第12話:西軍布陣──運命の関ヶ原へ
慶長5年(1600年)7月25日、小山評定の翌日── 徳川家康は、
三成と吉継の挙兵を受けて、ただちに会津征伐を中止。
すでに会津方面へ進軍していた諸将に反転を命じ、西への進軍を開始させた。
自身も追って江戸を出る手筈だったが──その出立は突然、止まってしまった。
その理由は、予期せぬ事態の勃発である。
毛利輝元が突如として大坂城に入り、西軍の盟主を名乗ったのだ。
しかも、豊臣秀頼をその手に置き、秀頼の母・淀殿、
そして三奉行(前田玄以・長束正家・増田長盛)までも味方に引き入れた。
さらには五大老の一人、宇喜多秀家までも西軍に与した。
この動きにより、西軍は一気に政治的正統性を帯びるようになる。
三奉行の名で発布された「内府違いの条々」という弾劾状では、
家康の専横と背信が理路整然と列記されていた。
「豊臣の家を守る忠義者こそ正義、内府徳川家康こそ反逆者である」
という論理が展開され、全国の大名へと配布されたその文書は、
一見すると西軍の正当性を際立たせ、家康をまさに『賊軍』として描いていた。
それを読んだ者の多くが── 「今回ばかりは、正義は西軍にあるのではないか」
そう錯覚しても不思議ではなかった。
この瞬間、家康は政治的にも道義的にも窮地に追い込まれたのである。
家康は焦燥に駆られていた。
「我に従い先に西上した豊臣系の諸将──彼らは果たして、
この情勢を見ても、なお家康のために戦ってくれるのか……?」
疑念が渦巻く中、さらに深刻な問題が浮上する。
北には依然、敵対する上杉景勝。
そして、去就不明の常陸・佐竹義宣。
いつ徳川領内に侵攻してもおかしくはない。
そればかりか、家康自身が“逆賊”とみなされた今、 世論・民意の風向きまでも変わり始めていた。
こうして、東西両軍の構図は明確となり、
日本全土を揺るがす決戦へと、歴史の針は大きく動き出した──




