかった。理由は明快である──
「領国の復興と整備に追われ、容易に国を空けることはできぬ」
家康はそれを“拒絶”と受け取った。
次に家康は、西笑承兌に筆を取らせる。
「このたびの振る舞い、もし謀反の心なきにおいては、起請文にて誓約を立て、即刻上坂せよ」
書状を託された第二の問罪使が会津に赴き、上杉家へその一書を届けた。
──そして数日後。
届いた返書を見た家康の顔色が、変わった。
それは、重臣・直江兼続の手による十八条にわたる長文の抗弁。
・堀秀治の訴えは誣告に等しい
・領内整備は領主の務めであり、謀反にあらず
・上杉は常に豊臣家に忠誠を誓っており、むしろ不穏なのは徳川家である
と論理的に反論が連ねられ、最後にはこう結ばれていた。
「政道、徳を失えば、いずれその果てを迎える。上杉家は、道理に従うのみ」
それは挑戦状であり、警鐘であり、まぎれもない拒絶の意思表示だった。
家康は激怒した。
「もはや言葉ではない──剣で答えてもらう他あるまい」
こうして、家康は征伐の大義名分を手にした。
EDO通信ログ──「関東広域命令:動員計画発動、上杉領制圧開始準備」
「三成派、直江状を受けての反応:不穏な諸侯の動き加速」
上杉討伐令が、関東から発せられた。
東西の均衡は、いままさに、崩れ落ちようとしていた。