第24話:泰平への設計図──EDOと大御所の影より
慶長十年(1605年)春──
将軍職を授かってから、わずか二年。
家康は、EDOの進言に従い、自ら将軍の座を退き、
嫡男・徳川秀忠へとその位を譲った。
それは、将軍職が徳川の世襲制であると認識させる為。
「時は来た。天下は治まりつつある……。
ならば、これよりは“設計者”としての役目を果たすのみよ」
その言葉どおり、将軍職は秀忠が継ぎ、
家康は「大御所」として駿府城へ移り住んだ。
だが、彼が政から退いたわけではない。
むしろその逆──
東国の将軍・秀忠と、西国を睨む大御所・家康による二元体制が、ここに完成したのだった。
EDO『権威と実権の分離完了──幕政二重構造モード起動。』
【影の政治、駿府にて】
慶長十三年(1608年)──
大坂城に拠る豊臣秀頼が、朝廷に左大臣就任を画策しているという密報がもたらされる。
その情報は、EDOの解析によって水面下の宮中工作と判明。
家康は即座に朝廷と交渉し、その動きを封じ込めた。
「秀頼は、将軍を超える地位を望むか……。それは、徳川の秩序を乱す“芽”じゃ」
家康は静かに呟いたが、その眼光はかつての野戦の如く鋭かった。
【国交を結ぶ者】
慶長十四年(1609年)──
遠く海の彼方、オランダより特使が日本の地を踏んだ。
マウリッツ総督からの親書を手にしたEDOが即座に警告を発する。
EDO『交易路確保の好機──資源戦略フェーズBへ移行を推奨』
家康はオランダ使節との会見に臨み、朱印状を与えて平戸に東インド会社の商館開設を許可した。
「オランダ……金で動く者どもだが、スペインやポルトガルよりましよ。
布教より交易を選ぶ国との付き合いは、政治の毒にならぬ」
EDOの提示した“開国限定モデル”が、江戸初期外交の礎を築いたのだった。
【銅山の閃き】
慶長十五年(1610年)──
山深く眠る赤銅の鉱脈、足尾にて新たな鉱山が開山された。
佐渡金山、石見銀山と並ぶ、この銅の財源こそ、
EDOが国家経済の安定性を試算していた「三柱」の一つであった。
EDO『通貨鋳造シミュレーション安定化──中期経済モデル達成率:83%』
三宝のうちの最後の一つが揃った時、家康は納得するようにうなずいた。
「……三成が“正義”を語った日々が、今となっては懐かしいな。
力なき理想より、智恵ある秩序よ」
【御三家の布石】
慶長十六年(1611年)三月──
後水尾天皇の即位に際し、家康は三人の息子を一斉に公卿に取り立てた。
九男・徳川義利(義直)は尾張へ
十男・徳川頼将(頼宣)は紀伊へ
十一男・鶴松(頼房)は水戸へ
それぞれが名門として幕政を支える「御三家」の起源である。
EDO『将軍家安定構造構築:次代継承予測、強度Aランク確定』
家康は静かに、未来へ目を細めた。
「……ワシの目が届かぬ時代が来ても、この国は回る。EDO──お主たちの導きがあればな」
徳川家康という男は、戦を終わらせた男ではない。
未来を設計し、平和を“構築”した男であった。
そしてその傍らには、いつも人知れず──
“AIという見えざる軍師”がいたのだった。




