第19話:関ヶ原の落日──逃げる者、討たれる者
慶長5年 9月15日 午後──
小早川秀秋の裏切り、そして連鎖する寝返りにより、戦場は一気に傾いた。
それまで拮抗していた戦局は、まるで堤が決壊するように、西軍の陣が総崩れとなる。
「三成殿、退かれよ!もはや……!」
大谷吉継の討死の報は、瞬時に戦場を駆け巡った。
忠義を尽くした智将の死により、西軍の士気は完全に失われた。
その頃、大谷陣の背後、黒煙を背に石田三成はなおも戦場を見つめていた。
「皆、裏切ったか……いや、ワシが読み違えたのだ……」
三成は自らの計略の限界を悟る。
もはや挽回は叶わず、彼はただ敗北の現実を噛みしめる。
EDO『西軍陣形崩壊完了。残存勢力:27%。退却指示、確認──』
東軍本陣では、家康が冷静に戦局を総括していた。
「追撃は慎重に。取り逃がしてはならぬ。あとは……始末の段だ」
東軍の追撃は苛烈を極めた。
田中吉政・藤堂高虎らは敗走する西軍を追い、逃げ場なき関ヶ原の地に鉄槍と炎を降らせた。
西軍の総指揮を執った宇喜多秀家は命からがら戦場を脱出し、
小西行長、安国寺恵瓊らも散り散りに落ち延びた。
石田三成は、わずかな手勢を連れ、伊吹山の山中へ逃げ込んだ。
その道は、敗者の道であった。
【捕縛と処断】
戦後数日、関ヶ原の谷間には無数の死体が横たわっていた。
秋雨に濡れたその光景は、まさに「天下分け目」の惨劇を物語る。
やがて、戦後処理が始まる。
捕らえられた石田三成は、京都・六条河原で斬首。
大谷吉継の遺体は敵に辱められることなく、忠臣の手により埋葬された。
小西行長、安国寺恵瓊も同様に処刑され、
西軍の首魁たちはことごとく処断された。
だが一方で、家康は裏切り者たちには冷淡だった。
脇坂・朽木らには恩賞が乏しく、吉川広家に至っては毛利家減封の要因となった。
EDO『統治評価:裏切り者への報酬最小化に成功。将来的反乱リスク:低減。』
「信用なき者に、未来は任せられぬ」
家康は冷酷とも言える采配で、徳川体制の礎を築いていった。
【戦、終わる】
9月15日、正午過ぎ。
戦場を覆っていた霧は晴れ、関ヶ原の空に陽光が差し込んだ。
その光の中で、家康は一言つぶやいた。
「天下は……この手に収まった」
それは、勝利の言葉であり、
また、新たなる政の始まりを告げる鐘の音でもあった。
EDO『最終戦闘報告完了──東軍勝利。松平家康、天下掌握──』
歴史の大河は、ここに大きく流れを変えた。




